第14話
突然、思いもしなかったことが起きた。だがロストンはいつかこの時が来るのを予感し、ずっと待っていた。
クリスマス・ホリデーまであと一週間という時期だった。ロストンは社内の資料室で仕事に必要な調べ物をしていた。参考になりそうなファイルを取り出して、ジェーンが以前メモを置いて行った思い出のデスクで読んでいると、斜め向かいの席に誰かが座った。
顔を上げると、オフィールドだった。
ロストンは一瞬驚いて、自分の鼓動が激しく打つのを感じた。ついに二人で話し合う機会が回ってきたのだ。
だが、いざ待ち望んでいたその時が訪れると、頭が真っ白になり、身体が固まって、どうすべきか分からなかった。周りには誰もいない。声をかけるべきか。
彼を見つめながら迷っていると、ふと、二人の目が合った。
目を逸らすのも不自然だ、と思い、ロストンは勇気を出して話しかけた。
「あの、失礼ですが……」
突然の声掛けにオフィールドが少し驚いた表情をした。
「はい、なにか?」
「たしか、社外取締役でいらっしゃるミスター・オフィールドですよね。わたしは校閲部のロストン・リバーズと申します」
彼は静かに答えた。「はい、オフィールドですが」
緊張のあまりロストンは一瞬言葉につまった。オフィールドが自分を直視しながら次の言葉を待っている。
ロストンは急いで、会った時に話の糸口にしようと準備していた話題を振った。
「先日、ここでオープンスピーク関連のあなたの報告書を読みました。大変興味深い内容でした」
「あ、あれですか……」話しかけられた理由が分かったからか、オフィールドの顔が少しだけ和らいだ。「思いついた点を少しまとめたぐらいのものですが」
だがまだ少し警戒心が見て取れる。ロストンは急いで言葉をつないだ。
「いや、オープンスピークのメリットと問題点を的確にご指摘されていると思いました。わたしだけの意見ではありません。先日、お知り合いだと思いますが、最近までメディア調査部にいた友人のハイムも、その報告書が素晴らしく、とても的を射ていると言っていました」
ハイムと友人であることを示せば、自分を信頼してもらい、警戒心がほぐれるのではないかとロストンは考えた。社外取締役であるオフィールドは、会社の顧問であったハイムと近い間柄であるはずだった。
案の定、共通の知人がいることを知って安心したのか、オフィールドの表情がもっと和らいだ。
「ハイムとお知り合いでしたか。彼がそう言ってくれたとは、嬉しいですね。その分野の第一人者ですからね。あなたもオープンスピークに高いご関心をお持ちのようですね」
「はい、校閲部の仕事と密接に関わりますから……」
ロストンは、次の言葉を探した。そして、かねてから報告書に対して持っていた疑問をぶつけてみることにした。オフィールドの本当の姿を知るヒントになるかもしれないと思えたからだ。
「実は一つ気になったところがありまして、報告書を注意深く読むと、文章のなかでオープンスピーク用語に変換されていない単語がいくつかあったのです。どの単語だったのか今すぐには思い出せないのですが、あれは意図されたものなのでしょうか?」
オフィールドの報告書は、オープンスピーク用語の導入をめぐる課題を淡々と指摘する内容で、オープンスピークそのものを肯定も否定もしないものだった。だが、内心否定的であったとしても、それを露わにすれば異端の烙印を押されるので、あからさまには否定できないだろう。だから、導入をめぐる問題点を指摘しながら自らもオープンスピークの使用を拒むことで、間接的にオープンスピークを否定したのではないか、とロストンは踏んでいた。
「いや、気づきませんでした」オフィールドが答えた。「昔から使っていた言葉遣いが無意識的に出てしまったのかもしれません。オープンスピーク辞書の第二版が出版されて間もないのに、すでに第三版の編纂も進んでいますし、ついて行くのが大変です」
オフィールドはそう言うと、何かを思いついたような表情で付け加えた。
「校閲部でお仕事をされているのだから、細かいところまで熟知されていると思いますが、今は時間がないので、よろしければ今度、どの単語だったのか教えて頂けますでしょうか?」
「はい、是非とも」とロストンは答えながら、また改めて会う口実ができたと思った。
ただし、今のオフィールドの言い方からは彼が異端かどうかを判断できなかった。たしかに、知り合って間もない人に自分が異端だと言うわけはない。だがお互いが仲間であることを言葉ではっきり確認しなければ話は進まない。まずはこちらから自分のことを打ち明けないと、やはり向こうも打ち明けてはくれないだろう。でも自分から打ち明けるとしたら……
考えを巡らせていると、オフィールドが言葉を続けた。
「そういえば、未完なので出版される前に修正加筆があるかもしれませんが、ハイムを通して第三版の一部分をコピーでもらっているので、よかったらご覧になりますか? 動詞の数がかなり増えていますが、事前に目を通しておけば、出版後の校閲の仕事にいち早く活かせると思います。私の間違いをご指摘して頂くお礼ということで、お見せしますよ」
そして、また何かを思いついたような表情で付け加えた。
「そうそう、出版前に世間に情報が出回ると混乱が起きるので、ファイルで送信するとかコピーを取ることはルール違反になっています。あくまでも管理職がオープンスピークの動向を確認するためだけに内密に配られたものですから。お礼のつもりだったのに申し訳ないですが、コピーはお送りできないので、現物を見にお越し頂く形になってしまいますね」
ロストンは彼の厚意を嬉しく思った。
「いいえ、構いません。では、最上階の役員のオフィスに行けばよろしいでしょうか。先ほど申し上げた単語を確認してからご都合の宜しい時にお伺いします」
「ええ、オフィスは最上階にあります。スケジュールを確認してから、あとで秘書室を通して校閲部にお伝えしましょう」
「はい」
そう答えた直後、ロストンは、お互いが異端であるのを確かめるためにはもっと長い話し合いの時間が必要であり、その点を予め匂わせておく必要があるのではないかと思った。彼は急いで言葉を足した。
「あと……オープンスピークの問題点とも関係しますが、今のメディア業界のあり方について私は疑問をもっています。せっかくの機会なので、この業界のトップの一人である貴方に、その点についても話を聞いて頂けたら嬉しいです」
オフィールドは少し不思議そうな顔をした。
「いいですよ、わたしでよろしければ」と彼は答えたが、何かを考えるように少し黙り、また口を開いた。
「先ほどは上のオフィスで、という話でしたが、私は社外取締役なので会社に常駐しているわけではありませんし、ここのオフィスもあまり広々とはしていません。それに、オフィスに隣接する秘書室の人達も未完のオープンスピーク辞書が門外不出の資料であることを知っていますから、あまり人目のあるところでお見せしない方が良いかもしれません。そこでですが、せっかくですから、私の家でゆっくり話しませんか? 私は社員たちの会社や仕事に対する率直な意見を聞きたくて、家によく招待しているんですよ。まず私の書斎でじっくり資料を見て頂いて、その後、私の単語の誤用について教えて下さい。それから、食事でもしながら、メディア業界の在り方について話しましょう」
思ってもみなかった突然の提案に、ロストンは驚いた。だが同時に、絶好のチャンスだと思った。
「ご迷惑にならないのであれば、是非お伺いしたいと思います」
「一番近い日だと……今週の土曜はどうですか?」
「空いています」
「待ってください、住所をお渡ししましょう」
オフィールドは自分の手首に巻いているスマートスクリーンに向かい「半径二メートル内に連絡先送信」と告げた。すると、デスクの上に置いてあったロストンのスマートスクリーンにオフィールドの住所と電話番号とメールアドレスが浮かび上がった。
「午後のご都合のよろしい時間にお越しください。では、そろそろ次の仕事があるので、失礼します」
オフィールドは別れの会釈をすると、デスクの上に置いてあった自身の資料をとり、資料室から出て行った。
おそらく彼も何かを読むつもりで資料室に来たはずだった。邪魔をしてしまった、とロストンは思った。でも自分にとっては大きな収穫だった。
だがそこでロストンはふと疑問に思った。資料を見せるために家に招待するのは何だか不自然ではないだろうか? 他にも場所はあるはずだ。ならば、もしかしたら資料を見せるというのは建前であって、オフィールドは他の理由で自分を自宅に招こうとしたのではないか? もっと内密の話をしましょう、という間接的なメッセージではないだろうか? 報告書の中でオープンスピークを使わなかったのを指摘した自分の真意を汲み取って、「お察しのように、私は反体制派ですよ」と間接的に伝えてくれたのではないだろうか?
不思議な展開だった。ロストンは今までの人生とは違う何かが起きているのを感じた。今まで自分がしてきたのは体制に対する精神面での反抗だったが、自分は今、それを超え、具体的な行動に踏み出そうとしている。
この先に何があるのかまったく予想できず、不安な気持ちが彼の中で頭をもたげていた。だが同時に、湧き上がる喜びのようなものもある。いや、より正確に言うなら、生まれ変わったような、生命力が漲るような感覚だ。オフィールドと話している時、自分は緊張感と同時に、生き生きとした心の躍動を感じたのだ。
まるで、分娩室で生まれてくる赤子を見る時のように。
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