第12話



 ロストンは電器店の二階の部屋を見渡した。窓際にダブルベッドがあり、その上には花模様の毛布と長枕が用意されている。木製テーブルの上には、彼が前回訪れたときに購入したスペースドームが置いてあり、壁には埋め込み式の暖炉があった。そしてその傍らには”エタノール″と書かれたジェリ缶がある。薪を入れる古いタイプではなく、エタノールを使う暖炉だった。彼は使い方がわからなかったので、あとでミスター・アーリントンに教えてもらおう、と思った。部屋の片隅には小さなキッチンと収納もある。時刻は夜の七時二十分。あともう少しで彼女が来ることになっている。

 これは賢明な方法だ、とロストンは考えていた。彼女を守るために必要なやり方のように思われた。これは、二人の関係を世間から隠すための一番よい方法ではないか。

 予想通り、ミスター・アーリントンは部屋を貸すことに積極的だった。家賃の交渉が難しかったが、大きな負担にならない程度で折り合いがついた。住居としてではなく、友達をたまに呼んで短い時間を過ごすために借りたいのだと説明すると、ミスター・アーリントンは変な詮索をせず、「プライバシーには関与しないのでご自由に使ってください」とだけ答えたのだった。

 ロストンの考えはこうだった。彼女と外で会うのは、いくら注意をしてもリスクが高い。実際、外にいる間、彼女がサングラスとマスクをしているにも関わらず、佇まいや雰囲気だけで彼女だとわかるのか、声をかけてくるファンが何人もいた。”遠距離デート″で離れたところにいたから大丈夫だったが、もし声もかけずに尾行するファンや記者がいたら、いつも彼女の周辺にいる自分の存在に気づくかもしれなかった。

 彼女の家で会うのも駄目だった。彼女の家をファンやパパラッチはすでに把握しているので、自分が行くとすぐバレてしまうだろう。自分の家に彼女が来るようにしても、尾行されていたら終わりだ。ホテルで会う場合も従業員たちの目がある。高級なホテルでも芸能人の密会がリークされることはよくある話だった。

 だが、ミスター・アーリントンの電器店ならば、二階に借家があるなんて誰も想像しない。電器店に入るところを目撃されてもただ家電製品を買うために入ったようにしか見えない。また、二人の部屋は表通りの反対側に位置していて、部屋の窓も通りからは見えない。もし彼女が店に入ったまま出て来なくなったのを怪しむ者がいたら、尾行に気づいて裏口から出ていったのだとミスター・アーリントンに口を合わせてもらえばいい。

 一つの問題点は、彼女がトラディット地区に出没することで正統派ではないと人々に疑われる危険性だった。だがそれに関しても、ミスター・アーリントンの店は製品に組み込まれた監視機能の検査を売りにしているので、有名人である彼女は盗撮と盗聴を恐れてこの店で製品を購入したのだ、と言い訳することができる。

 あともう一つ気をつけるべきなのは、ミスター・アーリントンの口が滑って彼女のことを周囲に漏らす危険性だった。でも、二階に通してもらう時に常にマスクを着用していれば彼女が誰だかおそらく気づかないだろう。それに、建物の周りに人が完全にいない時は、店の中の階段からではなく店の横の非常階段を使えばミスター・アーリントンと会わずに二階に上れる。

 色々シミュレーションをして考えを巡らせていると、ロストンはふと、窓の外で誰かが歌っているのに気づいた。カーテンの陰に隠れながら外を覗いてみると、隣の建物の二階の窓が開いていて、そこから中年の女性が見える。普通はロボットに任せるような拭き掃除を自らやっていた。しかも歌いながら。


 思いは叶うはず 恋の予感がするから

 二人の瞬間は 永遠につづく

 あの目 あの言葉 あの夢が

 わたしの心を いつも満たしてくれる


 知らない曲だったが、最近のヒット曲とはどこか掛け離れている感じがした。最近の曲の大半は作曲、作詞、歌のすべてが人工知能によるものだった。人工知能が現時点での人々の好みを分析し、それを反映したメロディーと歌詞と歌声を算出するのだ。歌うのが機械とはいえ、ボーカロイドの進化によって、本物の人間のような綺麗な声が再現可能だった。

 しかし隣の建物から聞こえてくるあの歌は、今の流行をまったく反映しない、時代遅れのメロディーだったし、声も素人の中年女性のものだった。

 でも、いや、だからこそ、ロストンはそれをとても美しく感じた。部屋にはノイズキャンセリング機器が備わっていないので、その歌声に加え、近くで遊びまわる子どもたちの叫び声、遠くから響いてくる飛行機の音など、色々な音が混ざり合っていた。

 賢明な選択だ、と彼は改めて思った。ここでなら誰にも知られずに彼女と過ごすことができる。

 ただ、時間が問題だった。ここ二週間は二人とも仕事が多く、なかなか会えない日々が続いていた。それが今夜ようやく、二人してじっくり過ごす時間をもうけられたのだ。

 ロストンは、今日の約束をした何日か前のことを思い出した。

 年末のショッピングシーズンということもあって街道は普段より多くの人でごった返していた。いつも通りジェーンと少し離れたところにいた彼は、人混みに遮られて彼女の姿をほとんど見ることができなかった。近くにいるのにその姿を見ることが出来ないことに彼はもどかしさを感じていた。

 その時、彼女が電話越しに囁いた。

「時間がとれそうよ、来週」

「仕事が入っていたんじゃなかった?」

「取り消しになったの」

 ロストンは突然の朗報に喜んだ。ジェーンと出会って数週間、彼女に対する彼の気持ちは深まっていた。いつしか彼女は自分にとって必要不可欠な存在になっていた。だから電話越しに一緒に過ごせると言われたと時、心から嬉しかった。

 だがちょうどその瞬間、道端の人混みに遮られ、二人はお互いの姿がしばらく見えなくなった。その時にロストンは、二人だけで過ごせる安全な場所がもしあればこうしたもどかしさを繰り返し味わわなくて済むのに、と思ったのだった。同時に、それまでになかった彼女への深い執着心のようなものが自分の中で湧き上がるのを感じた。

 そしてミスター・アーリントンの部屋を借りてみてはどうか、と思いついたのだった。

 さっそくそれについて話してみると、ジェーンも意外とすんなり同意してくれた。彼女ももどかしさを感じていたし、その方が安全だと考えたようだった。

 ここ数日間のことを振り返っているうちに、ロストンの頭にふと、博愛園のことが思い浮かんだ。考えないようにしようとしても、いつも意識にのぼってしまう。

 もしかしたら将来、連中に監禁されてしまうのではないかという不安が彼にはあった。有名人の恋人であることが知られれば、自分のことがファンやメディアに徹底的に調べ上げられ、匿名掲示板に投稿した内容が暴露されるのではないか、と。今までの投稿を消しても、そのキャッシュ情報はどこかに残っていて、永遠に消えない……

 その時だった。メッセージが携帯スマートスクリーンに入った。近くまで来たらしい。

 彼女には、店の横の非常階段をのぼれば二階への入り口があると伝えてある。

 少し経つと、階段を上がってくる靴音が聞こえてきた。

 ロストンが部屋のドアを開けると、ジェーンが廊下から現れた。外の寒さでほっぺと鼻が赤くなっている。二人は思いっきりハグをした。

 彼女は中を見渡すと、驚いた表情をした。しばらくヴィクトリア風の家具を見て回り、好奇心で目を輝かせた。すると、何かに気づいたかのように振り返り、手に持っていた、随分と大きめの紙袋を持ち上げた。

「何を持って来たかわかる? たぶんあなたが好きなんじゃないかと思って」

 彼女は開けた袋に手を入れて、中のものを取り出した。最初に取り出したのは、パックに入ったローストビーフ。次はパンとジャム、そして最後に小さいプラスチック容器。彼女がその蓋を開けるとなんだか懐かしい香りがした。彼はすぐにその正体を思い出した。

「コーヒーだ。小さい頃に売っていた安物のインスタントコーヒー!」

「もう普通のお店では売ってないものよ。みんな高級志向になっちゃったから」

「どうやって手に入れたんだ?」

「これを作っていた会社がむかし倒産して、工場にあった機械を安値で売り払ったみたいなんだけど、それがこの地区に流れ着いたの。でもこういうコーヒーはもうそんなに売れないから、この地区のなかで小規模で売っている。あと、紅茶も買ってきたわ」

 ロストンは、彼女が取り出した紅茶を眺めた。

「それは、なんだか本場のやつみたいだね」

「うん。最近は本場の紅茶が安くなったから。関税を撤廃したからだとかニュースで言ってた」

 そう言うと、彼女は何かを思い出したような表情をした。

「そうだ、ちょっと後ろ向いてて。そのベッドの向こう側がいいかな。声をかけるまで振り向かないでね」

 ロストンは言われた通り、彼女に背を向けてベッドに座った。そしてカーテンの隙間からぼんやりと外を眺めた。

 隣の建物の部屋では、中年の女性が相変わらず家事をやりながら歌っている。窓を閉めているのであまりよくは聞こえなかったが、耳を澄ますと、寒い冬の大気を伝ってこの部屋にも微かに聞こえてくるのだった。


 心地よさに つつまれて

 いつまでも きっと忘れないわ

 今感じている 嬉しさと切なさは

 時とともに 消え去っていく


 甘酸っぱくて、嬉しいけど切ない、という矛盾した気持ちを歌っていた。歌詞だけでなく、メロディーも軽快さの中に寂しい旋律が混ざっていた。矛盾しているが、それが人間らしい心なのかもしれない。最近の流行歌が決まって人工知能が作った歌であるということを思い出して、彼は不思議な気がした。だがそれはもう世間では不思議なことではなく、自然に受け入れられていることだった。

 部屋の隅にある小さな洗面台から水が出る音がしばらくしては、止まった。そして「もういいよ」という声がした。

 彼は振り向いた。予想していたのは、何かに着替えたジェーンの姿だったが、そうではなかった。化粧をきれいに落として、髪をうしろに結んでいたのだ。

 いつもより唇の色は薄く、チークの紅色も消えていて、少しだけそばかすが見える。くっきりメイクだった目は、黒々としたマスカラが落ちて、落ち着いた自然な目になっていた。

 おそらく彼女は素の自分の姿を見せたかったに違いない。化粧をしている時も綺麗だったが、すっぴんの姿には人工的ではない在りのままの美しさがあった。化粧を落とすだけで、彼女は大人の女性から少女に様変わりした気がした。うしろに結んだ髪も、少女らしさを際だたせていた。

「自然体だね」彼がにやけながら言った。

「うん。この部屋では自分の本当の姿を見せようと思って。ばっちりメイク、ばっちりきめた服装じゃなくて。どう? 化粧を落としたら、失望した?」

「ううん、むしろこっちの方が好きかもしれない」

 彼女は嬉しそうな顔をした。

 それから二人は、夕食をしながら楽しいひと時を過ごした。飾り気のない彼女は笑ったり、仕事のことで愚痴ったり、寛いだ表情をした。

 カーテンの隙間から月が見え、辺りは静まり返っていた。

 彼はぼんやりと考えた。こうして隠れ家で過ごすのは彼女が有名人だからというのもあったが、二人がトラディットに共感する非正統派なのを隠すため、という理由も大きい。過去には、それを隠すために怯えたり、正統派のように装って自分の心を偽ったりしなくても良い時代があったはずだ。

「コーヒーいれようか」

 ジェーンが、考え事をしているロストンの顔を覗き込むようにして言った。

「うん、ほしい。ありがとう」

「今日は帰らずにゆっくりできるからね」彼女はそう言うと、また何かを思い出したような表情をして「あ、そうだ、ちょっと待ってて!」と付け加えた。

 彼女は立ち上がって、バッグから自分のスマートスクリーンを取り出した。そしてロストンと自分の顔がスクリーンの中におさまるように持ち上げ、シャッターを押した。

「なに?」ロストンが驚いてきいた。

「記念写真よ。ここではじめて過ごす日だから」

 その言葉に、彼は嬉しかったが、なんだか複雑な気分になった。そしてまた考え込むような表情をした。

「どうしたの?」

「うん、そう言われてみれば、この部屋は僕たちの記念の場所になるんだね」

「二人で撮ればどこでだって記念写真だよ」ジェーンが椅子に座りながら言った。「今は、外で二人の写真を撮るのは難しいけどね」

「そうか……」ロストンは自分の顔が少し緩むのを感じた。

「どうしたの? 難しい顔をしたり、優しい顔をしたり」

「うん……」彼は少し黙ってから、恥ずかしそうに口を開いた。「昔から記念写真っていうものに少し憧れていたんだ」

 彼女は不思議そうな顔をした。

「今まであまり記念写真を撮らなかったの?」

 ロストンは返す言葉を探った。

 その時に彼が感じたのは、それまでにも時折感じたことのある、自分が何か大事なことを忘れているという感覚だった。記憶の壁の向こう側に何かがあるのだが、壁を打ち破ることができず、思い出せない。いくら過去を辿っても、明るみに出すことができない。その感覚が再び湧き上がってきたのだった。

「ごめん」彼が言った。「何でもないんだ。記念写真が撮れて嬉しいってことさ」

「だったら、これからいっぱい撮ろうよ。二人の思い出をいっぱい作ろう」そう言って、彼女は微笑んだ。

 二人は再びテーブルに戻り、沸いたコーヒーをいれた。

 ロストンがそれを口にすると、懐かしい味がした。安くて健康に悪そうなコーヒー粉と粉末のプリム、そして人工甘味料のサッカリンが混ざった、忘れかけていた味と匂い。

 その時、彼女が突然立ち上がって歩いた。そしてデスクのペンスタンドの後ろに隠れていたものを手にした。

「これはなに?」

 スペースドームだった。

「ああ、インテリア雑貨っていうのかな、観賞用のものだよ。部屋において常に想起させる宇宙空間というか、眺めていると、永遠の時間や空間を感じて心が癒やされるよ」

「星が渦巻きのように回転しながら輝いているね」彼女が囁いた。「とてもきれい……ずっと見ていられる」

 だがしばらく眺めていると、彼女は眠くなったみたいだった。「綺麗だけど、ぐるぐる回って、催眠術みたいに、なんだか眠くなるかも……そろそろ時間だし、片付けようか」

 二人はプレートとコーヒーカップを運んで食洗器の中に入れ、部屋の隅にある小さな洗面台の前に並んで歯磨きをした。

 それから数分後、二人はベッドの中にいた。

 事前に約束した通り、添い寝をするだけだったが、それでも隣にいる彼女を意識して、彼はなかなか眠りにつけなかった。

 ロストンは身体の向きを変え、デスクの上で仄かに光るスペースドームをしげしげと見つめた。深淵のように真っ黒なドームの中を、輝くダイヤモンドの星屑が絶え間なく回転している。ドームのガラスがまるでこの世の境界線のように、全宇宙を包んでいるかのように見えた。じっと眺めていると、その内側に吸い込まれそうな気になる。

 そして彼は、自分が既にその内側に入っている気がした。ヴィクトリア風のベッドと木製のテーブル、ジェーン、その他の全てのものと一緒に。



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