第11話



 先ほどまで和らいでいたジェーンの表情に再び緊張感が漂っていた。彼女は二人の帰り道をどうすべきか説明した。有名人なだけあって、週刊誌記者や一般人の目撃者を避けるためのノウハウを持っているようだった。特にこの地区とその周辺の道については、ここで生まれ育っているので正確な土地鑑があった。

「お互い距離を置いて歩くだけじゃなくて、来た時と同じ道を通らないのが大事なの」と彼女は言うと、すぐに飲み込めない彼のために丁寧に付け加えた。「来た時に目撃されてネットで発信された場合、帰る時に誰かがそこで待ち伏せしているかもしれないから」

 ジェーンが先に出発し、ロストンは十分ほど時間をおいて別のルートで帰ることにした。彼女は別れの言葉を言うと、早足でどんどん遠くの方へと消えて行った。

 そういえば彼女の住所を知らない、とロストンは消えていく後ろ姿を眺めながら思った。

 

 二人はその後しばらく、じっくり会う機会をもうけられなかった。

 空き家でまた話す時間を持てたのは、あの日から翌月の十一月にかけて、結局一度だけだった。よい隠れ場所ではあったが、たどり着くまでの距離が長くて人目につく危険性があったし、もし誰かに尾行されたら逃げ場がなかった。

 そのため二人は、街中で距離をおいて他人のふりをしながら歩くという方法をとることにした。お互いに遠く離れたところを歩きながら電話で会話をし、たまに遠くから目を合わせたりする。二人はそれを“遠距離デート”と呼んだ。

 そんな二人が再びキスを交わしたのは、十二月に入ってからのことだった。

 人影のない坂道を降りていると、突然頭上に花火が打ち上がり、爆発音とともに白い輪が広がった。それを見上げながら歩くジェーンの歩幅が小さくなり、気がつけば、同じく花火を見上げながら歩いていたロストンが彼女に追いついていた。

 もうすぐのところに彼女がいた。彼が慌てて離れようとすると、彼女が振り向いてマスクを外し、唇を重ねてきたのだった。すると次の瞬間に彼女はまたマスクをして、何事もなかったかのように前を歩き始めた。

 そういうこともあれば、お互いが見えなくなるまで遠く離れないといけないことも何度かあった。彼女の前にパパラッチが現れたり、ファンが群がって動画撮影をし出したりする時などだった。

 それでも、会えるだけでも良い方で、彼女が多忙な時期には、隙間時間を見つけることさえ難しかった。ジェーンは毎日の動画投稿やトゥルーニュース社との仕事、他のメディアへの出演やインタビューなどをこなしていて、多忙だった。だがそれは彼女にとって必要なことでもあった。電話越しに彼女は、社会が求める仕事をすることで本当の自分を守るための資金を手に入れることができる、と疲れた声でつぶやいていた。  

 会えない日々を過ごすうちに、またスクラップ山のふもとで二人が落ち合う機会が訪れた。

 長らく放置された掘っ立て小屋は、臭い空気が淀んでいて、埃が溜まっていた。ロストンは窓を開けて換気したが、寒いのですぐに閉めた。そしてソファの埃を拭き取って座り、二人はお互いの肩に寄り添った。

 会話の内容はいつも電話越しで話すのと同じで、他愛もない日常的なことだったが、ぴったりと肩を寄せ合い、見つめ合いながら話せるのが嬉しかった。前に聞いた話でも、直接会って聞くと何だか新しく感じた。

 彼女の話によると、文芸編集部に以前よく来ていたのは、文芸誌に彼女のフォトエッセイの連載が決まったからだった。今は頻度が減ったが、はじめの頃は打ち合わせが多かったらしい。連載の仕事は面白いらしく、主な作業内容は、彼女がコーディネートした服をモデルが着て、それをカメラマンが撮影し、その写真にファッションにまつわる二ページほどのエッセイを添えるというものだった。

 二人はお互いの生い立ちの話もした。彼女は世界市民革命の後に生まれた世代だったが、その前の時代について親や祖父からよく話を聞いていたらしい。だから革命前の時代について自分なりの意見を持っていた。趣味の面では、小さい頃からファッションが好きで、成人するとアルバイトで貯めたお金で服を買い、彼女独自の組み合わせを見つけていったという。そしてそれを動画サイトで発信して少しずつファンを増やし、今ではそれがメインの仕事になった。

 トゥルーニュース社とはファッション誌を手掛ける部署とも新しい企画が進んでいるようだった。十代向けのファッションコーデの本を作っているという。そこの部署の人達は、十代向けであっても可愛らしさよりセクシーさを前面に出すべきだと考えていて、もっと控え目なものが良いと考えるジェーンはどう折り合いをつけるべきか悩んでいた。

「あの部署は自由奔放な女性ばかりよ」と彼女は不満そうに言った。「だから、あの人たちから仕事をもらうために、私も会社に行く時はなるべく彼女たちのセンスに合わせた服装をしているの」

 ロストンはようやく理解した。本当は保守的な彼女が、社内でボディーラインを強調した、ぴったりした服を着ていたのはそのためだった。社内に限らず、彼女は状況に応じて服を選んでいるらしかったが、ファッションリーダーとして人の注目を引くには、大抵は露出度の高い服を選ぶ必要があるようだった。そしてそのビジネス用のはだけた服装のせいか、彼女は今まで何人かの世界市民連合のメンバーに言い寄られたこともあるという。なかには妻子持ちもいたらしい。その話をする時の彼女は嫌悪感を露わにしていた。

 ジェーンは連合のあり方全般に批判的で、ある意味、言動が徹底していた。振り返ってみると、彼女はオープンスピーク用語をまったく使わなかったし、SS同盟の活動も支持していた。心の中では連合の価値観を嫌っていても、生きて行くためにはうまく振る舞わなければならない、という現実的な感覚も持っていた。

 ロストンはふと考えた。世界市民革命が済んだ後の世界で生まれ育ち、連合の示す価値観が空気のように受け入れられているこの世界で、その洗脳に気づき、密かに対抗している彼女のような人が、はたしてどれだけいるだろう。トラディットの家庭で生まれなければ、洗脳に気づくのは難しいかもしれない。

 二人は結婚の話に触れることもあった。今は若年層のファッションリーダーという路線だが、もし結婚をして子供ができたら、主婦向けのファッションに路線変更すると彼女は言った。それを聞いて、収入は彼女よりはるかに少ないが、自分も一応働いているし、結婚はそれほど非現実的なものではないように思えた。

 ところが、結婚の話の流れで、気まずいことが起きた。

 今までに結婚を意識した人はいたかという話になり、ロストンはつい、一度あったと口が滑ってしまったのだ。

「どんな人だったの?」

 その時ジェーンは、平静を装う複雑な表情をして訊いてきた。

 昔の女について話すのは賢いことではなかった。だが口が滑ってしまったからにはロズリンのことを褒めず、駄目になった理由を強調するしかなかった。実際、彼にとってロズリンはもはや胸が苦しくなる思い出ではなく、とっくの昔に整理のついた過去の記憶に過ぎなかった。

「彼女は肉体関係を持てないことが耐えられなかった。精神的な関係では物足りず、それを何回も求めてきたんだ。僕が女性はそんなことをあからさまに求めるべきじゃないと言うと、彼女は体制のスローガンめいたことをよく口にしていたよ」

 ジェーンは首を一瞬傾げると、何かを思い出したかのように言った。

「もしかして、性の解放かな」

「そう、それ。どうして分かった?」

「学校で習わなかった? 女性や同性愛者が性の自由を抑圧されてきた歴史とか。その中に出てくる表現よ」

 彼女はこの話題に意外なこだわりを見せ、話し続けた。性の解放は、彼女の見解では、体制の仕組みと深く関わるものらしかった。

「性的行為は人を快楽に浸らせるし、エネルギーを消耗させるでしょ。連合は民衆をそうした状態にしておきたいのよ。体制への反対デモがなかったり、批判の声が上がらなかったりするのは、皆が自分の欲を満たす方に気が向いているから。連合は、民衆の欲求不満を解消させて、体制に不満をぶつけないようにしているの」

 言われて見れば、たしかにその通りだ、と彼は思った。性の解放によって世界は連合にとってコントロールしやすいものになる。性的自由は人々の関心を個人的な快楽に向かわせ、個人的な快楽の追求は愛国心や宗教を解体するのだ。性の本能は連合にとって都合の良いもの……

 その時、ロストンは再びロズリンのことをふと思い出した。そしてジェーンにロズリンと別れた経緯を正直に説明した。

 それは交際して四カ月近く経ったころだった。

 数人の友人ととともに二人がハイキングに出かけた冬の日、自分とロズリンだけ道に迷ってしまった。最初は皆から少し遅れただけだったが、間違ったところを曲がってしまい、気がつけば二人は人気のまったくないところにいた。目の前に、廃れて鍵も掛かっていない小屋があったので、そこで少しだけ休憩をとってから、分かれ道のところまで引き返すことにした。

 だが小屋の中で、ロズリンが突然抱き付いてきたのだった。野外で二人きりになったのが彼女を変に興奮させたみたいだった。外から小屋の中は見えず、周りには人影もスマートスクリーンもない。

 彼はその時、皆が心配しているから早く引き返そう、と彼女言い聞かせた。だが彼女は聞かずに身体をまさぐってきた。晩秋の寒い空気のなかでも、その身体は興奮して火照っていた。そしてロストンは、その淫らな姿が我慢ならず、つい、彼女を突き飛ばしたのだった。

「本当に嫌だったのね」

 話を聞いていたジェーンが言った。

「何度言い聞かせても離れようとしなかった。でもそれくらいのことをしないと、たぶん、本当に嫌がっているのを理解してもらえなかった」

「相手の辛さになかなか気づかない人っているからね……仕方ないよ」

 その時、ロストンはジェーンの手をそっと握った。

 彼女は若いが物事の本質をよく知っている、と彼は思った。普通の女なら、女性を突き飛ばしたことを非難するだろう。でも彼女は、相手に優しく言葉で言い聞かせても通用しない場合があることをよく知っている。

「体制側の人間たちにも言えることだな。言葉で説得しようとしても無駄だろう。こっちがどれだけ必死に訴えたって、向こうは痛くも痒くもない。こっちが力で圧倒しないと、聞いてもらえない」

 賛成の言葉の代わりに、ジェーンは肩を密着させてきた。

 ロストンは思った。すでに人格が固まった大人を話し合いで教化しようとしても無駄なことだ。そんなことをしても、下手をしたら、ただリベラル・ネットワークに通報されて終わりだ。話し合っても人の根っこを変えるのは不可能に近い。ならば力を見せつけて従わせるしかない。

「生き延びるためには力が一番重要だと思うんだ」彼は言った。

「どういう力?」

「まずは精神的に屈しない力が必要だけど、その次は物理的な力。その二つがそろえば、きっと世界は変わる」

「うん、そうかもしれないね」

 ジェーンは頷くと、つないだ手をもっと強く握ってきた。

 ロストンは彼女の方を向いて、見つめた。黒いコートの上で白い顔が輝いている。

 彼女のその神々しさ、健気さ、賢さ、力強い精神に、ロストンは自分が強く勇気づけられているのを感じた。



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