第9話
昼休み前の時間帯だった。ロストンは自分のオフィスを離れ、地下3階にある資料室で校閲関係の調べ物をしていた。
デスクに座って資料を読んでいると、本棚と本棚の間から近づいてくる人影を感じ、そちらを向いた。
あのブロンドの女だった。電器店の前で見かけてから二日が経っていた。
女はロストンの前を通りながら、無言で紙切れをデスクの上に置き、足早に去って行った。一瞬見えた彼女の顔は蒼白で、その目は何かに怯えているようだった。それはほんの一瞬の出来事で、紙切れの存在がなければ、彼女がただ目の前を通っただけのことにしか見えなかっただろう。だが紙切れは確かにそこにあった。
ロストンは瞬時に不安な思いに囚われた。あの女はなぜ怯えた目をしていたのだろう。あの女の方こそ、自分を通報するために尾行していたのではなかったのか? 怖いのはむしろこっちの方なのだ。
彼は息を殺しておそるおそる紙切れを手に取った。何かが書かれてあるに違いない。ここで開いていいのだろうか。
周囲を見渡してみると、誰もいなかった。
何が書かれているにせよ、それは何らかの重要なメッセージを含んでいるに違いない、とロストンは思った。でなければ、わざわざ書いて渡す必要などなく、口頭で伝えればいいのだ。
とっさに頭に浮かんだ一つの可能性は、やはりあの女がリベラル・ネットワークの人間だという可能性。だがそれだと、なぜ紙切れで伝える必要があるのか分からない。
そこで彼の頭にはもう一つの可能性、いや、突飛な妄想というべきかもしれない考えがよぎった。それは、メッセージがむしろ反体制派の組織からのものだという可能性。もしかしたらあの女はSS同盟の一員かもしれない……
彼は息を飲んで、紙切れをそっと開いてみた。
<わたしにつきまとわないで>
紙には殴り書きでそう書いてあった。
数秒間、彼は頭が真っ白になって、身体が固まってしまった。目を疑って何度も読み返した。その言葉が本当にそこにあるのが信じられなかったからだ。だが確かにそう書いてある。
いや、つきまとっているのはそっちの方ではないか!
彼は心の中で叫んだ。こっちがストーカーみたいにフードコートやトラディット地区、そしてこの資料室にまで、あの女を付いて回ったというのか! 濡れ衣もいいところだ! あの女は勘違いしているのだろうか? それともあれはやはりリベラル・ネットワークの人間で、トラディットに共感する自分を貶めようとしているのか? ストーカーだと警察に通報して自分を抹殺するつもりなのか?
彼は心が激しく動揺し、目眩さえした。もうすぐで昼休みの時間だったが、フードコートに行く気にはなれなかった。あの女がいるかもしれないのだ。
彼はよろよろとしながら資料室を出て、パンで済ませようと、違う階のグローサリーストアに入った。すると、サム・ドーソンがレジの列に並んでいた。少し立ち話をしたが、話がまったく頭に入って来ない。それからロストンは、人の行き来があまりないベンチに一人で向かい、買ったパンを口にした。しかし何の味かも気づかずに食べ終わった。
昼休みが過ぎ、午後になっても気分は落ち着かなかった。校閲の仕事があったが、その日は作業量が多くなかったので、仕事に没頭して嫌なことを忘れるという逃げ道もなかった。紙切れに書かれていた言葉と怯えていた女の顔が繰り返し浮かんできては彼の心を掻き乱した。
そうしている内に勤務時間がやっと終わったが、普段は行かない自分の居住区のボランティア活動にでも参加しようかと思うくらい、一人でいることに耐えられない気分だった。ストーカーや危険思想犯として訴えられる不安が頭を離れず、一人でいるとひどく落ち込んでしまいそうだった。
帰り道、彼は気を紛らわすため、家の近くの区民のための総合施設に立ち寄った。
ある部屋では何かの討論が行われていて、体育館では若者たちがバスケットボールをしていた。ある大部屋では”囲碁とアメプル″と題された講演会が開かれている。特に興味はなかったが、そこの席に座ってみた。内容はまったく頭に入って来ず、聞いているふりをしながらあの女のことを考えていた。
帰宅すると、静けさの中でやはり紙切れのことが浮かんで心を苦しめた。彼はスマートスクリーンをオンにして、煩い音楽を流した。
具体的な解決策が必要だった。どうやってあの女を避け、偶然にも会わずに済むのか。それともむしろ会いに行って、誤解だと訴えるべきなのだろうか。もしかしたらあの女はわざと濡れ衣を着せようというわけではないかもしれない。確かに、紙切れを置いた時の顔は本当に怯えている人の顔だった。ならば、ちゃんと説明して誤解を解く方が良い。しかし、こっちをストーカーだと思っている女に近づけば、それだけで悲鳴をあげるかも知れない。人前でそうなると、何も疾しいことがなくても一大事になってしまう……
ロストンはどうすべきかと、必死に考えを巡らした。
同じ建物の中で仕事をしている限り、どうしても遭遇してしまう可能性はある。もしそこが人影のないところだったら、あの女はパニックを起こし、助けを求めて叫び出すかもしれない。だったら、そうなる前に女のいる文芸編集部に行って直接話した方が良いかもしれない。だが普段行くこともない文芸編集部に自分が現れたら、それだけで余計に目立ってしまう。そこの人達があの女に何事かと尋ね、たちまち根も葉もない噂が広がるかもしれない。会社を出るところを待ち伏せして話しかけたらどうか? いや、待ち伏せしていたというその行為もストーカーのように見えてしまうし、大勢の人が行き交う所で叫ばれでもしたら、警察が来てしまう……
考えれば考えるほど解決策がないように思えた。
彼は自分に言い聞かせた。とにかく人影のないところで彼女とばったり遭遇することがないように細心の注意を払うしかない。あの女はここの社員ではないので、文芸編集部とのプロジェクトが終われば自然といなくなるだろう。それまでの辛抱だ、と。
だがそう心に決めてからも、ロストンはずっと不安の日々を過ごした。
彼はフードコートに行きたくなかったが、お昼は同僚たちとそこに行くのがお決まりだったし、一日ぐらいならまだしも、毎日断るのも難しかった。それでフードコートに行くと、時々あの女がいるのだった。その度に彼は、目が合わないように背を向けて座るようにした。そこだけでなく、社内ではどこでも、女が急に自分を指差して叫び出したりはしないかと、いつも気が気ではなかった。だが家にいる時でさえ、女のことが脳裏から離れるわけではなかった。自分がこうしている間にあの女は警察に自分を通報しているかもしれない。そう思うと眠りも浅くなり、寝付けなかった。
ところが、紙切れを渡されてから二週ほど経った頃、ロストンは数日の間、彼女を見かけなくなったのに気づいた。
もしかしたら文芸編集部とのプロジェクトが終わったのかもしれない、と思った。まだ警戒心を全部解いたわけではなかったが、彼は今までの息苦しさが少し和らぐのを感じ、ほっとした。
だがそれは淡い期待だった。女は再びフードコートに現れたのだった。
その日は悪天候で、外に出かけず社内で昼食を済ませようとする人が増えたせいか、いつもよりだいぶ混んでいた。
女は他の女性三人と来ていて、四人分の空いているテーブルを探している様子だった。だが見つけられず、別々に座ることにしたらしい。それぞれ離れた席に向かっていた。
ロストンも校閲部の二人の同僚と来ていたが、まとまった空席がなかったので、各自空いたところに座ることにした。同僚たちはさっさと空席に向かって行ったが、出遅れたロストンはいくら辺りを見渡しても空席を見つけることができなかった。
たった一箇所、あの女の座っている二人用のテーブルを除いて。
誰かが彼女の前に座っていたが、食べ終わって席を立ったところだった。ロストンは一瞬どうすべきか迷った。ある意味、話しかけて誤解を解く絶好のチャンスかもしれない、という考えが頭をよぎった。
その時、視線の先に校閲部のグリフィスが見えた。相変わらず髪を七三分けにしている。もし自分の姿を見かけたら話しかけてくるかもしれなかった。話しかけてきたら、彼をおいて自分だけこの席に座るわけにもいかなくなる…… だがもう怯えた日々を送るのはごめんだった。あの女が紙切れを置いてから半月が経つ。もうこれ以上は耐えられない。
ロストンは勇気を振り絞り、女のいるテーブルに近づいた。そして椅子をひっぱり、そこに腰かけた。
メニューを見ていた女が顔を上げた。そして目の前に座ったのがロストンであることが分かると、瞬時に顔を引き攣らせ、目を大きく見開いた。
大声で叫び出す前に説明しなければならない。
ロストンは慌てて、大急ぎで口を動かした。
「あの、つきまとっているというのは、誤解なんです。よく遭遇しますが、あの……」
急に話しかけたため、口がうまく動かなかった。
女は驚いた顔のままで直視している。早く次の言葉を探さなければならない。彼は必死に言葉を足した。
「あの、あなたと目が合ったり、遭遇したりしますが、すべて、全部、偶然なんです。つきまとっていません。誤解なんです」
女は疑いの目を向けながら徐に口を開いた。
「でも……トラディットの地区にいたのも偶然だって言うの?」
「ええ、そうです。たまたまそこにいたのです」
信じられない、といった表情を浮かべ、女は切り返した。
「トラディットじゃないかぎり、普通そんなところ行かないでしょ」
「確かにそうですが……」
彼はどう返事すべきか迷った。あの地区に自分がいたもっともらしい理由、つまり自分がトラディットに親近感をもっていることを告白すれば、異端派であることがバレてしまう。噂が広まれば、会社を辞めざるをえなくなるかもしれない。しかしもっともらしい理由を言わなければ、信じてもらえない。彼は何も思い浮かばず、あやふやに答えた。
「ちょっとした用事があったのです」
女は相変わらず信じられないといった表情をした。
「古いものしかないあの地区に何の用事が?」
「ええ……」
何か適当にそれらしい用事をでっち上げればよかったが、とっさには何も浮かばない。だが彼はふと、嘘ではないが、異端であることもバレないような言い訳を思いついた。
「私はトラディットたちがどのような暮らしをしているのか興味があります。暮らしの様子を観察するためにあそこにいたのです」
その答えに女は、今度は不思議そうな表情を浮かべた。
「なぜそんなことに興味があるんですか? あの人たちの生き方に共感しているんですか? それとも、観察というより、本当は監視でしょ? リベラル・ネットワークの人ですよね?」
ロストンは口籠ってしまった。好きじゃない人たちの暮らしに興味を持つのも不自然な話なので、共感していると答えれば女も納得がいくだろう。だがそうすると自分の異端性が知られてしまう。しかし共感していないと答えるのも憚れた。共感していないのに観察しに行くというのは、女が言うように、トラディットを監視するリベラル・ネットワーク側の人間のように見えてしまう。
でも、よりによって自分がリベラル・ネットワークの人だと?
彼は苛立ちをおぼえた。自分は人を貶めようと監視したり、付け回したり、通報したりする人間なんかじゃない。そんな権力の犬ではないんだ!
「いや、共感しているんです。リベラル・ネットワークなんかじゃありませんよ!」
一瞬カッとなって答えた直後、ロストンは自分の口が滑ってしまったことに気づいた。
女を見ると、驚いた表情をしている。
とんでもない失言をしてしまった、と彼は思った。噂が広まればもうおしまいだ。会社にいられなくなる。ロストンは慌てて、付け足すべき言葉を必死に探した。そしてふと、反撃の一手を思いついた。
「そういうあなたは、なぜあんなところにいたのでしょうか? あなたこそ、トラディットたちとつながりがあるのでは?」
驚いた表情で彼を直視していた女の目が、下の方を向いた。そしてテーブルをしばらく無言で見続けた後、口を開いた。
「今日の退社時間は?」
なぜそんなことを訊くのか分からなかった。
「18時ですが、どうして?」
「退社したらピース広場に来てください。理由はあとで教えます。私はサングラスとマスクをかけているから、見つけたら付いてきてください。でも近寄り過ぎないで」
話がよくのみ込めなかったが、ロストンは首を縦に振った。彼女は若い女性たちの間では有名だから、外では顔を隠しているのだろう。少し離れてついて来るようにというのも、パパラッチに写真を撮られて男と密会しているなどと嘘の記事を書かれないように注意しているのかもしれない。
だが一体どこに自分を連れていくつもりなのだろうか。彼は不安になった。もしやあの女はまだ自分をストーカーだと疑っていて、外におびき寄せてから警察に引き渡そうという魂胆ではないだろうか。それとも……
ロストンが次の言葉を探っていると、女は料理も注文せず、無言で立ち上がり、その場を去っていった。
その後ろ姿を見ながら、彼はハッと気づいた。
ここは大勢の人が行き交うフードコートだった。彼女は有名人だから、二人の様子を見ていた人は多いだろう。切迫した表情で話しているのをみて、何事かと不審に思ったはずだ。実際、何人かが自分の方を見ていた。
馬鹿なことをしてしまったのかもしれない。
ロストンはそう思いながら、何事もないように平然を装い、メニュー表に手を伸ばした。
午後6時、いつもより長く感じた午後の勤務を終え、ロストンはピース広場へと向かっていた。
ちょうど帰宅ラッシュの時間帯で、かなり多くの人が行き交っている。この広場は、前は違う名称だったが、諸国間で平和条約が締結されたのを祝って、ピース広場と改名されていた。
女はまだいなかった。代わりに、警察服の人が何人かいた。
またしても不安がロストンを襲った。あの女は来ないのではないか。それどころか、女の通報を受けた警察が自分を捕まえに来たのではないか……
しかし警察は近づいてくることもなく、誰かを探している様子でもなかった。ロストンは警戒しながら周りをうろついた。
しばらくすると、女の姿が目に入った。
サングラスとマスクをしていて顔が見えなかったが、髪型、服装、背丈からしてあの女に違いなかった。彼女はこっちを見て、頷く仕草をした。付いてこいという合図のようだ。どこに行くのだろう、と思いながらロストンはゆっくり歩き始めた。
だがその時、思いがけないことが起きた。
広場は普段は車が入れない空間だったが、広場とつながっている大通りから、大型トラックと大きめのワゴン車が入ってきたのだ。
何事かと人々が注目する中、大型トラックの荷台部分が開いた。すると一瞬の沈黙の後、広場の各所から突然悲鳴のような歓声が聞こえ、大勢の人間がトラックに向かって走り出した。荷台は即席ステージになっていて、その上に派手な服を着たアジア人の男が立っていた。
どうやらゲリラライブが始まるようだった。ロストンは最近の歌手に疎かったが、歓声の大きさからして、有名な人のようだった。
広場の端っこや外側からも群衆が押し寄せはじめ、人をよけながら前に進むのが難しくなった。前方を見ると、女も人波に飲み込まれそうになっている。離れたところから付いてこいと言われてはいたが、連絡先も知らないので、ここで見失うと面倒なことになる。ロストンは人混みを掻き分けながら必死に女の方へと進んで行った。
ほどなくして手を伸ばせば届くくらいにまで近づいたが、人の壁に阻まれた。圧迫してくる人達に息が詰まりそうになりながら、なんとかそれを突破して、女の隣に立った。だがそこから身動きが取れなかった。他の人達が顔を向けている方へ振り向いてみると、トラックの周りには警備の人達が立っていて、押し寄せる観衆がステージに登らないように目を光らせている。すると軽快な音楽が始まり、アジア人の歌手が踊り始めた。
その時、人混みに押されて、女の肩がロストンの胸にぶつかった。大音量で音楽が流れる中、彼女はマスクをした口を彼の耳に近づけ、話しかけてきた。だが音楽と歓声にかき消され、辛うじて聞こえるほどだった。
「前に見える黄色い店の、あの通りの方に来て」
先を眺めると、広場の端っこに黄色く塗られた店があり、その店の横に細い道があった。
女はその方角に向かって、人混みを必死に掻き分けながら進んでいった。間を置いて付いていく必要があったので、ロストンはしばらくその場に立ち尽くした。
周りを見渡すと、人々はステージに見惚れている。はじめは驚きの歓声だったのが、ほどなくして熱狂に変わっていた。
数十年前はこの国でアジア人の歌手が人気者になるのは珍しかったが、今では普通のこと。アメリカ育ちのアジア系アメリカ人ならまだしも、アジアで生まれ育った人ですらここで活躍している。アフリカやアラブ出身の歌手や俳優も多かった。大抵、かれらは拙い英語しかしゃべれなかったが、その芸能活動と贅沢な日常がソーシャル・ネットワークを通じて随時発信され、人気を博していた。誰もが異国のスターたちを良く知っていて、それが視聴率やサイトの訪問者数を上げ、かれらの懐を潤していた。アメリカ国籍でもないのに、かれらはアメリカの庶民たちを見下ろす丘の上に豪邸を建てている。
ステージの上でもアジア人歌手は観衆を見下ろしながら歌っていた。
そして女性の観客たちは、驚きと喜びの宿った目を輝かせ、ため息の混じった大きな歓声をあげていた。
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