第8話



 通りに安物のインスタントコーヒーの匂いが漂っている。ロストンは思わず足を止め、それが子ども時代によく嗅いだ匂いであることを思い出した。この街にはそのような安い飲み物や食べ物の匂いが充満していた。

 彼はもう何キロも移動しているが、こんなところにまで来たのは、十月の澄んだ空気と夕陽のせいだった。勤務時間が終わったらいつも通り帰宅してのんびり過ごすつもりだったが、夕方に会社を出てみると、空が美しいオレンジ色をしていて、家に直行するのがもったいなく思えてきたのだった。そしてその時、掲示板に自分が書き込んだ「トラディットたちにこそ、希望がある」という文章を思い出した。

 それで衝動的にロストンは、何か未知のものを求めるように、今まで行ったことのない方角へと足を向けたのだった。夕陽はすぐに暮れてしまったが、連なる街灯の明かりを眺めながら歩き続けた。

 そして辿り着いたのが、古びたレンガ造りの建物が立ち並ぶ、このトラディット地区だった。トラディットの住むべき地区が法律で指定されているわけではなく、価値観を共有するかれらが自然と集まってできた地区だった。

 今の時代、建物をレンガで建てることはないので、ここの建物は百年以上前に作られたものということになる。歩道は狭く、昔ながらの道といった感じで、敷石で舗装されていた。人はまばらで、若い人は見えず、中年や年寄りが目立った。男たちは質素な服を着ていて、女たちは肌の露出のない服を着ている。

 彼はふと思った。

 こうした場所で人目につくのは、あるいはこうした場所に足を踏み入れること自体、賢明なことではないかもしれない。犯罪防止や犯罪者特定の名目で、一定間隔でスマートスクリーンが設置されているからだ。市販のスマートスクリーンと違い、公道に設置される防犯用のものはすべて警察とつながっている。他の地域に比べれば少ない印象だが、それでもブロックごとにあって、行き交う人々を覗いている。自分の行動もすべて記録されているはずで、もしかしたらこの地区に足を踏み入れただけで、危険思想犯の候補としてタグ付けされ、リベラル・ネットワークや警察による監視の対象になるかもしれない……

 考えを巡らせていると、ロストンは辺りがざわつき始めたのに気づいた。

 建物の窓が開き、「はじまるよ!」という声が聞こえる。人がまばらだった通りに、突然大勢の人が飛び出てきて、夜空を見上げた。

「花火だ!」誰かが叫んだ。

 ロストンはかれらが見ている方へ振り向いた。

 すると爆音とともに大きな花火が夜空を赤く彩り、その下に見える家々を赤に染めた。次は青色の花火が広がり、その次は黄色。どこの地域の、何のための花火かはわからなかったが、打ち上がる場所から結構離れているこの地区からも鮮明に見えた。みな嬉しそうに眺めている。

 ロストンは少し鑑賞した後、人々を後にして、歩き出した。花火は綺麗だったが、せっかく危険を冒してまでこの地区に来たので、街の様子をもっと観察したかった。

 花火の見えない路地裏に入ると、まわりが一気に暗くなった。暗闇のなかで花火の音だけが聞こえる。

 彼は迷路のように曲がりくねったその道を進んでみた。奥へと進むほど道が細くなり、辺りがさらに暗くなった。道の左右を古い建物が囲んでいたが、どこも明かりをつけておらず、人影もなかった。

 だがしばらく歩くと、少し広い空間が出てきて、まるで暗闇の中のロウソクのように、黄色い明かりの灯る建物が現れた。屋根には十字架がある。教会だった。

 ちょうど何かの集いが終わったみたいで、門から人がぞろぞろと出てきた。

 夜の祈祷会だろうか、とロストンは思った。

 おそるおそる近づいてみると、門の前のベンチに三人の男が座っている。真ん中の男が聖書らしきものを開き、左右の二人が肩越しにそれを覗き込んでいた。

 耳を傾けると、左右の男が言い合っていた。

「私の解釈では、七で終わる年に再臨があるとは思えない」

「いや、ある!」

「ないね、絶対ない! 聖書をくまなく読んでも、七で終わる年に起きるという記述はない」

「いや、七で終わる年に違いない! なんなら、その年をはっきり言ってみようか。それは、次に来る七で終わる年だ」

「そんな馬鹿なことがあるか! 聖書のどこを読んだらそうなるんだ。その年は……」

「もうそれくらいにしよう」真ん中の男が、うんざりした顔で言った。

 どうやら聖書の終末予言の話をしているようだった。

 終末、キリストの再臨、救済がいつ訪れるかは一部のトラディットの間では大きな関心事だった。おそらく、今の体制下で少数派であり、弱者であるかれらにとって、苦難の克服と救済を約束する終末論は魅力的に映るのだろう。いつ終末が訪れるかという議論は、かれらにとって現実をしばし忘れさせてくれる鎮痛剤であり、知的興奮剤でもあった。自分なりの算定方式で終末の時期を予想したり、牧師の提示する方法で予想したりしていた。

 なかには、終末の時期を予想するのはキリストの教えに反すると説く者もいて、ロストンもその立場だった。彼もかつて終末論に興味があって色々調べたことがあったが、その時期を人が予想しようとするのは傲慢なことだという結論に至った。再臨の時期は神が決めるのであって、人が予想できるものではない。大事なのは、予想することではなく、それがいつ来ても救われるように日頃正しい行いをすることなのだ。

 考えを巡らせていると、三人の男のうしろで、教会の開いた扉に突然人影が現れた。

 よく見ると、服装や雰囲気からして、牧師のようだった。歳は七十歳前後といったところ。しかし背筋がピンとしていて凛々しい風貌だった。牧師は辺りを見渡した後、ゆっくりと扉を閉めた。

 それを眺めながら、ロストンの頭にある考えがふと浮かんだ。

 あの老人の牧師は、世界市民革命が起きる前、いや、それよりもっと前の戦前に、すでに中年だったのではないか。牧師は戦前の時代のことをよく知っているに違いない。戦前の様子を取り上げた書籍やドキュメンタリーはたくさんあるが、常に旧体制に対して批判的な観点から語っていて、世界市民連合の息が強くかかっているに違いなかった。体制の息のかかったメディアや体制側に属する年寄りではなく、その世代のトラディットに直接聞けば、まったく違う印象を受けるのではないか。

 あの教会に入って、その点についてあの牧師に質問したい、とロストンは衝動的に思った。だが同時に、不安もあった。もしかしたら賢明な判断ではないかもしれない。この瞬間にも道路に設置されたスマートスクリーンが自分を撮影していて、要注意人物としてタグ付けしているかもしれない。

 それでもロストンは自分を抑えることができなかった。ぐずぐずしていると牧師が帰ってしまうかもしれない。もしかしたら門の鍵をもう掛けてしまったかもしれない。そう思うと、彼は居ても立ってもいられなくなり、急いで扉の方へ向かった。

 扉を押してみると、まだ鍵は掛かっていなかった。

 奥の大きな十字架が目に入った。その前には木製の講壇と長椅子が並び、壁にはステンドグラスが見える。そして中には牧師と若い男が二人いて、何かの準備をしているのか、物を移動させながら話し合っていた。おそるおそる足を踏み入れたが、向こうは自分のことにまだ気づいていない。

「明日の聖餐式に使うパンとぶどうジュースは揃っているでしょうか? おそらく二ガロンほど補充する必要があると思いますが」牧師が言った。

「ガロンって何ですか?」若い男が不思議そうな顔で答えた。

「ああ、ガロンを知らない世代なんですね。一ガロンは四クォートで、一クォートは一リットルに少し満たないぐらいだから、一ガロンは……四リットルぐらいですね」

「ガロンなんてはじめて聞きましたよ」

「昔はこういう時はガロンを使いましたけどね。リットルに統一されてから、私のような昔の世代はガロンやクォートをリットルに換算するのが大変です」

「昔の単位をリットルに統一したなんて知りませんでした。なんだか乱暴ですね」

 若い男の言葉を聞いて牧師は頷き、振り向いた。

 そしてその時、牧師の目がロストンの目と合った。若い男もロストンに気付いて、一瞬、動かしていた手を止めた。

 きっと不審者に見えているのに違いなかった。ロストンは慌てて、手の平に何も持っていないのを見せながら、自己紹介をはじめた。

「こんばんは、ロストンと申します。クリスチャンです。この教会ははじめてですが、外から牧師様を見かけて、どうしてもお話がしたくて無断で入ってしまいました」

 そう説明しても、突然現れた見知らぬ他人に警戒心を解くとは思えなかった。

 だが不思議なことに、牧師は何かを理解したような表情になった。

「そうでしたか」牧師はそう言うと、優しく微笑んだ。

「では、四リットルお願いしますね」若い男に向かって彼は言い、「こちらへどうぞ」とロストンを招いた。

 ゆっくりと歩く牧師のうしろをロストンは黙々とついて行った。木製の長椅子と十字架の前を通り過ぎ、演壇の裏側へと進んだ。

 そしてある部屋に通された。

 質素な部屋だった。テーブル一つと椅子四つが置いてあるだけで、スマートスクリーンを含む如何なる電気機器も見当たらない。誰かに盗み聞きされる心配などせずに話せそうだった。

「どうぞお掛けになってください」牧師が椅子に腰を下ろしながら言った。「どのようなお悩みでしょうか」

 先ほど見た、彼の表情の意味が分かった。おそらく信者や住民から悩みの相談を受けることが多いのだろう。個人的な悩みをかかえて訪れたのだと思っているに違いない。彼はロストンの素性すらきいてこなかった。

「悩みというよりも、先ほど、昔使っていたガロンの話をされていましたが、そのような昔の時代のご体験をお聞きしたいと思い、参りました」 

 悩みの相談ではないことを知って、一瞬、牧師の薄青色の目が動揺するように揺らいだ。

「えっと、どのような体験のことでしょう」彼が警戒する様子で答えた。

「はい……」

 ロストンはまず何から話すかを考えて、口を開いた。

「牧師様は戦前の時代を生き、それがどんな様子だったか覚えていらっしゃると思いますが、それは今の時代の本やドキュメンタリーが描くその時代の様子と違うのではないかと思いまして。歴史の本を読むと、戦前が今の時代に比べて全てにおいて劣っていたかのような印象を受けます。今よりも人々は貧しく、平均寿命は短く、労働時間は長かったという具合にです。しかし、劣っていることばかりだとすると、トラディットが現体制に不満を持つ理由を説明できません。歴史書にはあまり書かれない、トラディットが懐かしむ良い部分もたくさんあったのではないでしょうか。それをお聞きしたいのです」

 牧師の顔は曇った。

「私の体験ではどうだったか、ということですね。その時代を生きた人から直接聞きたいという気持ちはわかりました……でも、それを聞いてどうされたいのですか?」

 何か隠れた意図があるのではないかという、警戒心を露わにした言葉だった。

「それを聞いて何かをしようということではないんです」ロストンは信じてもらうために必死になった。「ただ知りたいだけなのです。問題は、戦前の時代がただ古いだけの、守って受け継ぐべきものなどまったくない、そういう時代だったのかということです。もしかしたら、今よりも貧富格差を意識しない、もっと平等で、公平で、心豊かな社会だったのではないでしょうか」

「おっしゃっていることは分かりますが」牧師がゆっくり口を動かした。「でも、私の体験を聞いて、どうされたいのですか?」

 ロストンは話が進まずに堂々巡りになっているのを感じた。

「申し上げましたように、ただ知りたいだけなのです。ではこう質問しましょう。あの頃と比べて、今のほうが自由で平等だと感じますか? 富や権力の差によって人が差別されることなく、公平に扱われていると感じますか?」

「そうですね……」牧師はさらに困った表情をした。「わたしは牧師という立場から、訪れる方々のお悩みを聞いて、それに寄り添って一緒に考えてみることはできますが、わたし自身の政治的な見解を説くことはしておりません。それは立場上ふさわしいことではありません」

 ロストンは無力感に襲われた。牧師はまったく答えようとしない。もしかしたら、自分を体制側の人間だと思って警戒しているのだろうか。確かに、彼の立場で考えてみれば、突然現れたリベラル・ネットワークの人間かもしれない人に、政治的に解釈されうる話を告白するのは憚れるのだろう。

 ロストンはこれが最後だと思い、もう一度だけ尋ねた。

「では質問を変えます。もし選べるとしたら、昔と今と、どちらの時代に暮らしたいですか?」

 牧師は相変わらず困った顔をして口を開いた。「それは年齢の影響がありますから、昔の方が身体は楽だったかもしれません。この歳になると、身体のいたるところが悲鳴をあげますからね。若い頃は健康そのものでした……」 

 年齢の話ではないのに、わざととぼけた返事をしている、とロストンは思った。もはや質問を続けても意味がなかった。

「わかりました。お忙しいところ、ありがとうございました」

 ロストンは立ち上がりながら言った。そして軽く会釈をして、部屋を出た。

 次いで、十字架の前と木製の長椅子を通り過ぎ、若い男に目もくれず、扉を開けて教会を飛び出した。

 ロストンはひどく失望していた。トラディットでさえ、世界市民革命前の暮らしが今よりも良かったかという単純な質問に、通報を恐れて答えることができない。少しでも政治的に解釈される余地があると口を噤んでしまうのだ。どうでもいいことは話せても、本当に大事なことは話せない。そのように大事なことは語られず、記憶は消えて行き、連合の息のかかった歴史書やドキュメンタリーだけが残っていくのだ。

 彼は不意に立ち止まり、見上げた。教会の前の通りにも防犯用スマートスクリーンがある。

 自分は大きな危険を冒したのかもしれない、と思った。すると先ほどまでの勇気はどこかへ消え、突然、不気味な不安に包まれた。監視の対象になる覚悟をしてまで、すべき行為だったのだろうか? 

 ロストンは敷石の舗道を急ぎ足で歩いた。危険だけあって何も得られないのであれば、早くこの街から離れた方が良いと思った。

 だが道が分からなかった。大通りへと抜ける方角が分からず、曲がりくねった道をしばらく彷徨った。辺りが暗いせいなのか、動転しているせいなのか、方向感覚もおかしくなっている。

 ふと、地図アプリを使えばいいことに気づき、ポケットから携帯スマートスクリーンを取り出した。位置情報を見ると、大通りからむしろ逆の方向に来てしまったようだった。ロストンはため息をつきながら向きを変え、しばらく進んだ。

 そして角を曲がった時、突然、眩しいほどに真っ白な明かりが目に飛び込んできた。

 ショーウィンドウがあり、何かの店のようだった。

 明かりに目を慣らしながら近寄ってみると、それはこの街の古風な雰囲気に似つかわしくない電器店だった。最新の家電が四十平方メートルほどの狭い空間にびっしり並べられている。奥の方を覗くと、一人の男が熱心に何かを磨いていた。店主のように見えるその人はおそらく六十歳くらい。身体は細身で、長く曲がった鼻は、ケチな意地悪おじいさんのような印象を与えた。眼鏡越しに冷たい目が垣間見える。髪は黒々としていたが、眉毛は細くて白かった。おそらく髪の方を黒く染めているのだろう。研究者が着るような白衣をまとい、知的な雰囲気を醸し出していた。

 ロストンは、古い建物が立ち並ぶこの地区に似つかわしくないこの電器店とその店主に興味をそそられた。それに、牧師に話しかけたのは危ない行為だったという気持ちから、体制側が問題視しないような場所にはやく身を置きたい、という衝動もあった。電器店もトラディット地区にあるのは変わりなかったが、他とは違う現代的な雰囲気がある。彼は咄嗟に、まるで周りから身を隠すように店の中へと入っていった。

「いらっしゃいませ」来客に気づいて老店主が口を開いた。そしてその鋭い目が、眼鏡越しにロストンを捉えた。「何かお探しのものがありますか」

「通りがかったもので」ロストンは曖昧に答えた。「ちょっと覗いただけなんです。特に何かを探しているわけでは……」

 老店主はにやっと笑った。

「そうですか。では、はじめてのご来店なので説明が必要ですね」そう言うと彼は軽い咳払いをし、言葉を続けた。「この店では、製品の中に監視機能や情報収集機能が密かに組み込まれていないかをチェックし終えたものだけを店頭に並べております。他で購入されたものを持ってきていただいても、少しのサービス料金で検査いたしますよ」

 それを聞いて、なるほど、とロストンは思った。今時、家電を街の小さな電器店で買うことはあまりない。街の電器店は巨大企業のネット通販に価格面や品揃えにおいて太刀打ちできず、ほぼ全滅している。だからこの電器店は、ネット通販や家電量販店にはない付加価値をつけて勝負をしているのだ。体制の監視に特に警戒心を持つこの地区の人達にとって、市販の家電に監視機能が組み込まれていないかを心配する人は多いだろう。でも家電なしに生活するのは大変だ。そこで、監視機能が組み込まれているかをチェックするサービスに需要が生まれる。この地区ならではの電器店だ、とロストンは思った。

 店内は製品が整頓された感じでびっしりと並んであったが、特に自分の興味をそそる製品は見当たらなかった。生活に必要なものはすでに全部揃えてある。

 だがコーナーを曲がった時、一つ不思議なものが目に入った。スノードームのような形だったが、ガラスの中に、雪ではなく、宇宙と銀河を閉じ込めたようなものだった。暗闇のなかを星屑のように輝くものがゆっくりと回っている。 

「これは何ですか」ロストンが指差した。

 老店主は商品を一瞥した。

「ああ、それは、スペースドームですね。家電というよりは、電気を使ったインテリア商品ですが、検査装置で怪しいところがないか、くまなくチェック済みですよ」

「星がキラキラしながら回っていて、きれいですね」

「私も、何も考えずに見惚れている時があります。精神を安定させる効果があるようです。どうですか、ネット通販で購入される価格にほんのちょっと上乗せするだけで、商品とともに安心も買えますよ」

 そう言うと、老店主はにやっと笑った。

 ロストンは自分のスマートスクリーンをポケットから取り出して、スペースドームの方に向けた。すると瞬時に商品説明とともに価格が出てきた。ネットで買うより、十五パーセントほど高い。ほんのちょっとの上乗せではないと思ったが、検査にかかる時間を考えれば、そしてそれで得られる安心感を考えれば、妥当な線かもしれない。

 ロストンは買うことに決めた。レジに置いてある読取用の端末にスマートスクリーンをかざす。

「お買い上げありがとうございます」店主は満足げにお礼を言い、言葉を続けた。「実は二階にもう一室あるんです。よろしかったら、御覧になってみませんか? といっても、ほんの数点の中古品があるだけですが、ついでに家具も売り出し中です」

 特に断る理由もないので行ってみることにした。

 店主の後ろについて急傾斜の階段を上ると、二階には狭い廊下が伸びていて、その先に部屋があった。老店主がドアを開けると、自動で電気がついた。

 部屋の中は、使い古された、ヴィクトリア風の家具とインテリアで飾られた広い空間だった。床にはベージュとピンクを基調とした絨毯が敷いてあり、その上に伝統的な様式のテーブルや箪笥やベッドなど、家具一式がそろってある。壁際には革装丁の本が並ぶ大きな本棚、そしてその隣には埋め込み式の暖炉さえある。

 ロストンは、そこがお店というより、生活の空間だと思った。よく見ると、古い家具の間に現代の家電がところどころ置いてある。それらがおそらく売り物の中古品のようだった。だが中古品とはいえ、パッケージにも入っておらず、むき出しだった。

「実は以前、母がこの部屋で暮らしていたんです」店主が言った。「ここにある検査済み家電は母が使っていましたが、捨てるのも勿体ないので、格安価格で売り払っています。少し売れましたが、ご覧の通りまだ残っています。実は家具も売ろうとしているのですが、母の趣味であって、私の趣味ではないのでね。お気に入りのものがございましたら、安くお譲りしますよ」

 この古風な部屋には独特の魅力があった。どこか懐かしさを感じさせながらも豪華な雰囲気を醸し出すインテリア。我々の先祖たちはこのような空間で暮らしていたのだろう。窓の方に目をやると、部屋は表通りの反対側に位置しているようで、窓からは隣の建物の壁と窓だけが見える。外からはまったく人目につくことのない部屋だった。

 ロストンはこうしたところでの暮らしをふと思い浮かべてみた。誰からも監視される心配なく、上品な家具に囲まれ、ゆったりと時間が流れる暮らし。

 そしてその時、彼の頭に、この地区の地価を考えるとこの部屋を安く借りられるのではないか、という考えがよぎった。

 それは危険な思いつきだった。この地区に住めば、要注意人物としてタグ付けされるだろう。スマートスクリーンの監視の目が常につきまとうことになるかもしれない。

 結局、注意深く見回しても、そこに置いてある中古品を買う気にはならなかった。だがそれでも、彼は魅力的な部屋から立ち去る気になれず、しばらく店主と立ち話を続けた。

 店主の名はアーリントンというらしかった。六十三歳で、この店一階の奥にある部屋でずっと暮らしてきたらしい。ロストンの質問に、店主は近くの教会のこと、亡くなった母のことなどについて話してくれた。

 一通り話し終わると、二人は階段を下りた。そして別れの挨拶をして、ロストンは徐に店を出た。

 店のドアを押しながら彼は思った。少し経ってからまたここを訪れようと。自分を監視しているかも知れない今までの家電を捨て、この店の家電を揃えるのだ。あの部屋もまたじっくり見たい。

 彼の脳裏に、部屋を安く借りられるのではないかという考えがまた浮かんだ。危険なアイデアだったが、わくわくする気持ちにもなる。期待を膨らませながら、ロストンは閑散とした歩道に出た。

 その時だった。

 彼は心臓が止まった気がした。

 三十メートルぐらい離れたところで、知っている顔が通り過ぎて行ったのだ。

 ほんの一瞬だったが、確かにそれは、フードコートで二度ほど見た、動画サイトで有名なあの女だった。女は彼を一瞥したかと思うと、こわばった顔をして通り過ぎていった。

 数秒間、ロストンは全身が固まって頭が真っ白になった。

 そして疑問が湧いた。あの女はこんなところで何をしているのだろう? トラディットの地区に何か用でもあるのだろうか? 

 彼は、フードコートで彼女が自分のことをじっと見ていたのを思い出した。もしかしたらあの女は連合側の監視役なのだろうか? リベラル・ネットワークの一員なのだろうか? ロストンは立ち尽くしたまま、必死に考えを巡らした。もしかしたら、尾行してここまで来たのかもしれない。自分が突然店から出てきたものだから、隠れる暇がなく、ただ通りすがっていたかのように振る舞ったのかもしれない。いや、きっとそうだ。彼女のような人間が訪れるはずのない場所だ。偶然出くわすはずがないのだ。あの女がリベラル・ネットワークの手先であろうが何であろうが、自分を監視していたことは間違いないだろう。教会に入るところも見られていたに違いない……

 するとふと、女とすれ違ってからまだ一分ほどしか経っておらず、走っていけば追いつけるかもしれない、とロストンは思った。彼女をつかまえて、問い質せばいいではないか。どうしてここにいるのかと。なぜ自分を監視しているのかと。

 しかしあれやこれやと迷ううちに、時間は過ぎて行き、その選択肢も徐々に現実味を失っていった。この地区は細い道が入り組んでいて、自分には土地鑑もない。もう彼女を探し出し、つかまえるのは無理だろう、と思えた。

 それに彼は、突然のどうしようもない倦怠感と無力感にとらわれ始めていた。慣れない地区で長時間極度のストレスを感じたせいか、とにかく家に帰って休みたい気分だった。それが現実逃避なのは自覚していたが、身体も心も疲れてしまい、どうにもならなかった。

 

 クタクタになって帰宅すると、夜の十時を過ぎていた。

 ロストンは台所に入り、エナジードリンクを取り出して飲み干した。すぐに効果は出なかったが、次第に安らかな気分になるはずだった。

 リビングを通り、奥の部屋に入ると、壁一面のスクリーンにイタリアの田園風景が映し出された。そしてゆったりとした音楽が流れ始める。彼は椅子に腰を下ろし、デスク上のスマートスクリーンを立ち上げた。

 部屋はのどかな雰囲気でも、気分は一向に落ち着かなかった。警察がいつ訪れてきてもおかしくない、と思った。ロボットの警察もいて、かれらは二十四時間態勢で動いている。取り調べの必要があれば、真夜中でも早朝でも捕まえにくるだろう。そこが家でも、仕事場でも、海外でも、地球上のどこまでも追いかけてくるだろう。世界中にスマートスクリーンの監視網がある限り、どこに隠れようがすぐに捕まってしまう。

 彼は立ち上げた画面をじっと見つめた。何かを書き込みたいという衝動に駆られた。すると自然とオフィールドのことが頭に浮かんだ。そう、彼のために、彼に宛てて自分は投稿するのだ。

 だがそう思った矢先、オフィールドの顔が消え、それと入れ替わるように警察に手を縛られている自分の姿が浮かんだ。そしてイメージが連鎖するように、刑務所で殴られながら罪の告白を強いられる自分の顔が頭をよぎった。

 ロストンは恐ろしくなった。捕まった後、社会に復帰するためには、罪を告白し、懺悔し、更生の意思を公に宣言しなくてはならない。今までの自分を否定する屈辱に耐えなくてはならない。生きて行くためにはそうするしかないのだ。連合は自由な社会を謳っているが、連合の価値観に合わない言動は許されず、徹底的に虐げられ、排除される。

 彼は再び、意識的にオフィールドの姿を思い浮かべようとした。

「自由なところで会おう」とオフィールドは夢の中で言っていた。

 ロストンはその意味がわかる気がした。自由なところとは、すなわち過去、今は失われたが、いつかまた人類が立ち返るべき太古の楽園、そう、エデンなのだ。

 だが次の瞬間、彼はオフィールドではなく、いつの間にかグレート・マザーの顔を心に浮かべていた。

 ロストンはポケットから硬貨を取り出してみた。

 硬貨に刻まれたグレート・マザーは、相変わらず優しい目でこちらを見つめ、両腕を広げている。だが全てを受け入れるかのようなその虚像の裏で、体制側は我々を異端派として排除している。それがかれらの本性なのだ。

 硬貨を裏返しにすると、例の、体制側のスローガンが刻印されていた。


 多様化は一体化なり

 相対は絶対なり

 寛容は不寛容なり



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