第5話



 トゥルーニュース社の三十二階にある天井の高いフードコートは人でいっぱいだった。

 料理が全自動で効率よく作られるため、列に並ぶことはない。ただ、音楽やテレビ番組が流れ、人が大声で話し合うため、音はそれなりにうるさい。オフィスと違って、フードコートのノイズキャンセリング機器の基本設定はオフになっていた。ただ、内密の話をする場合や何かに集中したい場合は、テーブル下のスイッチを入れてオンにすることもできる。

 ガラス越しに見える厨房からはインドカレーやシチューやラーメンの湯気が立ち上っていた。ドリンクバーからはカフェモカとタピオカミルクティーの香りが漂ってくる。異なる料理と飲み物の匂いが混ざり合い、充満していた。

「やあ、ロストン」

 背後で声がした。

 振り向くと、ハイムだった。

 メディア調査部の人で、部署が異なるので仕事で会うことはなかったが、共通の知人とフードコートで何度も一緒に昼食をしているうちに親しくなった人だった。

 彼はロストンより少し年上で、メディア調査部で顧問をしているが、本職はオープンスピーク全国委員会の委員として活躍する著名な言語学者だった。委員会の中でも重要な役割を担っていて、オープンスピーク辞書の編集作業に携わっているらしかった。彼が顧問として招かれたのも、オープンスピーク導入をめぐってトゥルーニュース社が彼を必要としたからだった。大柄で、まだ四十代ながら白髪が目立ち、その奥深い目にはやさしさと好奇心が混在している。立派な肩書きをもっていても権威主義的なところがなく、気さくな口調で話しかけてくる人だった。

 二人はテーブルに座り、メニュー表を広げた。表の上に色々な料理の画像が浮かび上がる。少し眺めたのちに、ロストンはハンバーガーとコーラ、ハイムはチキンカレー、ガーリックナンと、マンゴーラッシーを注文した。

「昨日のフードフェス行ったかい?」ハイムがメニュー表を閉じながら言った。

「他に用事があって……まあ、外国の料理はそこじゃなくてもいっぱいあるし」ロストンが答えた。

「あそこでしか味わえないのがあるのさ」

 そう言うと、ハイムの目がフロアを行き交うロボットの方を向いた。ロボットたちが運ぶ料理をおいしそうに眺めながら、自分の注文した料理を待っている。

 ハイムは生粋の正統派だった。危険思想犯の裁判と自白と転向について、非常に熱を込めて語ることがあった。ロストンはそういう話が出てくるたびに話を切り替え、彼にオープンスピークについて語らせようとした。彼はその方面の権威者なので、正確な情報を聞き出せたし、なによりもその進行状況がロストンは気になっていた。

「いいフェスだったよ」ハイムが改めて思い出したように言った。「アフリカ料理が少なかったのが少し残念だと思うがね。ああいうフェスでは中華、タイ料理、日本食、インド料理、イタリアンが多くて、そっちからの移民が多いから仕方ないんだが、広大なアフリカには上から下まで実に多様な料理があるんだ。北アフリカで使う調味料でハリッサというのがあって、独特のピリ辛さがあるんだが、それが四川料理や韓国料理の辛さともまた違って、いいんだよ」

 その時、可愛い顔の女性型ロボットがロストンたちのテーブルの前で止まった。「ご注文の品です」と言い、料理とドリンクを丁寧に置き、素早く去っていく。

 ハンバーグは、バンズ、レタス、チーズに挟まれた肉がちょうどいい焦げ目をしていて、肉汁を滴らせていた。ハイムの皿を見ると、大きめのチキンの上を赤いカレーが覆い、そこに緑の野菜が丁寧に添えてあり、色鮮やかだった。

 ロストンはコーラを手に取り、少し口にした。そしてハンバーガーにかぶりついた。ふんわりしたバンズとパリっとしたレタスの食感に柔らかいチーズの芳醇な香りとグリルされた肉のジューシーな旨味が合わさって美味しかった。ハイムも手でちぎったナンをカレーにつけ、口に入れると、満足げな顔をした。そしてそれを全部飲み込むと、冷たそうな黄色いマンゴーラッシーをストローで吸いこんだ。

「辞書の進行はどう?」ロストンが切り出した。

「うん、早く進む時もあれば躓いたりもするね」ハイムがストローから口を外しながら言った。「最近は接続詞を扱っているんだが、なかなか面白いよ」

 ハイムはオープンスピークの話が出たとたんに目を光らせた。ゆっくり落ち着いた感じではあったが、マンゴーラッシーのグラスを横にどけ、身を乗り出した。

「今作っているのが辞書の第三版なんだけど、第二版に比べてかなり厚くなるかな。英語に無いものを導入し、英語の中でも使わなくなった古いものを蘇らせようとすると、量がかなり多くなるんだ。これが完成すれば、君のような校閲の仕事をしている人は、増えた単語をいち早く覚えないといけないから、苦労するだろうね」

 彼はロストンを直視しながら言葉を続けた。

「おそらく世間はわれわれ委員会がただ外来語と大昔の英単語を紹介しているだけだと思っているだろう。ところがそう簡単なことではなくてね、今使っている英単語とそれらの単語のニュアンスが異なるのか、ほぼ変わらないのかを慎重に分析して、一致しないものだけを丁寧に選別する必要があるんだ。今使っている英単語が外来語に取って代わられて消えないようにね。あくまでも言葉を豊富にするのが目的なんだから、現代英語と古い英語と外来語の共存が前提だ。もちろん、われわれだけがその役割を担っているわけではなく、数でいうと人々が自然発生的に使い始めた外来語や昔の英単語の方が、そりゃあ、はるかに多い。でもそれを辞書に入れるのはわれわれの仕事だから、なかなかの作業量だよ」

 ハイムの彫りの深い顔は先ほどより真剣な表情になっている。彼はまたカレーをつけたナンを口に入れ、飲み込むと、学者的な情熱に突き動かされたように話を続けた。

「実用的なことなんだよ、単語を増やすというのは。言うまでもなく一番豊富に増えるのは動詞と形容詞だけど、名詞も導入すべきものが数千はあるね。たとえば面白いのが日本語の”I″だ。英語で自分のことを指す単語は”I″しかない。ところが日本語の場合、”ボク″、”オレ″、”ワシ″、”ワタシ″、”アタシ″、”ワタクシ″、”アタイ″などがある。今言ったのは全部”I″だけど、これらは”I″と言っている人の性別や年齢などが表現された”I″なんだ。英語の”You″も日本語では”キミ″、”アナタ″、”アンタ″、”オマエ″、”キサマ″などがあって、これらは相手の歳や性別や話者との関係性が表現された”You″なんだ。古い日本語や方言を入れるともっと豊富になる。もちろん ”I″と”You″自体にそれらの表現を含ませなくても、英語のように年齢や性別の情報を文章の中で追加すればそれらを表現できる。でもね、短い言葉で多くの情報を伝えられるメリットに加えて、”I″は実に男らしく聞こえる”I″になったり、女性らしく聞こえる”I″になったり、年寄りらしく聞こえる”I″になるんだ。その感じは英語の”I″では表現ができない。今までに英語になかった表現を取り入れれば、表現と認識の幅が格段に広がるはずだよ」

 日本語を知らないロストンは実感をもって理解できたわけではないが、理屈はなんとなく分かった。何か返す言葉がないか探っていると、ハイムが間髪を入れずに話を続けた。

「豊富になるのは同義語ばかりじゃない。反義語だって豊富になる。ある単語の反対の意味を持つ反義語が豊富にあることは、実はとんでもなく重要なことなんだ。例えば、生きることの大切さは”生命″や”生″という単語を使うだけでは十分に理解できない。”死″という反義語を知ってこそ、つまり死のもたらす怖さや絶望や儚さを知ってこそ、その反対である”生″の大切さと意味がはっきりと分かってくるんだ。逆も然りで、”死″の意味は”死″という単語を使うだけではちゃんと理解できない。”生″という反義語があって、生の大切さや嬉しさを知ってこそ、その対比として”死″の怖さと虚しさと悲しみがはっきりと理解できるようになるのさ」

 ハイムは喉が渇いたのか、横にどけていたマンゴーラッシーを一口飲んでからまた言葉を続けた。

「それに、”生″の反義語は”死″だけとは限らない。”生″というものが欲望にまみれた卑しいものだと考える人は、その反義語を”死″ではなく”解放″や”解脱″だと言うかもしれないし、”生″を”有限のもの″と捉える人は、その反義語が”無限″や”永遠″だと考えるかもしれない。でもそのような反義語の複数性は”生″の意味をあやふやにするわけじゃないんだ。むしろ、”生″が大切なものであると同時に、欲望にまみれたものでもあり、有限なものでもあることを浮き彫りにし、”生″をより多角的で総合的に捉えることを可能にしてくれる。だけど、英語に限らずどの言語でもそうだが、現在使われている自国の言語だけでは単語の数に限りがあるから、多角的かつ総合的に物事を捉える思考力が限られてしまうんだ。だから現在の言語生活に、他言語の単語や、今はもう使われない古い英単語を取り入れることで、われわれは思考力を高めることができる。オープンスピークがもっと広まれば、言葉と思考の範囲がもっと広くなるはずだ。どうだ、素晴らしいと思わないか? このプロジェクトを連合がサポートしてくれているおかげで、実に速いスピードでオープンスピークが普及しているんだよ」

 連合の名前を耳にした瞬間、ロストンは自分が暗い顔になったのを自覚した。すぐ表情を戻そうとしたが、ハイムはその一瞬を逃さなかった。

「どうしたんだ、その顔は? うん、君はまだオープンスピークの真価を理解していないな。そう言えば、君は校閲の仕事の大半が、クローズドスピークになっているのをオープンスピーク用語に直すことだと言っていたね。それは、クローズドスピークで考える習慣が記事の担当者からまだ完全に抜けていないからなんだ。無意識的にしろ、クローズドスピークを守りたいと、どこかで思っている。その表現できる意味とニュアンスの狭さと限界性にもかかわらずだ。言葉の多様化と豊富さがもたらす素晴らしさを十分に理解していない。他の言語圏でもオープンスピークを採用しているけど、英語が世界で一番早く語彙を増やしている言語なのを知っているかい?」

 英語が一番そうだとは知らなかった。ロストンは首を横に振った。ハイムは肩をすくめ、マンゴーラッシーをもう一度口にし、話を続けた。

「オープンスピークの目的は人々の思考の範囲を広げ、思考のレベルを高めることにあるんだ。一つの効果として、排外主義への傾倒を防ぐ側面もあるだろう。何しろ思考に用いる言葉の多くが外来語になるわけだから。外来語を習得する過程で、その単語を使う国のものの考え方や文化に触れ、人々は他国にもっと親しみを感じるようになる。何も外国に対してだけじゃない。もう使われなくなった古い英単語も言語生活に取り入れられるから、昔の人たちの考え方や感性を学ぶ機会になって、自国の歴史にも親しみを感じやすくなるよ。言語を共有することはアイデンティティー、つまり帰属意識を共有することでもあるんだ。アイデンティティーは重層的なもので、私と君は男でありながら、ここの社員でもあり、白人でもあり、同時にアメリカ人でもある。だから外国の言葉を共有することで、アメリカ人はアメリカ人でありながら、世界人としてのアイデンティティーも芽生えることになる。危険思想を取り締まる法律によって他人種や他宗教をあからさまに差別する人は消えたけど、心の中でひっそりと差別をしている人はきっと多い。だがオープンスピークが広まれば、心の中の差別さえすっかりなくなるだろう。本当の意味での愛と博愛と平和がこの世に実現することになるんだ。言語が広く共有された時こそが、本当の意味での世界市民革命の完成だ。オープンスピークがまさにアメプル、つまりアメリカン・プルーラリズムだし、アメプルがオープンスピークなんだ。想像したことがあるか、ロストン、外来語と古い言葉を生活に取り入れ続けるオープンスピークが定着すれば、千年後も一万年後も、未来の誰もが、今僕たちの交わしている会話を理解できるだろうことを」

 ロストンはハイムの見方に同意しなかった。だが、ここで彼と深い議論をするつもりはなかった。議論をすればするほど自分が異端派であることがバレてしまうだろう。

 だが反論したい気持ちが無意識に出てしまったのか、気が付くと「ただしトラディットは」という言葉が自分の口からポロっと出ていた。

 ロストンは、はっとして口を閉じた。言いかけたのは「ただしトラディットは除いて」という言葉だったが、途中で黙ったのは、異端だと疑われる恐れがあるからだった。

 だがハイムはあまり深い意味で捉えてはいない様だった。

「ああ、トラディショナリストたちのことか」ハイムが言った。「近い将来、クローズドスピークへの偏屈なこだわりはすべて消えるよ。過去の文学、たとえばチョーサー、シェイクスピア、ミルトン、バイロンの古い英語はオープンスピークのおかげで再び生活の中で使われ、身近な言葉に感じられるようになる。それは昔の単語を元の意味のまま活かすというだけに留まらない。昔の単語が現代のそれと共存しつつ、使い分けられるから、現代の単語のニュアンスや意味もよく理解できるようになるんだ。それは世界市民連合の精神とも合致する。古今東西のあらゆる言葉の良さを理解できるようになったときに、”相対は絶対なり″のスローガンは実感を伴うものになるはずだ。狭い思考は存在しなくなる。正統とは、広く、深く、多重的かつ総合的に思考すること、つまり、高次元的な意識のことなんだ」

 ロストンは反論したい気持ちを抑え、静かに頷いてみせた。

 そして確信した。ハイムのような人はきっとこれからも出世して行くだろうと。知的で、スケールが大きく、理想を語りながらもそれを成し遂げるための現実的な方法を心得ている。連合はそういう人を好み、育て、積極的に活用していくだろう。

 ロストンはまだ半分しか食べていないハンバーガーをかじり、コーラに手を伸ばした。

 一口飲み、隣のテーブルを見ると、どこかで見たことのある男が熱心に話している。その前には若い女性がロストンに背を向けて座り、その男の話をじっと聞いていた。男の顔に見覚えがあった。たしか文芸編集部の偉い人だったような気がした。五十歳ぐらいで、テーブルの上に身を乗り出して何かをしゃべっている。まわりの音が邪魔をしてよく聞こえなかったが、一瞬「ストーンズを排除するためには」という言葉が聞こえた。

 それを聞いただけで、どういう会話をしているのか大体想像がついた。危険思想犯の厳しい取り締まりが必要だと言っているのだろう。あのように会社で成功したタイプの人間は、グローバル化を進める企業家やグレート・マザーを褒め称え、自分が生粋の正統派でアメプルの熱心な支持者であることを周囲にアピールする。

 ロストンは再びハイムに視線を戻した。

 彼はフォークに刺さった赤いチキンを口に入れている。ロストンは思った。自分が異端であることを知ったら、おそらくハイムはリベラル・ネットワークに通報するだろう。彼は気さくで優しい性格だが、異端派に対しては排他的なのだ。

「サムだ」ハイムがフォークを下ろしながら言った。

 振り向くと、サム・ドーソンが近づいていた。

 痩せ気味で、細長い犬のような顔をしている。身のこなしは落ち着いていて、どこか年寄りを思わせた。仕事は要領よく進めるが、雰囲気はゆったりしている。そのためか、彼が普通のスーツを着ていても、年寄りが地味なセーターを着た姿を連想してしまうのだった。実際に彼は、プライベートではいつも暗くて地味な色の服を着ていた。

 サムは二人に「よう」と挨拶をしながらテーブル前に着いた。仄かなラベンダーの香りがする。

 ちょうどその時、ハイムは何か仕事の連絡が入ったらしく、二人に向かって「失礼」と断って自分のスマートスクリーンを覗き込んだ。

「何か注文は?」ロストンが言った。

「いや、さっきもう済ませたんだ」サムが座りながら言った。「昨夜はこっちから招待したのに仕事が入ってしまって、すまなかったね。うちの子供たちが一緒に出掛けようって、ずっとねだっていたらしいね」

「いやいや、僕がいたせいで子供たちをフードフェスに連れていけなくなったんだから、こっちこそ申し訳ない気分だよ」

「うちの子らの小学校には移民の子たちが多いみたいでね。その親たちがフェスで屋台を出していたみたいなんだ。そこで友達とも遊びたかったんだろう。この街もすっかり多文化社会になったもんだ」

 そう言うとサムはふと思い出したように顔を顰めた。「そういえば、うちの娘なんだが、学校の人影のないところで、ある教師が移民の子に差別的な発言をしているのを聞いたらしくてね。言われた子はショックで黙り込んでしまったらしいが、娘がその子を連れて警察に行って通報したんだよ」

「小学生が?」急な話の展開にロストンは驚いて訊いた。「その教師はどうなったんだ?」

「うん、娘の証言が証拠となって、逮捕されたよ。その後は、精神病院か刑務所のどっちかだろうね」

「やっかいだな……」ハイムが自分のスマートスクリーンを覗き込んだままつぶやいた。難しい表情をしている。急な仕事でも入ったようだった。

 フードコートは人が大勢で騒がしく、大型スマートスクリーンも大きな音量でニュースを流していた。経済政策研究所の発表によるとアメリカの一人当たりの生活水準が昨年より二パーセント上昇したらしい。

 ロストンは心の中で反論した。平均の生活水準が上昇しても貧富格差は開いているではないか。金持ちが平均を釣り上げているだけだ。現実の実感を反映しない経済指数を並べられて、他の人たちは腹が立たないのだろうか? ハイムの懐事情は分からないが、このフードコートにいる社員たちは幹部を除いてみな庶民で、貧困層に陥る不安を抱えているはずだ。なのに、ニュースを観ている誰も不満な顔をしていない。それどころか、隣のテーブルに座る文芸編集部の男なんか、ニュースを眺めながらむしろ満足げに微笑んでいる。この現状に問題意識を持っているのは自分だけなのだろうか?

 ロストンが気に入らないのはそれだけではなかった。埋まらない現実の格差を、人々が表面的な外見を取り繕うことで埋めようとするところも気に入らなかった。フードコートを見渡すと、男も女もブランド物の服やアクセサリーを身にまとっている。だが着飾ったかれらは、真に裕福な者たち、庶民の手の届かない高級車を乗り回し、大豪邸に住み、本物の宝石を着飾る富める者たちと自分たちを比べざるをえない。テレビではいつもそういう金持ちの暮らしぶりが紹介されている。相対的な剥奪感は、いくら背伸びをして着飾っても消え失せることはないのだ。

 気が付くと、いつの間にかニュースが終わり、大型スマートスクリーンの画面は広告に変わっていた。

 隣のテーブルでは、相変わらず文芸編集部の男が同じテーブルの女に向かって話しかけている。

 ロストンはテーブルの女と髪型が似ているミセス・ドーソンのことがふと思い浮かんだ。ドーソン夫妻の子供たちは、もし自分たちの親が人種差別の発言でもしようものなら、警察に通報するのだろうか? うっかり口がすべったら、自分もこの社会から排除されるのだろうか? サムやハイムのような正統派は、正統派の正しさを心底信じているからうっかり不適切な発言をすることがないかもしれない。だが自分は異端派の価値観が思わず言動に出てしまうかもしれない……

 考えを巡らせていると、ロストンはふとあることに気づき、びくっとした。今まで顔の見えなかった隣のテーブルの女が、振り向いて自分の方を見ているのだった。

 あのファッション系の動画サイトで有名な女だった。

 睨んでいるように見える。だが目が合うと、女は目を逸らし、前を向いた。

 ロストンは動揺した。もしかしたらニュースに不満そうな顔をしているところを見ていたのだろうか? 異端派であると見抜かれたのだろうか? それとも、自分が彼女の方に顔を向けていたから、ずっと見られていると勘違いでもしたのだろうか? 

 ロストンの脳裏に、彼女について以前思ったことが浮かんだ。有名人である彼女が、誰かを性差別主義者だと名指しするだけで、名指しされた男はすべてを失うだろう。同じように、じっと見ていたからという理由で、自分を指してストーカーだと周囲に言いふらしでもしたら、自分は終わりだ。もうこの会社にはいられないだろう。下手したらストーカー容疑で警察に捕まる可能性だってある。女の言うことが優先されて、誰も自分の言うことなど信じてくれないだろう。

 ロストンはぞっとし、慌てて女のいる方向から目を逸らした。そして身体の向きも斜めにずらした。

 ところで彼女はなぜこの社内フードコートに二日続けて来ているのだろうか、とロストンは疑問に思った。同じテーブルの偉い人とオフィスで何かの打ち合わせをし、それが終わって一緒に食事に来たといったところか。動画サイトのファッションリーダーと文芸がどのように繋がるのか思いつかなかったが、何か一緒にプロジェクトを進めているのだろう。

 その時、昼食時間終了の五分前を知らせるチャイムがフードコートに鳴り響いた。

「行きますか」とサムが言い、ハイムは格闘していた自分のスマートスクリーンをカバンに入れた。

 ロストンは二人と一緒に立ち上がり、女と視線が合わないように注意しながらフードコートを後にした。



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