第6話
ロストンは部屋で投稿画面を開き、音声入力で書き込んでいた。
<三年前、真っ昼間の、とある広場の中央。彼女はそこに立っていた。燦燦と輝く太陽。化粧など一切していない、すっぴんの若い顔。その自然な肌と唇。路上には人がいっぱいで、彼女は集まったホームレスに食料を配っていた。>
そこで言葉に詰まった彼は、リクライニングチェアにもたれ、目を閉じ、当時のことを鮮明に思い出そうとした。自分を癒やしてくれる記憶を思い出したかった。
彼は瞑った目の暗闇の中で思った。重要なのは内面の安静ではないだろうか。内なるものが安らぎを感じると、それは表面にも出てくる。
ロストンは目を開いて、再び音声入力で書き始めた。
<僕はそこを離れ、道路を渡った。そして振り向き、彼女の姿をもう一度遠くから眺めた。彼女は……>
突然、安らかな気分が乱れ、不快感を覚えた。
広場の女性のことを思い出そうとしたら、それとは真逆のロズリンのことが浮かんでしまったのだ。かつて結婚まで考えた人だったが、うまくいかなかった。
気を取り直し、広場の女性をまた思い浮かべようとした。彼女の着ていた、シンプルで清楚な白黒の修道服。世俗の女たちは香水をつけ、厚化粧をするが、修道女は化粧もせず、香水もつけない。その清楚な透明感は、神の愛を万人へと媒介するためのものに思えた。彼女を女として見ているのではなかった。彼女はそういうのとは無縁な、汚れなき存在なのだ。
貧民たちの居住区には、かれらを助けるために集まったボランティアのクリスチャンが大勢いて、彼女もその一人だった。
貧民街での宗教活動は、世界市民連合も奨励している。信仰の自由を認めながらも宗教と相性が良いとは言えない連合がそれを奨励するのは、貧民援助というお金のかかる役割を宗教に肩代わりしてもらいたいからだ。その過程で行われる布教は、力のない底辺の人たちを対象にしている限り、連合にとって大した心配事ではないのだろう。それよりかれらが心配するのは、おそらく、自らの組織の中に宗教の影響が入り込むことだ。昔、連合内で宗教的な活動を推進するメンバーが急に増え出し、内部論争の末、それらのメンバー全員が除名されるという事件があった。
連合は、宗教が絶対的な価値を説く点を内心嫌っている。だがそれだけではない。公言してはいないが、その禁欲的なところも気に入らないのだ。連合は、性の権利や性の多元性の名のもとに、貞操観念を崩してきた。惹かれ合っていれば、愛が無くても、結婚していなくても、男同士でも、女同士でも、性交に及ぶのは個人の自由だというのがかれらの見解だ。価値は相対的だというわけだ。もはや性交は、子を授かるための神聖で厳かな行為ではなく、快楽のためのものに成り下がっている。正統派にとって貞操観念は自由を縛る時代遅れのものでしかない。注意深く観察してみると、誰もが子どもの頃からそのような価値観を刷り込まれている。
ロストンは、またロズリンのことが思い浮かんだ。
別れてから十年近くになるだろうか。一緒にいたのはたったの四カ月ほど。彼女はいつもどこか気の抜けたような、隙だらけの人だったが、そこが可愛いところでもあった。しかし、彼女のことを可愛いと思えたのも、実は淫らな女だったと気づくまでのことだった。
彼女はことあるごとに身体に触れてきた。そのたびに自分はこわばり、顔が引きつった。彼女は硬直してしまう自分の様子に失望して少し身を離したかと思うと、また全力で抱きしめてきて、柔らかい肌を擦り付けた。それでも自分は指一本動かさなかった。しかしそんな時でさえ彼女は、お互いもっと親しくなれば、いずれは誘いに乗ってくれるだろうと期待しているようだった。だからこの誘惑と拒否のやりとりは何度も繰り返された。
今もそうだが、当時の自分は結婚するまでに性行為に及ぶつもりはなかった。信仰上の理由から、子どもを作る目的以外に性行為に及びたくなかったのだ。最初は我慢していた彼女も、しばらくしてついに諦め、二人は別れた。
ロストンは気を取り直した。今思い出したいのはロズリンではなく、修道女の姿だった。
彼は目を瞑り、息を深く吸って、記憶を辿った。そして再び音声入力で書き込んだ。
<彼女は遠くで慈悲深い顔をしていた。そして白黒の清楚な修道服の上で両手を合わせ、目を閉じ、お祈りをはじめた。>
ロストンは神の光の中にいる自分の姿を想像した。心が静かに満たされていく。
だがそれも長続きしなかった。摺り寄せてきたロズリンの白い肌がふと浮かび、心を掻き乱すのだった。
彼は苛立った。どうして世俗の女たちはあの修道女のようになろうとはしないのか? 人々は自由奔放な性意識を刷り込まれている。早期教育によって、ドラマや映画の淫らな内容によって、貞操観念が奪われているのだ。自分が心から願っているのは、そうではない女性に出会うこと。この淫らな世界で、声高らかに性行為を拒むのは一種の反逆だ。それはもしかしたら危険思想とまで見なされるかもしれない。
ロストンは、もう少しで修道女の姿が完全な形で思い出せそうな気がした。
彼は意識を集中させ、音声入力を続けた。
<僕は目を開けた。光の中で見た彼女は……>
その日、太陽の強い光も、なぜか穏やかな日差しのように感じられた。修道女は遠くで貧民たちに食料を配っていた。彼女を眺めていると、安らかで幸せな気分になった。
だがそれは危険なことでもあった。信仰の自由は保障されているが、法的にはそうだとしても、実際には不利益がある。連合の価値観と宗教は相性があまり良くないのだ。異端派ではないかと、疑いの目で見られる可能性もある……
いや、今は彼女のことに集中しよう。もう少しで完全に思い出せる……
ロストンは思い浮かんだことを急いで口にした。
<光の中で見た彼女は、聖母マリアだった。ありのままのその素顔は肌が透き通るように白く、髪は明るいブロンドで、唇は慈悲深く微笑んでいた。優しい眼差しで僕を見ている。僕は、ためらいながらも、その胸の中に自分を預けたのだった。>
彼女の姿を思い浮かべながらロストンは目を閉じた。
これは効果のある治療法かもしれない、と思った。彼は自分の心のなかで渦巻いていた動揺、苛立ち、怒りが少しずつ静まっていくのを感じた。
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