第3話
ロストンは母の夢を見ていた。
母がいなくなった時、彼は十歳ぐらいだった。母は普通の背丈で、おしゃべりな女性だった。父はというと、白人の中でも一層色白く、いつも派手な色の服を着ていた。両親とも彼が小さかった頃にいなくなったが、まずは母が誰かと駆け落ちして外国に飛んで行き、しばらくして父も彼をおいてどこかに蒸発したのだった。そのせいでロストンは親戚の間をたらい回しにされた後、孤児院に入った。
夢の中で、母は大きな船の上に立ち、妹を抱っこしている。向き合って笑っている。すでに二人は彼の手の届かないところにいたが、さらに遠くへと離れつつあった。もう会えないということを彼は分かっていた。母を責める気持ちはなかった。意識にあるのはただ、自分が捨てられたという事実だけ。具体的に何が起きたのか当時は分からなかったが、母が他の何かのために自分を捨てたことだけは理解していた。
夢の中で彼は考えた。家庭の悲劇はここ百年、二百年で始まった近現代社会に顕著なもの、自分の移り変わる心や欲情に忠実なことを肯定する時代のものだ。現代では家族を守ることが当然の義務や美徳ではなくなった。母は利己的なあまり自分の愛欲の方を選び、家族を捨てたのだ。もはやそうしたことは日常茶飯事。不倫、離婚、養育権の押し付け合い。世の中には快楽、欲情、不誠実がはびこり、気高い義務感や責任感はもはや存在しない……
気がつくと、彼は広い空き地に立っていた。何もない空間が遠くまで続き、人工的な照明が空き地を白く照らしている。まだ夢の中だった。
その風景は夢のなかで繰り返し出てきたが、どこか懐かしく、どこかで実際に見た風景のように思えた。すぐ近くでは溶解した真っ赤な鉄が流れている。彼は夢によく出るこの場所を”地獄″と名付けていた。
その時だった。
突然、どこからか金髪の女性が現れた。
肌を全部覆い隠す黒い服装をし、顔は垂れ下がったベールに隠れて見えない。服装は、脱げないように何重にも重ねられ、紐やベルトでしっかりと結ばれていた。その鎧のような服は今の淫らな文化や価値観を完全に拒否していた。服の厚みは、グレート・マザーや世界市民連合やリベラル・ネットワークの価値観を完全に遮断し、撥ねつけるものだった。そう、それは……
はっと目を覚ますと、アラームが鳴っていた。
午前7時15分。起床の時間だった。
夢の余韻にもっと浸りたかったが、ロストンはベッドから出た。もうすぐヨガが始まる。参加する義務はなかったが、規則正しい生活を維持するために参加を習慣にしていた。インド由来の異質なものに参加することに多少の違和感はあったが、近隣でやっているのはそれしかないからしょうがない。
マンションを出て、早朝の空気を吸いながら歩くと、目が覚めてきた。
五分ほどで近くの公園に着くと、いつものように大勢のお年寄りが集まっている。
「皆さん、お互いにぶつからないように距離を開けてくださいね」
女性インストラクターの声が公園に響き渡った。
ロストンは年寄りたちの間に並び、前方のスマートスクリーンを眺めた。その中にスレンダーな白人女性のインストラクターが映っている。
「でははじめましょう」
女性の動きに合わせて、皆がヨガのポーズを取り始めた。
「はい皆さん、呼吸を整えてくださいね。イチ……ニ……」
ゆっくりと呼吸をしながら身体を動かすと、ロストンの脳裏にさっきまで見ていた夢の風景が自然と浮かんだ。だが呼吸が深くなると、徐々に夢の風景が消え、それと入れ替わるように幼い頃の風景が浮かび上がってきた。
それは、自分が八歳か九歳だった頃の、終戦前後の風景だった。
空襲が終わって終戦の知らせが届いたその時、自分は父の手をつかみながら深い地下から地上へと階段を上っていた。階段はとても長かったが、途中から差し込んできた地上の明かりが足の疲れを忘れさせた。母も赤ん坊の妹をおんぶしながら後ろから必死についてきていた。
やっと到着した地上は、想像以上に破壊されていた。主戦場ではないと聞いていたが、それでも多くの建物が跡形もなく崩れていた。地上に出た人々は、もうあるかどうか分からない自分の家や、他の防空壕にいるかもしれない家族や友人を探すため、さっさとその場を離れた。久しぶりに浴びる太陽の光や青空に感動したのか、上を見上げて涙を流す人もいた。ロストンたちは、妹をおんぶしていた母が体力を使い果たしたので、そこでしばらく休憩していた。
その時、近くに知らない若い男女が座っていた。その頃の誰もがそうであったように汚い身なりだったが、男の目は誰よりもいきいきとしていた。
「かれらが戦争を主導する政府を従わせた。俺も仲間に加わろうと思う」
おぼろげな記憶だが、男はそのようなことを隣の女に話していた。もっと長々と政治的なことを語っていたような気がするが、当時のロストンは幼過ぎて内容を理解できなかった。だが大人になって振り返ってみると、おそらくその青年は世界市民革命について話していたのだろうと思えた。
世界市民革命は戦争の中で起きた出来事だった。世界戦争によって世界は壊滅状態になり、何億人という人間が死んだが、その戦争は好戦的な国家首脳同士の対立がエスカレートして勃発したものだった。そこで、政府の暴走を制御する機関が必要だという考えが広まり、戦時中、世界各国の何十億という市民が立ち上がって世界市民連合を創設した。そして連合は、各国政府に国家主権の部分的な委譲を迫ったのだった。当然、諸政府はそれを無視したが、次第にそれを無視できない状況が生まれた。多くの政府は、戦争による物理的な破壊と国民の反政府運動によって徐々に機能不全に陥りつつあった。そして弱体化した政府に対して軍部がクーデターを起こしたり、反政府勢力によって内乱が発生したりと、各国で混乱が続き、幾つかの国では政府が転覆されるに至った。世界市民連合の協力なしに状況を放置すれば、大国においても現行政府の存続が危ぶまれる事態だった。そこで、危機感を感じた各国の政治家たちは政府だけでなく、自分たちの命を守るためにも、世界市民連合に国家主権の一部を委譲することを決定した。そしてそれにより反政府運動が収まり、政府の統治力が回復することが確認されると、最初は参加しなかった他の国々もその流れに加わるようになった。その一連の出来事を世界市民革命と呼ぶ。
それ以降、今までの数十年間、国家間の戦争は無くなった。緊張感がエスカレートする局面は度々あったし、反体制派によるテロや国内の内紛もあった。だが国家間の全面戦争は起きなかった。それは世界市民連合によって政府間の対立が制限されたおかげだと言われており、連合はその功績を大いに称えられている。
だが、ロストンの考えでは、それは表向きの教科書的な説明だった。
平和になれば何でもいいわけではない、と彼は感じていた。平和のためにという名目で、理不尽なことがまかり通っている。例えばアメリカは、国家予算の大きな部分を世界平和のための軍事費と支援金に使い、領土紛争の種になるからという理由で、世界市民連合の提案を聞き入れ、領有権を持っていた中南米との境目にある島々を無主地にしてしまった。
だが国は自国民の利益を守るためにあるはずで、国は自国の利益を第一に考えるべきなのだ。平和が重要だからといって、国の威信、国の利益、国民感情を犠牲にしてまで他国に媚びてはならない。ところが、世界市民連合は、まさにそういう犠牲を国家に強いて平和を保とうとする……
安らぎを求めるヨガの瞑想の中、彼は重い考え事にとらわれてしまっている自分にふと気づいた。だが流れ出るような思考を止めることはできなかった。
そう……国はいつも連合に犠牲を強いられている。たとえば、アメリカとヨーロッパ諸国の関係が悪化した時期に、主要メディアは、様々な角度から見た両者間の絆や相互依存関係を報道し、国家関係は敵か味方かで片づけられるものではなく、多面的なものであることを連日強調した。国家間でたとえ対立する部分があってもお互いを利する部分の方が大きく、だからお互い譲り合って協力関係を強化すべきだ、と。そのような連日の報道の結果、世論が動き、政治家が立場を変え、自国の利益を第一に考えた元々の主張は撤回されるに至った。そのように、国家間の緊張が高まると、連合はあらゆるメディアを利用して国家間の歴史を親密なものへと塗り替えてしまう。
でもアメリカはヨーロッパの一部ではない。アメリカは自国の利益を優先すべきなのだ! いくら多面的で切り離せない関係にあろうとも、お互いに媚びて何もかも妥協してしまっては、自立した国家とは言えない。だがそのような考えを口外しようものなら、世間に”危険思想″のレッテルを張られてしまうだろう。もう世間は、連合の刷り込んだ価値観を完全に信じていて、自分自身の力で考えることができない。連合は思想を支配しているのだ。
連合の主張の中に”過去の多面性を明らかにすれば未来も多面的なものとして開かれ、現在の多面性を明らかにすれば過去の多面性も明らかになる″というものがある。過去の解釈が変われば未来に向けての姿勢も変わり、現在に対する解釈が変われば現在の原因である過去の解釈も変わる、というわけだ。つまりかれらは、どのような過去も現在も未来も、多面的なものとして再発掘することができると主張している。それがオープンスピークで言う”現実の多面性″や”対立の統合″だ。
「では次に、脚をひし形に曲げて、前に屈みましょう」スクリーンのなかの女性インストラクターが声を上げた。
ロストンは座ったまま腰を曲げて屈み、ゆっくりと息を吸った。
鼻を通る空気を感じながら、意識が今度は”対立の統合″をめぐる雑念へと流れ込んでいく。
対立の統合とは、互いに相反するものが同時に統合されていることを指す概念だった。たとえば親しみと憎しみの関係を挙げることができる。人はお互い憎しみ合い、殺し合う関係になりうる。そのような潜在的な危険性を意識するほど、親しい関係を築くことの大事さを強く認識するようになる。また、人はお互い親しい関係になるほど、その友情と愛を失うことや、お互い憎しみ合う事態に陥ることを恐れるようになる。つまり、相反する二つが、まさに相反することによってお互いの重みを増すのだ。連合は、相反するものはお互いを必要とする一つの統合されたセットだと主張する。相反する価値観は、お互いに対立しているように見えて、実はお互いを必要とするものであると。その本質を知ることで、何か問題が起きた時の克服が容易になるという。
だがロストンは、連合の主張は矛盾していると強く感じていた。相反する価値観はお互いを必要とすると言っておきながら、価値観の相対性を否定する価値観をかれらは許さないのだ。たとえばキリスト教が絶対に正しくて他の宗教は間違っているという考えを連中は許さない。全ての価値観が相対的であることは絶対であるというのが連合の考えだ。
「さあ、今度は息をゆっくり吐き出しましょう。ゆっくりと、フー」インストラクターが再び声を上げた。
彼は続けて考えを巡らした。
そう、過去が多面的で常に更新されるものならば、いま自明とされているものをどうやって信用できる? あの”アメプル″も矛盾した概念ではないだろうか。自分が十代の頃にその言葉があったかは覚えていないが……
「ミスター・リバーズ!」スマートスクリーンの中からインストラクターが声をかけた。「もっと身体を屈めてくださいね!」
名前を呼ばれてロストンはビクッとした。
インストラクターは優雅な動きで身体を屈め、今度は全員に向けて声を発した。
「さあ、皆さん、ゆっくりと息を吸って……ヨガは呼吸が大事ですから、私に合わせてくださいね。スー」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます