第2話
息を飲みながらモニターを覗くと、セミロングヘアの女性がドアの前にいた。ロストンは、警察ではなかったことに胸を撫でおろしたが、約束を忘れていたことに気づいて、はっとした。彼は急いで玄関へと向かい、ドアを開けた。
「ああ、やっぱりいらっしゃったのね」女性は明るい、陽気な声で言った。「約束の時間から少し経ったので、もしかしたらお忘れなのかなと思いまして」
ミセス・ドーソンだった。同じ階に住む会社の同僚の妻である。たしか、四十歳くらいだと聞いているが、三十代前半のように若く見える。皺ひとつない。
「ごめんなさい、色々あって遅れてしまいました」
良い言い訳が浮かばなかった。単純に忘れていた。急いで靴を履いたロストンは、玄関を出て、彼女の後をついて行った。
約束とは、お礼の食事のことだった。先日、夜の八時過ぎにドーソン夫妻に急な仕事が入り、かれらが雇っているベビーシッターも通常の勤務時間ではないので連絡がつかなかった。それで隣人であり、会社の部下でもある自分に子供たちの面倒をみてくれないかと頼んできたのだった。子供の世話は結局のところ二時間ぐらいで済み、大した負担にはならなかったが、お礼にディナーをご馳走してもらうことになった。それが今日だった。
同じ階とはいえ、ドーソン家までは三百メートルほどある。進みながらロストンは周りを見渡した。
このマンションは設備が充実している。天井や壁のいたるところにスクリーンが設置されており、建築材料はすべて頑丈な素材でできていて、錆びたり、ひび割れしたり、色落ちしたりしない。また、マンション全体が大きな台の上に乗っかっていて、大型台風が来る時は建物が地下へと降下し、洪水が予想される時は高く上昇するようになっている。また、設備が充実しているにもかかわらず、電気代や管理費はリーズナブルだった。建物の管理者に聞いた話だと、電力会社や不動産業者の間で市場競争が激しく、安くなっているらしかった。
「ミスター・リバーズ、実は……」前を歩くミセス・ドーソンが振り返りながら言った。「こちらから招待しておきながら申し訳ないのですが、サムが残業でまだ帰宅していないんです。すぐ対応しないといけない急な仕事が入ったみたいで……」
ロストンは「大丈夫ですよ」と返したが、少し気まずい感じがした。
ドーソン夫妻の家に入ると、そこはロストンのところよりも広い間取りで、煌びやかなインテリアに囲まれていた。それに、目に見えるすべてが整理整頓されていた。掃除ロボットが随時片付けてくれているのだろう。今も、ロボットが子供のおもちゃを収納している最中だった。ガラスのテーブルも埃一つなく、ピカピカだった。壁には中型のスマートスクリーンが掛かっていて、そこに家族写真や絵画やグレート・マザーの映像が映っている。奥の部屋では誰かが音楽に合わせて歌っていた。
「子どもたちです」ミセス・ドーソンはそう言うと、困った顔で部屋の方に目をやった。「お腹が減ったと言って聞かないので、子供たちは先に夕食を済ませてしまったんです。一緒に食事しようと言ったのですが」
「いいえ、私は、ぜんぜん構いません」
その時、料理ロボットがシーザーサラダ、サラミ、パスタ、赤ワインをダイニングテーブルへと運んできた。トマトソースとバジルの豊潤な香りがする。
「サムも家にいたら良かったと思いますが」彼女が言った。「人とお食事をすることが大好きな人ですから」
サムは痩せ気味だったが精力的に仕事をこなし、賢明で、冷静な思考の持ち主だった。細かいところまで目が行き届く几帳面な性格でありながら、クリエイティブな仕事も次々とこなすエリート社員だった。世界市民連合の安定は、おそらくリベラル・ネットワーク以上にサムのような人たちに支えられているのだろうとロストンは思っていた。
「とても美味しいです」シーザーサラダを一口食べて言った。
「よかった」ミセス・ドーソンは顔を緩めた。「子供たちが先ほどサラダを残したので、美味しくなかったらどうしようって心配しました」
ロストンはサラミとパンとパスタを少しずつ口に入れながら、美味しいという感想を何度も言った。実際、嘘ではなく、それなりに美味しかった。ロボットが作ったはずなので美味しいのは当然のことだった。
「こんばんは!」突然、明るい声が聞こえた。
振り向くと、男の子が椅子の後ろにいた。その妹も一緒にいる。二人ともTシャツに半ズボンというラフな格好だった。ロストンは笑顔を作って挨拶した。
男の子の表情には、まだ大人になる前の純粋さがうかがえる。
「いっしょにあそぼ!」男の子がはしゃいだ。「一緒にフェスティバル行こうよ!」
兄妹はロストンを囲むように跳ねまわった。無邪気な振る舞いが微笑ましかった。かれらの表情には計算を知らない純心と、わがままな期待感が浮かんでいる。
ミセス・ドーソンが子どもたちを優しい目で眺めた。明るい照明の下、彼女の顔が艶々と光っていた。
「騒がしくてごめんなさいね。今、隣の町でやっているフェスティバルに行きたかったみたいで。でも今日は夕食にお招きしているし、このあともサムがいつ仕事から帰ってくるか分かりませんし」
「フェスティバル行きたい!フェスティバル行こうよ!」跳ねまわりながら、兄妹が歌うように繰り返す。
フェスティバルと聞いて、ロストンは移民者たちによるフードフェスが開催されているのを思い出した。色々な国からの移民者達が、屋台を出して自国料理を振る舞うというものだった。彼は行ったことがないが、年に一度行われる、この地域の人気イベントだった。
「もう夕食を済ませたから、行っても、お腹がいっぱいで食べられないわよ」ミセス・ドーソンが子供たちを諦めさせようとする。
「デザート食べてないもん」女の子が頬を膨らませる。
親子のやり取りを聞きながら、ロストンは少し急いで料理を口に放り込んだ。サムがいないので気まずかったし、子供の世話をするのを避けたかったからだ。子供が嫌いではなかったが、接し方がよく分からなくて苦手だったし、今日は家でゆっくり休みたかった。
食後にミセス・ドーソンとお茶を飲んでいると、サムから連絡がきた。帰宅が間に合わないらしい。それでロストンはすぐに帰ることにした。
玄関の方へ歩いていると、右足を掴まれる感覚があった。
下を見ると、女の子が片手でズボンをつかみ、もう片手にはチラシを持っていた。フードフェスのチラシだった。諦めが悪いな、とロストンは少しイラっとした。
覗いてみると、移民者たちのイベントということもあってか、多様性を称える文言があり、左下にはストーンズの排外主義を嘲る風刺画が描いてある。
「ミスター・リバーズはお忙しいから、また今度にしようね」
そう子供たちをたしなめるミセス・ドーソンに、彼は会釈をしながらドアを閉めた。
ロストンは自分の部屋に戻り、リビングのソファに座った。
一息ついてからスマートスクリーンをオンにすると、アナウンサーが貿易に関するニュースを読み上げている。関税の完全撤廃に向けて多国間の協議が進行しているそうだ。
ロストンは思った。ああいう子供たちは、小さい頃から外国人の文化と宗教に囲まれて育ち、その多様性を自然なものとして受け入れている。そして多様性を推進する学校教育や市民団体によって、文化多元主義を当然視する大人に育て上げられる。世界市民連合の推進する多文化社会に疑問を持たず、連合に対する反逆心など、微塵も湧き起らないだろう。そして大人になったかれらは、同じ文化や宗教や人種的アイデンティティーを共有して社会を団結させようとする者を、排外主義者だの、レイシストだの、思考犯だのとレッテルを貼って糾弾するだろう。いや、大人になるまでもなく、子供は小さいうちからすでに脅威だ。この前のニュースで、ある子供が白人至上主義の発言を繰り返す自分の親をリベラル・ネットワークに通報したという報道があった。
ロストンはリビングの奥の部屋に入り、椅子に座った。投稿画面を立ち上げ、何を書き加えようかと考えた。
すると自然とオフィールドの顔が浮かんだ。
たしか何年か前、真っ白な空間のなかにいる夢を見たことがあった。その中で誰かの声がした。「自由なところで会おう」という言葉だった。
その夢を見た時には、それがどういう意味か、誰の言葉なのか分からなかった。だがその後、会社でオフィールドが人と話しているのを通り過ぎながら聞いた時、それが彼の声だったことに気づいたのだった。
そして今日、全ては合致した。数時間前、二人の目が合った時、オフィールドは視線を通して自分が体制に嫌悪感を持っていること、自分が味方であることを伝えてきたのだ。
リビングにつけたままだったスマートスクリーンから声が聞こえてくる。
「次のニュースです。貿易自由化をめぐる交渉で、新たに十項目に対してアメリカとヨーロッパ諸国の間で関税の撤廃が合意された模様です」
ロストンは部屋から出て、リビングの窓辺に向かった。夜空に光っているのは、おそらくすべて人工衛星だった。星は一つも見えない。
遠くで花火が打ち上がっていた。フードフェスのところだろうか。何かのイベントがあると最近は花火がよく打ち上げられる。
視線を下げると、商店街の路上のスマートスクリーンにアメプルの宣伝が流れていた。
アメプルの原理、オープンスピーク、対立の統合、過去の多面性。もうたくさんだ……
ロストンは今まで自分が果てしない暗闇の中にいると感じてきた。ずっと一人だった。オンライン上では賛同する者もいたが、現実世界では誰も自分の本当の考えを表に出そうとしない。だがようやく現実の世界で、身近なところで、味方ができたのだ。世界市民連合に対抗するための現実的な手掛かりをようやく掴んだのだ。
窓の外では、トゥルーニュース社の建物のスクリーンに三つのスローガンが流れている。
多様化は一体化なり
相対は絶対なり
寛容は不寛容なり
彼はポケットからコインを取り出した。今や現金を使う人はほとんどなく、みな電子マネーを使っている。ロストンも普段は電子マネーを使っていたが、内心、現金の方を好んでいた。コインや紙幣の方が、何かずっしりとした、内在する実在の価値というものを感じさせるのだった。
だが現金を好むからといって、最近の現金のデザインを好むわけではない。いや、むしろ嫌悪感すら覚えていた。どの国の紙幣と硬貨にも、最近のものは表に連合の三つのスローガンが、そして裏にグレート・マザーの姿が刻まれていた。両腕を広げた彼女の姿は、硬貨にも、紙幣にも、街中にも、スマートスクリーンの中にも、いたるところにある。まるで全世界をその腕の中に閉じ込めるかのように。
また外に目をやると、トゥルーニュース社の窓は、明かりでいっぱいだった。会社の発信力は強く、世論への影響力は甚大だ。
ロストンは急に不安になった。自分は誰のためにネットに投稿をしているのか。それで何かが変わるのか。世界を変えるどころか、危険思想犯として捕まれば、今までに書き込んだ文章は無数にコピー・アンド・ペーストされて、繰り返し非難されることになる。リベラル・ネットワークによって吊し上げられた私の写真と投稿を、全世界の人が見ることになる。そして話題に上らなくなった後でもその記録はネット上に残り、誰かが調べようと思えば、情報は山のように出てくるだろう。そのような危険を冒してまで書き込むのは馬鹿げたことではないのか?
アラームが夜の八時を知らせると、スマートスクリーンが自動でオフになった。テレビを観過ぎないように設定しておいたからだ。
部屋が急に静まり返る。すると、その突然の静けさが、不思議とロストンの気持ちを和らげるところがあった。
彼は考えた。自分は絶対権力に立ち向かう自由の守護者ではないだろうか。たとえ吊し上げられ、誹謗中傷を受けることになっても、言論の自由は守られるべきではないか。意見の自由な発信を保証してこそ真の民主主義ではないか。
彼は急ぎ足で部屋に戻り、投稿画面に大声で書き込んだ。
<いつか、体制側に思想を強要されることなく、自らが信じることを公に主張できる時代が訪れるだろう! 人々が帰属意識を共有し、一体感を持っていた調和の時代が蘇るだろう! 分裂の時代よ、一体感を失った時代よ、グレート・マザーの時代よ、対立統合の時代よ、さようなら!>
言葉を発しながら、彼は自分がとてもいきいきとしているのを感じた。自分がいま何を追い求めているのかを、ようやくはっきり自覚できた気がした。
続けて書き込んだ。
<危険思想が危険なのではない。”危険思想″というレッテルこそが危険なのだ。>
自分が追い求めてきたものを自覚し、意識すると、生きている実感が沸いてくる。
そう、自分には使命があるのだ。人々が共有してきた伝統的な価値観を守らなければならない。
でも捕まってしまっては何も成し遂げられない。全て台無しになる。自分の些細な言葉が逮捕につながるかもしれない。社内の狂信的な世界市民連合のメンバーが、そう、あのファッションリーダーの女のようなのが、自分の言葉や仕草の端々に危険思想の匂いを嗅ぎつけ、詮索し始めるかもしれない。
そこに考えが至ると、ロストンはまた不安になった。
だが気を引き締め、自分に言い聞かせた。危険を覚悟しなければ重要なメッセージを発信することはできない。それは大切なものを守るための仕方のない対価なのだ、と。
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