第1話
夕暮れ時、ロストン・リバーズは何かに立ち向かうように顎と胸を突き出し、マンションのメインゲートへと入っていった。
エントランスホールは仄かなアイリスの香りがした。正面の壁には大きなスクリーンがあり、迎え入れるように両腕を広げた中年女性が映っている。白人、黒人、アラブ人、アジア人の混血のような顔で、人種の見分けがつかない。どの角度からも見る人に向けて腕を広げているように見え、腕の下には”あなたを受け入れます″とキャプションがついている。
ロストンがエスカレーターで二階に上り、自分の部屋に近づくと、ドアのセンサーがロックを解除して彼を招き入れた。玄関からリビングへとつながる廊下を歩くと、女性の声が聞こえる。
「血圧と脳波は正常値です。体重は七十四キロです。他に調べたい項目はありますか」
廊下の上下左右に設置されたスマートスクリーンが体を瞬時にスキャンし、登録しておいた項目を診断してくれた。
「いや、もう大丈夫」
彼はそう言い、リビングの窓辺に歩み寄った。大きな窓に自分の姿が薄く反射している。四十歳になって肌のたるみが気になるところだが、髪は金髪、眼は青、背は平均より少し高い。着ている若干タイトなシャツは胸と肩の広さを際だたせている。
混じりけのない純粋な白人だ、と彼はあらためて誇らしげに思った。
窓の外の商店街は活気づいていた。日は暮れ始めていたが、いたるところに設置されたスマートスクリーンが縦に連なる店を明るく照らしていた。スクリーンに映っているのは店の看板や広告。そのうちの一つに、さっきの3Dの女性がまた映り、こっちを向いて微笑んでいる。”アメプル″という文字が浮かんでいるスクリーンもあった。空には警察の小型ドローンが静かに動き回り、パトロールをしている。
ロストンがソファに腰を下ろすと、リビングのスマートスクリーンがオンになり、ニュースが流れ始めた。今年のアメリカの経済成長率が当初の予想を上回りそうだという。彼は聞き耳を立てながら部屋着に着替えようと服を脱いだ。
その時にふと、昔のニュースを思い出した。
以前、政府がスマートスクリーンの回線に接続して人々の個人情報を盗んでいるという疑惑が浮上し、それが事実だと判明した事件があった。問い詰められた政府はテロ対策を理由に回線にアクセスしていたことを認めた。結果、政府だけでなく、政府の要請に屈して情報を提供していた関連企業も信頼を失い、スマートスクリーンはしばらく売れなくなった。だが、窮地に陥った関連企業群が民間の第三者機関によるセキュリティーチェックを受け入れるようになると、世間の信頼が徐々に回復したのだった。普及率が再び伸び、今ではほぼすべての人が複数台のスマートスクリーンを持っている。
窓の外を再び眺めると、商店街のさらに向こう側に高層ビル群が立ち並んでいた。彼が務めているトゥルーニュース社のビルもその中の一つだった。
すっかり大都会になったな、と彼は思った。
今では第二のニューヨークと呼ばれるほどに成長したが、昔は高層ビルが一つもない田舎町だった。この街の三十年以上前の情景を思い浮かべてみると、今の方が生活面で便利にはなっている。だが彼は昔の方が良かったと思うこともあった。昔、街は一つのまとまったコミュニティーで、物事は今よりもっと単純明快だった。皆が同じ学校教育を受け、同じ宗教を信じ、同じ年間行事に参加していた。今では移民が流入したせいで宗教がばらばらになり、都市化によって人々のつながりも薄くなってしまった。もはや皆が共有する共通の価値観や帰属意識というものはない。
気に入らないのはそれだけではなかった。たしかに数十年前に比べれば、社会インフラが整って色々なものが便利になった。しかし、庶民の生活水準が伸び悩む間、富裕層の所得は何倍も膨れ上がっている。格差が拡大しているのだ。庶民の給料は生活費でほぼ消えるので貯蓄は難しく、そのため大半の人々は常に失業と老後への不安を抱えながら生きている。他方、そんな状況などお構いなしに、金持ちはどんどん富を積み上げている。
ロストンは高層ビル群のさらに向こう側を眺めた。ビル群に遮られてよく見えないが、その後ろには丘があり、自分の住むこの辺よりもはるかに高級な住宅が立ち並んでいる。富裕層の地区だ。
じっと眺めていると、勤め先であるトゥルーニュース社のビルが再び目に入った。Tの形の現代的なデザインが目立つ。Tの冠の部分にスクリーンがあり、そこに次々と映し出される文字が彼のいるところからも見えた。
多様化は一体化なり
相対は絶対なり
寛容は不寛容なり
トゥルーニュース社の本社は高層ビルだが、周りに比べて特に大きいわけではない。その近くには、世界平和を推進する平和アソシエーションの入ったビルや、博愛精神の普及を自らの使命とする博愛園の本部タワー、政府の経済政策などを評価する経済政策研究所の建物が見える。
博愛園の本部には、知り合いがいるためロストンも足を踏み入れたことがあった。開かれた社会を推進するかれらの活動を象徴するかのように、外側が透明なガラスで覆われている。博愛園に対する世間のイメージは、正義感に溢れていて、性差別や人種差別や障害者差別など、あらゆる差別の根絶を担う正義の番人、といったものだ。
外を眺めていたロストンは、窓辺から離れ、キッチンに入った。冷蔵庫を開け、エナジードリンクを一本取り出し、一気に飲み干す。
すると彼はたちまち安らかな気分になり、疲れが取れていくのを感じた。エナジードリンクには神経を刺激して疲れを感じなくさせるタイプもあるが、最近は神経をむしろリラックスさせることで疲れを取り除くタイプが主流になっている。その方が副作用もなく、効果もすぐ現れるからだ。
彼は安らかな気持ちでリビングの奥の部屋に入り、「背景をイタリアの田園風景にして」と呟いた。すると、部屋の四方のスマートスクリーンが田園風景を映し出す。
ロストンはテーブルに向かって座り、今度はデスクトップ型のスマートスクリーンをオンにした。そして匿名で投稿できるオンライン掲示板を開く。
「書き込み開始」と言うと、画面が投稿画面に切り替わった。
これからやろうとしていることが大きなリスクを伴うのを彼は自覚していた。もし発覚したら取り返しのつかないことになる。ただしそれは、万が一発覚したら、の話でもあった。投稿者の住所と本名を警察が特定するのは技術的には簡単なことだ。だが殺害予告のような、よほど過激なことを書かない限り、投稿者の素性を調べるために当局が動くとは考えにくかった。
ロストンは画面を覗き込んだ。
4891年10月8日
投稿画面にはデフォルトで現在の日付が映っている。この新暦に彼はまだ嫌悪感を抱いていた。
去年から適用されたこの新暦は、十一年前にその採択が決まったもので、発端はある政治家の異議申し立てだった。テレビ越しに、白人男性の政治家が大衆の前で熱弁を振るっていたのを彼は鮮明に覚えている。
その青い目をした中年の政治家は大衆に訴えかけていた。なぜキリストの誕生を基準にした西暦がグローバル・スタンダードなのか、と。世界にはイスラム教徒もいればユダヤ教徒も、仏教徒もいるのに、なぜキリストの生誕を基準にした西暦を採用するのか、と。もしイスラム教徒がそのような主張をしたなら、キリスト教徒はまったく聞く耳を持たなかっただろう。だがその男はヨーロッパの影響力のある政治家で、さらにキリスト教の家庭で生まれ育ち、イエスの復活を強く信じる、熱心なキリスト教徒だった。にもかかわらず西暦の使用に異議を唱えたのは、その男曰く、他の宗教との争いを避けるためには、他の宗教と共存できる環境を整える必要があるからであった。そしてその一つが特定の宗教に由来しない、中立的な新暦の採用ということだった。彼曰く、聖書には西暦を使えという記述はないので、キリスト教徒であることと西暦を拒否することに矛盾はなかった。
当然、この主張にイスラム教徒たちは喜んで賛同し、一人の政治家の主張だったものは、瞬く間に世界中のイスラム教徒たちの主張となっていった。はじめ、西欧諸国はもちろんのこと、中国やインドや日本の政府もその主張を鼻であしらった。しかしイスラム教徒たちの声が高まり、それが世界規模の一大運動に発展するにつれ、そうも言っていられなくなった。イスラム教徒の数は西欧社会の中でもキリスト教徒の数をすでに凌駕していた。西欧諸国の政治家たちがその声を無視することは、選挙時の票を捨て、自らの政治生命を危うくさせることであった。結果、はじめは否定的だった欧米の政治家たちが新暦の採用に賛同し始め、世界全体がその方向へと傾いていった。
だが、何を新暦に採用するかについてはイスラムの指導者たちも慎重にならざるをえなかった。もしイスラム起源のものにしようとすれば、中立的なものにしようという元の趣旨に反し、キリスト教徒たちからの大きな反発が予想された。そこで、新暦を決めるための国際委員会が発足され、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教・仏教・ヒンズー教などの現存の宗教とは関わりのない暦の模索が始まった。マヤ暦やフランス革命を基準にした暦など、様々なものが候補に挙がり、歴史上のものではないまったく新しいものを作ろうという案もあった。
協議の末に委員会は、古代エジプトでシリウス暦が始まった年を基準の年にすることを多数決で決定した。一年を365日とした人類最古の暦の一つであり、現存する宗教に由来しないものだから、という理由であった。シリウス歴が古代エジプトで採用され始めた年については諸説があるが、紀元前2800年頃に始まったとする説が採用された。そこから数えて今年は4891年ということになる。西暦では2084年にあたる。
ロストンは回想から覚めて、ふと思った。自分はいったい何のためにこの投稿をしようとしているのか。
世界暦を眺めていると、彼の頭に”対立の統合″というオープンスピーク用語が思い浮かんだ。そして無力感に包まれた。匿名の掲示板に投稿したところで世の中は何も変わらない。オンラインでは賛同者たちが匿名でつながっていても、現実世界で名前を出して協力し合うことはどうせ不可能ではないか。
彼は黙って画面を見つめた。部屋を囲むイタリアの田園は風が強まり、黄色の花々が揺れている。
無気力感に襲われると、そもそも何を書き込もうとしていたかも思い出せなかった。考えがうまくまとまらない。
だが彼はとにかく思いついたものを話し始めた。スマートスクリーンが音声認識でそれを文字に変換していく。
<先日、映画館に行った。ラインアップを見ると、どれも残酷なアクション映画か、淫らな映画だろうと思った。一つ、家族の愛がテーマだと謳っている映画があったのでそれを選んだ。でも期待していたものと違っていた。結婚を許されたゲイカップルや、国際結婚をした中東出身の男と白人女性の話が出てきた。いったい、古き良き家族の姿は描けないのだろうか。家族の愛がテーマと謳いながら、制作者は伝統的な価値観をかなぐり捨て、刺激的な内容で売り上げを伸ばすことしか考えていない。制作者も制作者なら、観客も観客だ。自分が操られていることも知らず、刺激的なものに中毒されたこの愚民たちはまったく……>
ロストンは喉が渇き、そこで中断した。エナジードリンクを飲んだにもかかわらず、いつの間にか気分がイライラしていた。こんなことを書き込んで何になるのだという疑問がまた頭をよぎった。
しかしある出来事を思い出し、彼は気がついた。匿名掲示板にあてもなく何かを書き込みたくなったのは、あの出来事があったからだった。
それは数時間前、勤務先のトゥルーニュース社で起きたことだった。
ロストンの働く校閲部では、お昼休みに親しい同僚たちとランチをするのが慣例で、今日も午前の仕事を終えて皆でフードコートに入っていった。ところが普段と違い、何故か結構な人だかりができていた。
よく見ると、その中心に見覚えのある女性がいる。だが、誰なのかはとっさに思い出せなかった。
「あれ、動画サイトで有名な人だ」と同僚が言い、ロストンはそれでようやく思い出した。
ファッション系の動画をアップして話題になっている人だった。ロストンはそっち方面に疎かったが、彼女が雑誌やテレビでも取り上げられているのは知っていた。若い女性たちの間でファッションリーダー的な存在らしかった。彼女がなぜ社内のフードコートにいるのかは分からなかったが、トゥルーニュース社と何かの共同の企画でもやっているのだろうと彼は推測した。
顔をよく見ると、その女はエメラルド色の目をしていた。歳は二十代後半といったところ。髪は明るいブロンドで、顔は乳白色。しなやかな身のこなしで、きれいなボディーラインを際立たせるように、ぴったりとした服を着ている。
ロストンは、彼女のようなタイプが苦手だった。胸やヒップを際立たせる服だなんて、女性らしい奥ゆかしさも恥じらいもない、と感じた。セックスアピールして、どうせいつも男を誘って遊んでいるんだろう。自分の欲望に忠実で、それは正しいことなんだといわんばかりの格好だ。
人前で口に出して言うことは決してないが、彼は彼女のような今どきの女性が気に入らなかった。フェミニズムのスローガンを念仏のように唱え、男が話す言葉の端々に女性蔑視の小さなニュアンスを嗅ぎつけては、大きく騒ぎ立てる。とくに女性のファッションリーダーである彼女は他の女性よりもずっと危険だろう。性差別主義者だと彼女が名指しするだけで、名指しされた男はすべてを失うだろう。
そこに考えが及ぶと彼はぞっとした。彼女もおそらく膨大に広がるリベラル・ネットワークの一員だろうと思われた。
だが実は、彼女のことはどうでもよかった。ロストンにとって重要なのは、その場に現れたオフィールドという男だった。
オフィールドはトゥルーニュース社の社外取締役でありながら、同時に世界市民連合の一員であると知られており、そこで何かとても重要なポストを占めているらしかった。元々は医者だが、経営者としても特出した才能があったため、医療機関の経営に専念し、それが大きく成功すると、トゥルーニュース社のような他業種の社外取締役までも依頼されるようになった異色の経歴の持ち主だった。
フードコートに入ってきたオフィールドに気づいて、ロストンの隣テーブルの人達が手を振った。それを見てこちらへと寄ってくるオフィールドは、中肉中背で、首は細く、優しい表情を浮かべていた。
だが、威圧感のない親しみやすい外観にもかかわらず、彼には何か近寄りがたい雰囲気があった。笑顔を浮かべてはいたが、目は笑っていない。めがね越しに一瞬垣間見える鋭い眼光は、人をドキッとさせるような、どこか野性的なところがあった。
以前からロストンはたまに彼を見かけていて、その雰囲気に興味を持ったが、それは眼光が鋭いからだけではなかった。それも理由の一つではあったが、もっと直接的には、もしかしたらオフィールドが正統派ではないかもしれないという印象を受けたからだった。眼光の奥底に感じられる、どこか薄暗く野性的な部分がそういう印象を与えるのだった。もしかしたら異端派というほどではなく、単なる反骨精神のようなものなのかもしれない。どちらかはわからなかったが、いずれにせよ、もし親しくなる機会があったら遠回しにでもその真相を聞いてみたい人だった。しかし自分とは社内の地位がまったく違うのもあって、親しくなるきっかけは皆無だった。
気が付くと、オフィールドは彼の仕事仲間のいる隣のテーブルに合流していた。そこにはロストンの知らない赤毛の大柄な男と、黒髪の男が座っている。
その様子を横目で眺めていると、その向こう側で、フードコートの大型スマートスクリーンが流していたテレビ番組が一つ終わり、お昼の報道番組が流れ始めた。そして突然、ソル・ストーンズの顔が映し出された。
すると隣テーブルの大柄男がそれを見て嫌悪感を示すように舌打ちをした。
ソル・ストーンズは、ずっと前は世界市民連合の指導者のうちの一人だったが、その後転向して反体制運動に加わった人物だった。反体制派を指揮し、世界市民連合に対するテロ攻撃やネット攻撃を行っていると報道されていた。スマートスクリーンに埋め尽くされたこの世界で、未だに捕まらずにいるのが不思議だったが、体制の手の届かないどこかの地下施設にいるという噂だった。さらに、今の体制に内心不満を持つ支持者たちから資金援助や保護を受けているという噂もあった。
ロストンは自分の表情が強張るのを感じた。ストーンズの顔を見るたびに様々な感情が湧いてくる。頑丈な格闘家のような顔、髭のないすっきりとした顎と口周り、天然パーマの髪。鼻の横幅が広く、どこかライオンに似た顔だった。そして彼の逞しい声もまたライオンを想起させた。
今、番組が流している映像の中で、彼は世界市民連合を激しく非難している。グレート・マザーの欺瞞を批判し、移民の制限、異教徒の追放、同性愛の禁止を訴え、さらに、それらの訴えを自由にできる思想の自由を訴えている。番組は、ストーンズの発言が危険思想であることを強調したいのか、しばしば彼の顔を画面の端っこに追いやって、彼の指令によるものとされるテロ事件の残酷な映像をメインの画面に映していた。
報道番組が始まって間もないうちに、フードコートのあちらこちらから怒りを押し殺したような溜め息が聞こえてきた。
他の人種や宗教や同性愛者を誹謗中傷する言動は、人々の神経を逆なでするものに違いなかった。ストーンズの姿を目にするだけで、いや、ストーンズのことを考えるだけで、人々は反射的に怒りを感じてしまうようだった。
しかし不思議なことに、ストーンズの主張は誰からも憎まれ、テレビや新聞や書物で憐れむべき戯言として嘲笑されていたにもかかわらず、彼の影響力は一向に減じる気配がなかった。絶えずどこかで新しい信奉者が現れては、彼の指令に従って凄惨なテロ事件を起こすのである。
彼の組織はSS同盟と呼ばれている。噂レベルの話だが、その組織には、思想的支柱となる経典のようなものがあるらしかった。ストーンズ本人が著述したらしい。タイトルすら知られておらず、単なるデマである可能性もあったが、それを裏で入手して読んだ者は必ず感化され、彼の信奉者になるという噂だった。
周りを見渡しながらロストンは複雑な気持ちになった。
誰にも打ち明けられなかったが、彼の怒りの矛先は時にストーンズに向かわず、自然とグレート・マザーや世界市民連合や警察に向かうことがあった。スクリーンに映るあの異端者を、自分の考えを代弁してくれる唯一の理解者のように感じることがあるのだ。だがしばらくするとまた周りの雰囲気に流され、ストーンズの主張が全てにおいて間違っているようにも思えてくる。そのような時は、体制側のイメージキャラクターであるグレート・マザーに対する嫌悪感も薄まった。全ての人を暖かく受け入れるというグレート・マザーの愛を偽善的なものだと感じていたが、もしかしたら偽善ではないかもしれないと思うこともあった。気持ちの抑えが効かない時は、怒りの矛先を世界市民連合やストーンズではなく、意識的にまったく別のものに向けることで落ち着かせることもあった。
たとえばあのファッションリーダーの女のような有名人を匿名掲示板で貶すと、籠もっていた感情が外に吐き出されて、気分が晴れる気がした。しかしあのような女に怒りの矛先を向ける理由はそれだけではなかった。単純にあのタイプの女が嫌いというのもあったが、正直なところ、あのような女に自分が抗いがたく惹かれてしまうというのも、もう一つの理由だった。はだけた格好で色気を振り撒く女は、自分を誘惑し、堕落させようとする存在のように思えた。だから意識的に軽蔑して遠ざけねばならない。
番組はストーンズの蛮行を報道し続けていた。彼のテロ行為によってできた死体の山がモザイクのかかった状態で映ったりもした。
しばらくするとストーンズに関する報道が終わり、広告が始まった。最初の広告は民間企業のものではなく、体制側のキャンペーンだった。グレート・マザーの微笑む顔が映ったかと思うと、それと入れ替わるように世界市民連合のスローガンが現れる。
多様化は一体化なり
相対は絶対なり
寛容は不寛容なり
それを観ながら、隣テーブルの大柄男はこちらにも聞こえるほどの大声で自分の同僚たちに言った。
「あれは我が社のスローガンでもあるからね。しっかりそれに沿った報道を心掛けたいものだ」
いたって普通の正統派の意見だった。
だがその時、ロストンは違和感に気付いた。
ほんの一瞬だったが、ロストンはその男の隣にいるオフィールドの目に、なにか怪しいものを感じ取ったのだった。
大柄の男の言葉を聞いた時、オフィールドは、一瞬ではあるが、その目に嫌悪感のようなものを浮かべた。そしてその目は、眼鏡越しに、自分の目と合ったのだった。それは言葉なしに人と意思を通わせる時の目だった。誰かが馬鹿な発言をした際に、周りの人たちが静かにお互いの目を合わせる時のような。
彼は語り掛けてくれているようだった。「こいつは今、くだらないことを言っている。君もそう思うだろう?」と。いや、彼の目はもっと多くのことを語っているように思えた。「君は正統派ではないね。わたしもそうだよ」と。
次の瞬間、オフィールドは目を瞑り、開いた。すると目に浮かべていた嫌悪感はいつの間にか消えていた。彼は同僚の方に顔を向け、言葉に同意するかのように軽く頷いた。
一瞬の出来事だったが、それは見間違いではなかった。自分はそれを確かに見て、感じ取った。
ロストンは現実世界で初めて仲間に出会えた気がした。この正統派の支配する世界で、世界市民連合を密かに憎んでいる人にようやく出会えたのだ。ネットではそういう人をたまに見かけたし、世界にはそういう人がそれなりの数でいるのかもしれない。だが、身近にいる誰かがそうだと感じたのは初めてだった。もしかしたら、考えを表に出さないだけで、周りにもそういう人は案外多いのではないか。もしかしたらかれらは裏で密かに繋がっているのではないだろうか。SS同盟は案外、身近なところにあるのかもしれない。
しかしロストンはその場でもオフィールドと話すきっかけを掴めなかった。フードコートで突然話しかけるのは不自然に思えた。結局何もできず、昼食は終わった。
ふと回想から覚めると、まわりには美しい田園風景が映し出されている。ロストンは投稿画面に向かってイライラとした気分をぶつけたいという衝動に駆られた。そして叫んだ。
グレート・マザーは娼婦だ
グレート・マザーは娼婦だ
グレート・マザーは娼婦だ
グレート・マザーは娼婦だ
グレート・マザーは娼婦だ
スマートスクリーンの音声認識機能がそれを文字に変換していく。そして彼は、それを匿名で投稿した。
だがその直後、やりすぎてしまったのではないかと突然不安になった。
もしかしたらリベラル・ネットワークに通報されてしまうのではないか。危険思想犯として警察に捕まってしまうのでないか。よほどのことでなければ掲示板の投稿に警察が反応することはないだろうが、もしかしたらさっきの投稿はその線を越えたのかもしれない。
彼は自分の鼓動が大きくなるのを感じ、必死で頭を整理した。
どんなに悪質な危険思想犯でも一年以上監禁されることはないと聞いている。だが、たとえ監禁の期間が短くても、思想犯として捕まった記録は残る。犯罪者扱いになるのだ。思想犯罪をおかしたことを悔い改めれば社会復帰ができると世界市民連合は主張していたし、メディアもそのような報道をしていたが、かれらにとって都合のいい事例を取り上げているだけかもしれない。いや、きっとそうに違いない。一度犯罪者の烙印を押された人間がそんな簡単に世間に受け入れられるわけがない。報道されていないだけで、ほとんどの場合は社会復帰に失敗し、まともな職業にありつけず、貧しい暮らしを強いられているに違いない。
だがそこに考えが至ると、ロストンはむしろタガが外れ、やけくそになった。投稿をすぐに削除しても、キャッシュ情報はネット上のどこかに残るので、もう何をしようが状況は変わらない。それに、すでに投稿してしまったからには、同じことを一度言おうが二度言おうが同じだった。彼はやけくそになって叫んだ。
誰でも抱き寄せるグレート・マザーは淫らな娼婦だ! 誰にでも抱き付くグレート・マザーは汚い娼婦だ!
文字に変換されたそれを彼はまた投稿した。
すると、やってしまったという不安感と、たぶんこれぐらいでは投稿者の特定には乗り出さないだろうという淡い期待が交差した。そして次第に不安感の方が勝り、彼は落ち着きを失って椅子から立ち上がろうとした。
その時だった。びっくりして彼の肩が跳ね上がった。玄関のチャイムが鳴ったのだ。マンションの入り口で押されたものではなく、玄関のチャイム音だった。
宅配でも何でも、用がある人はマンションの入り口でまずチャイムを鳴らすのが普通で、玄関で突然チャイムを鳴らすようなことはない。
まさか、もう警察が出動したなどということがあり得るだろうか。
ロストンは激しく動揺した。
投稿した瞬間、ウェブ上のAIが投稿内容を解析し、ここの住所を割り出して近くで巡回中だった警察に通報した可能性もなくはない。いや、そうだとしてもこれほど早く来るのはありえない……
不安な考えが頭をよぎる中、チャイムは止む気配もなく鳴り続いていた。
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