36.5.四大精霊サラマンダー
その竜は、いつも微睡の中にいた。
ただ浮遊するだけのような意識。
起きていても、寝ていても、覚醒と未覚醒のはざまを永遠と行き交いしているような、あやふやな意識。
それ自体に、竜は不満はなかった。
元来、精霊とは超自然的な存在である。そこから芽生えた意識など、ただの副産物に過ぎないものだった。
発生させる思考に意義はなく。
発生させる事象に意味はない。
ただそうあれと誰かに決められたような、そんな機能的な生き方を竜は好んですらいた。
しかし――――いや、だからこそ。
竜にはひとつだけ気に食わないことがある。
それは、誰かに縛られ、生きることだ。
精霊とは其処にそう在るべきと定義づけられた存在であり、それ以上でもそれ以下でもあってはならないモノだ。
決して、誰かの手中に収まり管理されるべき存在ではない。
気まぐれに、ある個体に手を貸した世代もいるが、今世代の竜はそのような気の迷いを発生させることはなかった。
だというのに……。
『お前が火竜か、思ったよりもみすぼらしい』
不快――嫌悪――拒絶――苛立ち――。
あの笛の音色を聞かされる度、竜の薄められた自我の中に、一滴の負の思考が垂らされる。
青き清廉のように広がった水面には、いつの間にか幾重もの波紋が広がり、やがて毒が自我の海を侵食するほどにまで混ざり合っていった。
機能を回す核にひびが入る。
希薄だった自我が、竜の防衛機制として、負の感情を学習し、それを取り入れたのだ。
そこから、竜には不要だったはずの思考の暴走が見られた。
起こすはずのない癇癪を起こし、荒れ狂う必要もないのに多くの命を摘み取った。
泡沫のような意識は、もはや完全に沈んでしまった。
竜は己が何をしているのかすら、把握することすらやめていた。
そんな時、ぴたりと笛の音が聞こえなくなったのに竜は気が付いた。
最初は何も感じなかった。
不快な音が聞こえなくなっただけで、もともと竜の自我は薄いのだから、反射的に出る感情の発露というのは非常に乏しかったのである。
ただ、聞こえなくなったという事実だけを、竜は俯瞰的に捉えた。
しかし、時間が経つにつれ、その事実は実感へと変わっていった。
己を蝕む音はなく、機能を縛る枷もない。
この時、初めて竜は歓喜に打ち震える感覚を知ったのだった。
快悦――歓楽――
そんなプラスの感情とも無縁だったはずの存在が、第二の感情を発現させ、それを学習してしまった。
これまで薄い自我の中を生きてきた竜に、この起伏は何物にも代え難い味だった。ともすれば、その感情を暴虐に振りかざすことに、何のためらいもなくなってしまうほどに。
殺そう。そうだ、全て殺そう。
竜は嗤った。
思考を発生させる機能に、ノイズが走る。
そうだ己は殺さなくてはならない。歯向かうもの、媚びるもの、諦観を決め込むもの、好きも嫌いも関係なく、あまねく全てを感情の赴くまま殺し尽くそう。
なぜなら、竜は感情の発散方法を、殺しでしか学習していないのだから。
あの男に教えられた方法は、たったそれだけのことなのだから。
故になんの躊躇いもない。
超自然的な存在は、己の気分だけで生命を摘み取れるように進化してしまったのだ。
手始めに、目についた個体だ。
竜は己の眼前に佇む五匹の存在を、さも楽し気に観察しながら考える。
どうやって殺すか。
爪でひっかくのはどうか。奥歯で嚙み千切るのは? 火を噴いて焼き殺してもいい。自慢の前脚で蹴り殺してみようか。
されど、考えれば考えるほど、竜は自分の体の不自由さを学習してしまう。
この肉は、邪魔だ。
己の機能を制限するものに限りない嫌悪を向ける竜は、現世に留まるために必要だった肉の鎧を脱ぎ捨てる。
革も鱗も骨も体液も、全部、全部、全部、全部棄ててしまう。
そうして残ったのは、最低限、現世に己を投影させるための箱であった。
竜は己の誕生を言祝いだ。
矮小な存在も、己の誕生に歓喜したのか、一斉に竜の前から走り出していく。
さて、まず初めにどれを殺すか。
竜は瞳の機能を有する炎をぎょろりと回し、標的を探す。できれば、快楽を与えてくれる存在がいい。竜は己の感情を味わいたいためだけに、生命を終わらせるのだから。
しかし、そんな時、竜はある男を捕捉した。
この中で、一番目を引き、何よりそこにいるというだけで不快感が湧き出てくる存在。
求めていた感情ではないが、竜は大きく自我を揺さぶられた。
ああ、あいつだ。あいつにしよう。
標的を見つけたことに、また快楽を見出し、口内に溜めた炎を撃ち出す。
矮小な存在も、竜の攻撃に気が付いたのか、もっていた荷物を投げ捨て、こちらに向かってきた。
死ぬ――死ね――。
まるで謡うかのように、奏でられる業火の音。
着弾と同時、破裂する倉庫は、闇夜に浮かぶ閃光となって、満天に広がる星空に負けないくらい美しく思える。
竜は自身の形状を再度変化させながら、鳴いた。
ああ、ああ、なんて甘美なのかと。
地面に打ち捨てられた男の体。
これを形も残らないほど殺せば、さぞ
竜は男の焼けた肢体を眺めつつ、そんな風に嗤った。
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