30.見習い魔女と総長の妹




【Side エリザ】

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」


 息苦しい。汗がべったりと張り付いて、気持ち悪い。昨日からほとんど何も食べていないのに、胃がひっくり返って、喉に何かがこみ上げてくる。


 

 私は、あの悪辣な兄に睨まれただけで、何もできなかった。昔植え付けられた恐怖が、今も体に染み付いているのだろう。誰にも殴られていないのに、誰にも蹴られていないのに、体のあちこちが幻痛に苛まれる。


 ふらつきながらも、なんとか工業棟を後にした。お兄さんに、体の自由が戻ったのかすら確認していない。私は最後に、彼から何かを言われたのを聞いたと同時、その場から逃げ出したものだ。


(ごめん、ごめんなさい……)


 私はあの兄と違い、血の貴族なんかじゃない。

 そう思い、自分が思い描く理想の騎士を目指していたはずだった。

 それなのに、いざ蓋を開けてみたらどうだ。

 あの瞬間。兄を前で私はなにかできただろうか? それだけじゃない。私はあの兄に命令されただけで、心が折れそうになり――――。


友達ラスティを、売ろうと……」


 限界だった。壁に寄りかかり歩いていた私は、膝から崩れ落ちるように地面に倒れ込む。まるで二足歩行の仕方を忘れたかのように。そもそも、地面にどうやって立っていたのかさえ、思い出せない。

 体に力が入らず、どこか寒気すら感じてくる。


 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。


 あんな奴と一緒の血がこの体に流れてるのかと思うだけで、私は無性に己の身体に嫌悪を示しそうになる。


「ふざ、けんじゃないわよ……あんたはいつも弱虫で、逃げてばっかで……結局、あの頃と何にも変わってないじゃない!!」


 堪えきれなかった感情が爆発した。情緒がおかしくなっていることなんて、指摘されなくても分かってる。

 今の私は狂っている。

 でも、どうしようもないじゃない。怖くてたまらないんだから。憤って仕方ないんだから。こうでもしていないと、全てが崩れ去ってしまいそうなの。


「はぁ、はぁ……」


 この廊下に、今だけは誰もいなくて助かった。

 割り振られた自室への道。今、この宿舎に残っているのは、たぶん私だけ。他の騎士たちは、あの獰悪な兄が連れてきた火竜を鎮めるために、必死だ。遠くからは火竜の咆哮や、それに交じる部下たちの叫び声が聞こえてくる。


「はぁ……はぁ」


 怖い。やっぱり怖い。体の震えが止まらない。嫌な記憶ばかりが蘇ってくる。


 ――『放して、いや、放してよ!!』

 ――『うるさいガキだな。これが妹かと思うと反吐がでる』

 ――『お兄様、お願い……なんでも言う事聞くからぁ!』


 なんで私は、あの時逆らおうとしてしまったんだろう……。

 そんなことをしたばっかりに、また私は――。


「GAOH……ぁぇ……えりざちゃん……?」


 私が自暴自棄になっている時だった。

 いつの間にか、私は自室の目の前まで辿り着くことができていたらしい。ほとんど体を這いずりながらやってきた私を、扉を開けたラスティが、フードの奥で眼を擦りながら出てきた。


(そういえば、寝てたから、何も拘束してなかったんだ……)


 私は、そんなどうでもいいことを考えた。


 今、ここでラスティを拘束していなかったことなんて、些細な問題だ。それよりも考えなきゃいけないことは山ほどある。にもかかわらず、そんなちっぽけな思考しか出てこない。考えることを放棄しようとしている。

 

「逃げて、ラスティ……お願いだから、逃げて」

「ぅぅん……? ごめん、状況がうまく飲み込めないかも。それより、ウォーカーを見な」

「いいから、早く逃げなさいよ! あなた殺されるかもしれないのよ!?」


 もう自分でも訳がわからなかった。

 なんで私は怒鳴っているんだろう。なんで、この娘に怒りをぶつけているんだろう。


 自分の弱さから目を背けて、己の不甲斐なさに甘んじ、他人が思い通りにならないとすぐに癇癪を起こす。

 

 まるで、自分が嫌悪していた悪逆貴族と同じじゃない……。


 自然と目頭が熱くなってきた。泣きたくもないのに、視界がぼやけてくる。

 やっぱり、私には無理だったのよ。騎士なんて目指すべきじゃなかったんだ。

 あの兄のいう通り、適当な男爵家にでも嫁いで、飼い殺される道を選んでいれば、きっと私はこころまで苦しまず……。


「落ち着いて、エリザちゃん。大丈夫、大丈夫だよ。GAOH、なんか嫌なことがあったんだね。こういう時は深呼吸しよう、深呼吸!」

「っ――――」


 ラスティにそっと頭を撫でられる。愛しみを込めたような、優しい手つきで、一定のリズムを刻みながら。


 温かい。心地よい。心が、少しずつ落ち着いていく。


 私はラスティに言われた通り、ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐く。それだけで、さっきまで感じられなかった自分の心臓の鼓動が、はっきりと耳に届くようになった。


(かなり、動悸が早いわね……それに、なんでか服も汚れてるし……はは、相当錯乱してたのか、私)


 落ち着いたら落ち着いたで、先ほどまでの言動に頭を悩まされた。さっきまでは訳もわからない自分に混乱していたが、今は冷静に客観視し、気恥ずかしさすら感じてくる。


 でも、絶望的な状況なのには変わりない。

 あの兄が、なんでか知らないけど、この兄妹に目をつけている。

 お兄さんの方は助けられないかもしれないけど、せめて、せめてラスティだけは私がなんとかしなければ……死ぬよりも、酷い目に遭わされるかもしれない。


「ラスティ、ごめん……私どうかしちゃってたみたい……でも、聞いて! ここから逃げないと、あなた本当に危険なのよ! 1秒も無駄にできない、だから――!」

「GAOOOO、と、とめてぇ……肩ぐわんぐわんするのとめてぇぇぇ……」

「あ、ごめん」


私が興奮のあまり肩を持って前後に揺らしたからなのか、ラスティからグロッキーになった声が聞こえてきた。

 ……ほんと、ごめん。


「う、うぅ、目覚ましにしてはキツイね、これ……エリザちゃんが焦ってるのは、すーーーーごくわかったよ……」

「さっきので分かってもらおうとは思ってなかったんだけど……つい、ね。あははー、力が入りすぎちゃったわ」

「いいよ、私が危険っていうのも十分理解できたし……でも、私も状況が知りたいかな。だからさ、何があったか聞かせて?」

「ちょ、そんな暇ないって言ってるでしょ!? 今だって、こんなところであなたと話してるのすら、ヤバいんだから! 聞こえる、外の騒ぎ!? さっきから火竜が暴れてるの! その間しか、逃げるチャンスがないんだから!」

「違うよ、エリザちゃん。だったら余計に教えてもらわないといけないんだ。私は何者に狙われていて……」


 ラスティはそう言って、フードを取る。

 初めて見るラスティの顔。ずっと何かを隠しているのかもしれないと思っていた。他人に見られたくないナニかがあるんだろうって。


 でも、そのフードから見えたものは、私の予想を遥かに超えていて……。


「ウォーカーはどこにいるのか、をね。だから、ちゃんと教えて」


 眼前に見える、光る瞳に、一対の角。

 きれいに結ばれたピンクブラウンの髪も、たたえる言葉を一瞬なくすほどの可憐な顔立ちも。すべてその特徴らに思考を奪われてしまう。


「もしかして、あなた……魔女、なの?」

「黙っててごめん。そう――――私は見習い魔女のラスティだ」


 ありえないものを見るような目で、私は彼女を見ることしかできなかった。

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