第35話 全部作り物だった


「は?」


 刺されたんだ。

 八重石が。あの黒い奴に。

 ……それがわかっても、そこから何もできなかった。


「くひ、くひひひ」


 その音は、あの黒い奴から出ていた。しばらくはそれが、笑い声だとは気付けなかった。声が、またあの低いのか高いのかわからない音だったのもあるけど、……そもそも、なんでこの状況で笑うのかがわからなかった。

 違う。わかったんだ。

 笑ってるってことは。あのときと同じ声ってことは。

 アイツは、あの黒い奴は、『俺』の代わりに八重石を殺しに来た奴だ。


 ――失敗した。あんだけ、考えたのに。


 なんで思い付けなかったんだ。

『俺』の期限が切れたからもう八重石は殺されないって、そんなわけないだろ。ちょっと考えればわかることだろ。むしろ気をつけないといけなかったのは、絶対今日からだったじゃないか。


 でも八重石はまだ死んでない。苦しそうに息をしながら、体を時々、もがくみたいに動かしている。

 まだ、八重石は生きてる。

 腰の当たりを刺されただけで、今すぐにでも病院に連れて行けば、普通に命は助かるはずなんだ。


 ……じゃあなんで、なんで俺はそれもわかってるのに、動けないんだ。

 

 それも、馬鹿真面目に考えたからか、わかってしまった。

 俺はビビってる。目の前で人が刺されて、それで笑ってる奴がいる状況に。怖いから動けない。言ってしまえばそれだけだった。


 ……でも、動けないのには、理由があるみたいだった。手が震えてる。足に力が入らない。だって動いたら――八重石を助けようとしたら、俺はアイツの敵になってしまう。

 じゃあ今度は、俺が刺されるのかもしれない。

 自分の息がうるさい。アイツの笑い声もうるさい。うるさいけど、もう何をどうしたらいいのかもわからなくなっていて。


「――て」


 だから最初は、気のせいかと思った。でも目は、気付くと八重石の方に向いていた。

 目が合った八重石は、今まで見た中で一番わかりやすく表情を変えていた。いつもの固まったみたいな無表情じゃなくて、歯を食いしばりながら、なんとか堪えてるみたいな表情で、


「にげ、て……っ!」


 そう、言っていた。

 俺が逃げたらお前はどうなるんだって言いかけたのを、必死に喉のところで止めた。そんなのわかりきっていた。


 俺がここで逃げたら、八重石は死ぬんだ。


 アイツに殺されて、死ぬんだ。俺がここで逃げたら。俺がここで何もしなかったら。

 ……俺が何かしたら、八重石は死なないのか? 死ぬのが俺と八重石の、二人になるだけなんじゃないのか? 八重石はそうなるのがわかってて、俺に逃げろって、言ってるんじゃないのか?


 じゃあ俺が逃げたいって思ってるのは、八重石に言われたからなのか?

 違うだろ。

 元から逃げたかった。最初っから、俺は八重石を助けようと、思えてなかった。


 ……知ってたつもりだった。自分がそんな、根っこから優しくなくて、他人のことを考えられなくて、強くないことくらい。

 でも、それでも自分は、人を助けられるんだって思いたかった。他人よりそれができるんだって、思いたかった。

 自分の命がかかった瞬間、これじゃないか。目の前で人が死にかけてるのに、一歩も動けてないじゃないか。

 全部作り物だったんだ。お人好しだって言われたいから、周りよりちょっと上に立ってたいから、普通はそういうことできないんだって言われてたかったから、俺は、それだけで、俺は、


「――くひ、やった。やった、やったよ、お兄ちゃん!」


 は。


 なんて。なんて、言った。

 ……コイツ今、俺を見て、なんて言った?


「仕方なかったよ。お兄ちゃん、記憶なくなってたんだもん。だから、私がやったけど、やったのはお兄ちゃんってことにしよう。……お兄ちゃん、これで私達、一緒にいられるよ!」


 ソイツは、ダボついた真っ黒の服を着て、黒いフードと黒い仮面みたいなもので顔を隠していた。

 声は変わらず、何人もが重ねて喋ってるみたいな音で、なのに話し方は、テンションが上がってはしゃいでる小さな女の子みたいだった。


 考える前に、繋がっていた。

 けど意味がわからなかった。何がどうなったらそんなことになるのか。

 確かめるしかなかった。俺は、自分の声が震えてるのを感じながら、聞いていた。


「お、お前は、花巻千代女、なのか……?」


 すると目の前の奴は、パタパタと動かしていた手足を止めて、すっと足を揃えた。

 そのまま手は、ゆっくりと、フードと仮面の方へのびていって。


 ……仮面が外れて、フードが取られると、中からは長い黒髪の女の顔が出てきた。


 女は俺より幼く見える顔で、泣きそうな笑顔を浮かべていて、「そうだよ」と見た目よりさらに少し幼い声で言った。


 俺は花巻の顔を知らない。だから見てもわからないけど、たぶん、それは嘘じゃないと思った。

 それくらい、その娘の顔は嬉しそうで、苦しそうで、心の底からの色んな感情で溢れてるみたいに見えた。


「でも、また昔みたいに、チヨって呼んで欲しいな。私も、フユ君か、お兄ちゃんって呼ぶから」


 その全部が、明るすぎた。

 泣きそうに笑うのも、恥ずかしそうに目を逸らすのも。

 全部、八重石が血を流して倒れてる横で、だった。

 なんだ。なんなんだ。なんで。なんで、コイツは、


「……なんで、八重石を刺した?」


 気付いたら聞いていた。それを失敗だと思ったのは、俺が八重石と言った瞬間にコイツ――花巻が固まって、そこから吸い取られたみたいに顔から感情が消えていったからだった。

 でも花巻は、その感情がなくなった顔でニッコリ笑って、


「大丈夫。お兄ちゃんは忘れてると思うけど、その人は殺されないといけない人なの。だから心配する必要なんて、全くないよ」


 言われた、殺されないといけない人という意味がわからない。

 ……あの八重石が、殺されないといけない理由が、一つも出てこない。

 他人のために動けて、世間知らずで、大食いで、抜けてて、意外とおしゃべりで、こんな、ただ真っ直ぐなだけの奴が、なんで。


「私のお父さんとお母さんはね、その人の父親に殺されたの」

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