第21話【航悠】陽帝宮にて

 十一の月も終わりに差し掛かったある日の午後。分担された作業の終わった雪華は外朝を自由に行動できることになった。

 動きを怪しまれないよう適当な書類や書物を持って、さも届け物を頼まれているかのように回廊を歩く。そうこうしているうちに雪華の足は、禁軍の練兵所のある一角にたどり着いていた。


 遠くに視線を向けると、大勢の兵たちが訓練をしているのが見える。すると回廊の奥から一人の兵が近付いてくるのに気付き、雪華はその場に膝をつき顔を伏せた。革のよろいを着けた兵は、おおむね下級女官よりも身分が高い。


「おや、女官殿。このようなむさ苦しい場所まで何のご用でしょう」


 近付いてきた兵が、頭上から太い声を投げかけた。靴の形からすると、ただの兵ではなく武官だ。だがそう高位の者でもない。雪華は顔を上げないまま、形式通りの答えを返す。


「はい、この先の官府まで書類を届けに……。訓練のお邪魔をしてしまい、申し訳ありません」


「何をおっしゃいますか。あなたはただ我らを見られていただけでしょう。邪魔になどなっておりませんよ。……それにしても、美しい女官が入られたものだ。顔をお上げなさい」


「いえ、それは――」


(ちっ……。面倒な奴に捕まったな)


 顔を伏せたまま、雪華は内心で舌を鳴らした。

 この手の声をかけてくるやからは、ここ数日でも何人かいた。のらりくらりとかわしていれば何とかなることは知っているが、深入りすると面倒だ。


(このスケベ武官……。任務中でなかったら、一発で張り倒してるところだ)


 早く行ってくれ。そう願いながら、武官が立ち去るのを待つ。だが武官は動かない。


「何もしませんよ。さあ、顔を上げて――」


「おたわむれを――。お許しください」


「ぶっ……。あはは…!」


 ふいに武官はがらりと声の調子を変えると、こらえきれぬといった感じで笑った。先ほどとはまるで別人のその声には、嫌というほど聞き覚えがある。雪華が顔を上げると予想通りのにやついた顔がこちらを見下ろしていた。


「航悠……!」


「当たり。……お前なぁ、さっさと気付けよ。面白くてやめられなくなっちまっただろ。お許しくださいって、またずいぶんとしおらしく――つか、『お戯れを』って本当に言う奴いるんだな」


「お前な…! ふざけるなよ、本気で別の男だと思っただろうが……!」


 勢いよく立ち上がり、航悠の胸倉を掴み上げた。航悠は下級武官のいでたちで、人を食ったような笑みを浮かべている。

 誰も見ていないから良かったものの、女官が武官の胸倉を掴み上げているという図は衆目があれば大騒ぎになってもおかしくない絵面えづらだ。


「お前の声真似はタチが悪いんだ! ずっとひざまずいてるのも疲れるんだからな」


「あーはいはい、俺が悪かったって。分かったから、さすがに手ぇ放せよ。見られたらまずい」


「この馬鹿……!」


 しぶしぶ手を放すと、厚い胸板に軽く拳を入れる。航悠は参ったというように両手を上げて笑った。


「久しぶりだな。文はやり取りしてたが、どうだ?」


「どうもこうもない。大きな成果は掴めないまま、毎日肩が凝って困る。化粧道具の減りも早いし」


「そこは任務に関係ねぇだろ。……たしかに、いつもより念入りだな。よしよし、ちゃんと女官に見えるぞ」


「当然だ」


 ぽんぽんと肩を叩いてくる航悠に、しれっと返す。

 こんな態度ではあるが、雪華は内心かなり安堵していた。これだけの日数に渡って仲間と離れていたことはあまりなかったから、会うとやはり安心するものらしい。……相手がこんな奴でも。


「しかし顔が割れないためとはいえ、一日に何度頭下げてる? 髪、乱れちまってるじゃねぇか。服が綺麗なのにもったいない」


「え……そうか?」


 雪華をしげしげと見下ろした航悠が、溜息をつく。一応身だしなみには気を遣っていたつもりなのだが、頭に手をやると当たりどころが悪かったのか歩揺かんざしが落ち髪が解けてしまった。


「あー、言わんこっちゃない」


「…………」


 ――どうしよう。これはさすがに、鏡を見ないと直せない。


「仕方ねぇなぁ……。ちょっとこっち来い」


「えっ……」


 髪を押さえ、周囲を見回した雪華の腰を航悠が抱き寄せる。なすがまま、柱の影へと引きずり込まれた。


「貸せ、俺がやってやる」


 そう告げて歩揺を取ると、航悠は雪華の背後に立ち手ぐしで髪をかき上げた。急に指を突っ込まれ、ぞっとする感触に雪華は目を見開く。


「おい……」


「いいから任せろって。俺、上手いぜ?」


 もしかして、結ってくれるつもりなのだろうか。恐る恐る様子を窺うと、航悠は歩揺を器用に使い髪を分け取っていく。その指づかいは手慣れており、これなら大丈夫と肩の力が抜けた。


(そうか、おんなの髪も扱ったことがあるから――)


 乱れた髪を直したことも、きっと一度や二度ではないのだろう。何をもって髪を乱してしまったかは容易に想像がつくが、とりあえず頭に浮かべないことにする。


「……手慣れているな」


「まぁな。お前が自分でやるよりも、よっぽどお前に似合う髪型にしてやるよ」


「あまり派手にはするなよ。……お前の方はどうだ? 下級武官が、こんなところで油を売ってていいのか」


「んー? 俺は、優秀だから。多少訓練に出なくたって問題ないさ」


「つまり、さぼっていると。人が働いているときにお前は……」


「ちゃんと調査もしてるって。しかし早く任務、終わらねぇかな。男だらけでむさいったら……」


「少しはその病的な女好きも矯正されるかもな」


「誰が病的だ。そんなこと言うと……こうだぞ」


「い…っ! 馬鹿、引っ張るな……!」


 首が後ろに強引に反らされ、抗議の声を上げると航悠が鼻で笑う。その後も引っ張ったりまとめ上げたりすること数分。くしにしていた歩揺を最後に挿し、髪結いはようやく終わったようだった。


「できたぜ。……いいうなじだな。さすがにそそられる」


「…!」


 低いささやきとともに、ちゅ、と軽い感触が襟足に落ちた。そこを押さえ、思わず振り返る。


「お前な……」


「いいだろ、減るもんじゃねぇし。あとはべに、出せよ。こっちもげてる」


 軽く頭に触れると、たしかにきっちりと結い上げられている。袖から紅を出すと航悠はそれを指に取り、慣れた様子で雪華の唇へと乗せた。


「……あ、悪ぃ。ちっとズレた。つーか顔上げろお前、ほら」


「ん」


 少しはみ出したのだろうか。航悠の指がやや強く唇の端を拭い、新たな紅を乗せてまた表面に触れる。

 ぐいと顎を引き上げられ、珍しく真剣な顔をした航悠と至近距離で対面する。ずっと見ているのも変かと思って目を閉じると、唇をなぞる感触がやけに鮮明に感じられた。


(人に紅を引かれるって……なんか妙な感触だな。ずれても面倒だし、じっとしておくか……)


「……無防備すぎ」


「え?」


「よし完璧。色気もばっちりだ。お前、ずっと女官やってた方がいいんじゃないか?」


「そういうお前は髪結いか化粧師けわいしに転職した方がいいんじゃないか。お前の大好きな女に触り放題で嬉しいだろう」


「そういう言い方は誤解を招くからやめてもらえませんかね……」


「くっ……。ばーか」


 紅を返しながら航悠がわざとらしく項垂れる。武官の格好にその仕草はそぐわず、雪華は思わず噴き出した。そんな雪華に航悠が渋面で告げる。


「おい、礼ぐらい素直に言えよな。そんな礼儀知らずに育てた覚えはないぞ」


「そんな礼儀のある男に育てられた覚えもないぞ」


「はいはい。ああ言えばこう言う……」


「冗談だ。……ありがとう、助かった」


 最後の戯れはともかく、助かったのは事実だ。一応は礼を言っておくと航悠は意外そうに軽く目を見開く。


「どういたしまして。……やっぱその格好で礼言うと、中身がじゃじゃ馬でも女らしく見えるな」


「……前言撤回する。お前なんて、どこぞの女性の上にでも乗ってろ馬鹿が」


「おい、もうちょっと言い方ってもんがあんだろ。ほんっと口悪いよな。誰に似たんだか」


 本物の女官なら間違いなくしないであろう品のない返しに、航悠が呆れた目を向ける。

 誰に似たかなど――それは確実に、目の前のこの男だ。雪華がじと目で睨むと航悠は周囲を見回し、ぽんと肩を叩いた。


「ま、あと半分もないからこのまま安全にな。俺もこの辺りをぶらぶらしてるから、何かあったら呼べよ」


「ああ。お前も気を付けて」


 手を振って航悠と別れると、肩の荷が少し下りたような気がしながら雪華は再び任務へと戻った。

 そしてその夜――


「陽佳さん、朝と髪型が違うわよ!? いったいどこで何をしてきたの!」


 ……と例の同僚女官に叫ばれることを、そのときの雪華は知るよしもなかった。



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