第20話 潜入

(意外に簡単に潜入できたな……)


 外朝に入って数日が過ぎたころ。雪華はとある房室の卓を磨きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


 頭を振ると結い上げた髪にシャラリと歩揺かんざしが揺れ、足を進めると衣ずれの音がする。これでも質素にしている方なのだが、動きにくいことこの上ない。

 雪華は最下級の女官として、主に室内の整頓やら官吏や女官から依頼された雑務などを行っていた。


 依頼人の官が用意した身元保証は完璧だったようで、潜入は呆気ないほどに容易たやすかった。

 もっと高位の女官として潜入することもできたのだが、そうすると必然的に高官と顔を合わせる機会ができてしまう。その点、下級女官の身分だと自分より身分が上の官吏がそばを通るときにはひざまずいて顔を伏せるのが慣習であるため、都合が良かったのだ。


(高位の女官だと装いも華美にせざるを得ないしな……)


 筆頭女官をはじめとする高位の女官たちは、これ見よがしに上等な絹をまとい誰もが着飾っている。それが好きな者が大半なのだろうが、そうしなければ威厳に欠けるのもまた事実なのだ。……大変だ、と他人事に思う。


 これまでも金持ちの屋敷や高級妓楼に潜入しての密偵はあったし、絹の衣装に慣れていないわけでもないが、この着物が暁の鷹の任務に向くとは到底思えない。

 部屋の中に誰もいないことをいいことに、雪華は行儀悪く椅子に腰かけた。


(今のところ接触できたのは女官だけだが、不審な動きはないな。官舎でも変わりないし)


 木彫りも見事な卓子に肘をつき、思案する。

 任務の期間は半月と決まっている。それで成果を上げるには怪しまれないよう、少しずつ行動範囲を広げていくしかないだろう。


(任務をしながら女官の仕事をするというのも、疲れるものだな……。航悠と飛路はどうしてるかな。外朝に来てからまだ顔を合わせてないけど――)


 新入り女官とは思えぬ態度で思案していると、房室の扉が鳴り高い声がかけられた。


陽佳ようかさん、終わった? そろそろ移動の時間よ」


「あ、はい。今行きます」


 椅子から立ち上がり回廊へ向かうと、雪華と同じような着物を着た年若い女官が立っていた。

 雪華は今、趙陽佳ちょうようかと名を偽っている。だがいまだに慣れることができない。


「陽佳さん、本当に仕事が早いわね。女官長が褒めてたわよ」


「あら、そうですか? それは嬉しいですね」


「もう。同い年なんだから、誰もいないところでは敬語使わなくてもいいって言ったのに」


「すみません、癖で……」


 隣で朗らかに笑う女官が、ここでの雪華の同僚だった。彼女は同年齢と言うが、年齢を詐称しているため実際は雪華の方がいくつも上だ。なんとなく、申し訳ない気持ちになる。

 妙な関心を避けるために言葉遣いも女言葉に直しているが、自分の女言葉がぎこちないことは承知していた。どこでボロが出るか分からないため、なかなか敬語を外せない。


「陽佳さんて、他の州の宮にいたんですって? ここも人手不足ってわけでもないのに、どうして急に移動になったの?」


「さあ……私には、なんとも……」


 話題が嫌な方向に流れてきたため、誤魔化すように曖昧に微笑む。自分で言うのもなんだか、正直気持ち悪い。


「あら。そういう笑顔は殿方に見せた方がいいと思うわ。せっかく美人なんだから、もっと綺麗に着飾ったらいいのに」


「いえ、私などとてもとても」


 回廊を連れだって歩きながら、小声で会話を交わす。女官は同い年の(と思っている)同僚が入ってきたことが、そうとう嬉しいらしい。飽きることなく雪華にあれこれ話しかけてくる。


「そういえば陽佳さん。昨日の夜、宿舎にいなかったわね。どこ行ってたの?」


「え。そんなことは――」


 同僚に気付かれないよう、ごくりと唾を飲み込む。

 昨日の夜はたしかに、調査のため他の房室に忍び込んでいた。まさかそれを見られていたのだろうか。


「私、担当外の宮の方に歩いていくのを見ちゃったのよ。あ、でもいいの。誰かいい人がいるんでしょう? ああ素敵! 黙っててあげるからね……!」


「は、はぁ……」


 雪華の一瞬の緊張もなんのその。女官は興奮したように袖を振ると、頬をぽっと赤らめ目を閉じた。興奮するその様に雪華は呆気にとられる。

 同性との付き合いといえば藍良を筆頭とした花街の、いわば玄人の女としか深く接していなかったため知らなかった。市井の女性とは、かくも勢いのあるものだったのか。


「私にも、いい出会いがないかしら……。主上は女官には見向きもされないし、独身官吏の方たちはもっと家柄のいいお嬢様をお探しだし……」


「り……主上は、やはり懇意にしている女性などはいらっしゃらないのですか」


「ええ。外朝にいらっしゃるときは私も目を光らせているのだけれど、どんなに綺麗な女官が声をかけても受け答えは丁寧だけど、つれないの。あれは誰か他に想う方がいると見えるわ…!」


「そ、そうですか……」


 とりあえず、この同僚の観察眼には気を付けた方が良さそうだ。そんなことを考え、雪華は再び作業へと戻っていった。




(……さすがに慣れてきたな)


 そして数日後。官吏たちが黙々と働いているそばで書類の整理をしていた雪華は、あくびを噛み殺しながらひそやかな話し声に聞き耳を立てていた。

 たいていの場合それは政務上の質問だったり他愛のないやりとりだったりしたけれど、ごくまれに不穏な単語が飛び交うこともある。このときは「西峨さいが」の地名が聞こえてきて、書類をまとめるふりをしてちらりとそちらに視線をやった。


「主上は近々、西峨の州長を罷免ひめんされるおつもりのようだぞ」


「やはりシルキアと通じているという噂は本当だったのか? 国境での出来事は中央には伝わってこないからな」


「確証はないが、州府に武器を貯め込んでいるという噂がある。州府から州長を呼び出して、まずは査問さもんをされるようだが――」


「いよいよ雲行きが怪しくなってきたものだな……」


 シルキアと、斎の西端の州である西峨。この二つの地域が懇意にしているという噂は、ほとんど明らかなようだ。もしも西峨がシルキアにくみするようなことがあれば――当然、ただでは済まされない。


(もう少し調査を続けて、報告しておくか)


 重い気持ちを整理するようにそっと溜息をつくと、雪華は作業へと戻った。



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