第21話【飛路】陽帝宮にて
十一の月も終わりに差し掛かったある日の午後。分担された作業の終わった雪華は外朝を自由に行動できることになった。
動きを怪しまれないよう適当な書類や書物を持って、さも届け物を頼まれているかのように回廊を歩く。そうこうしているうちに雪華の足は、文官たちが忙しく働いている書物庫の前までたどり着いていた。
「――あ」
「……? あ……」
回廊を歩いてきた男とちょうど柱の角で鉢合わせ、目を瞬く。
その男――いや、青年は無位を示す官服を身に着けていた。小姓身分の装いをした飛路が、大きく目を見開く。
「雪華さん……」
「久しぶりだな。調子はどうだ?」
「あ、ああ……。いまひとつかな。これといった成果はないって感じ」
「同じだな。色々探ってはみてるんだが、なかなか
溜息をつき首筋を揉むと、頭の
もういい加減慣れたが、この格好をするのも疲れてきた。そんな雪華に飛路は気遣わしげな視線を向ける。
「あんた、疲れてるみたいだな。……今、仕事中?」
「本来のな。女官としての仕事はサボり中だ」
「あんたって、真面目に見えて結構手ぇ抜いてること多いよな。……オレ、いい場所知ってるんだ。良かったら一緒に休憩しない?」
「ああ、それはいいな。行こう」
「うん。……あ、持つよ。重そうだし」
飛路はそう言うと、雪華が抱えていた書物をひょいと持ち上げた。小道具だからそう重たくはないのだが、両手が空くと気が楽になる。
「悪いな。……なんだ? 女官姿だとずいぶん優しいな」
「……そんなことない。普通だろ」
飛路はぷいと顔を背けると、すたすたと目的地に向けて歩き出してしまう。そのうっすらと赤くなった横顔を見て雪華は微笑んだ。
本人の言うとおり、なんだかんだこの青年は雪華に結構優しい。自分のようながさつな女に対しても、自然な気遣いをしてくれるのだ。
その所作はわざとらしさがまったくなく、育ちの良さを感じさせるものだ。そう思うと良家の子息がなることが多い小姓の装いも、妙に似合っている気がしてくるから不思議だ。
「どうだ? 小姓の仕事は」
「どうもこうも……オレ、もう小姓って歳じゃないんだけど」
「そんなことないだろ。お前ぐらいなら、ぎりぎり上限のはずだ」
「はぁ……。オレも頭領みたいに武官か、せめて文官の身分が良かったよ。なんか一人前じゃないみたいで嫌だ」
「まぁそう言うな。あと少しの辛抱だろ」
回廊をのんびりと歩きながら、飛路が小さく愚痴る。振り返った飛路は雪華を眺めるとヒュウと口笛を鳴らした。
「そういうあんたはそういう格好、よく似合うね。……綺麗だ」
「またそういう軽口を……」
「ホントだって。あんた、どんな格好してても綺麗だけど、たまにはそういう着物もいいな。オレ好み」
「そうかそうか。外見だけはな」
「いや。オレ、あんたの中身も結構気に入ってるけど。意外と無茶苦茶なところとか、ずぼらなところとか、甘味大王なところとか」
「甘味大王ってなんだ……」
くく、と笑いながら飛路がいくつかの角を曲がる。そのうちに人通りがほとんどなくなり、二人は静かな
「へえ……」
「いいだろ。たまたま見つけたんだけど、他は誰も来ないみたいなんだ。寒い日はちょっときついけど」
飛路は笑うと備え付けられた椅子へと雪華をいざなう。腰かける寸前に「ちょっと待って」と告げると、上着を一枚脱いで椅子の上へと敷いた。
「はい、どうぞ」
「あ、ああ……。ありがとう」
いきなり淑女のような扱いをされて、不覚にも戸惑ってしまった。申し訳なさを感じつつ、温もりの残る着物の上に腰かけると飛路が懐から赤い果実を取り出す。
「サンザシか。ぶ……なんでそんな所に」
「腹減るんだよ。ここ以外ではなかなか休憩も取れないからさ。……はい、半分こ。雪華さんには甘い方」
「悪いな、ありがとう」
小さな林檎のような果実は、ちょっと小腹が空いた時にちょうどいい。口に放り込むと、甘酸っぱい芳香が心地よく広がった。
「……美味いな」
「だろ? 職場で親切な人に貰ったんだ」
雪華の反応に満足したように、飛路が小さく笑う。二人並んでしばらく果実を味わっていると、飛路がぽつりとつぶやいた。
「シルキアの官吏と懇意にしてるとか、妙な動きをしてる官吏にはまだ会ってないけど……宮廷内って、すごいのな。色んな奴がいる」
頬杖をついた飛路は、雪華にというよりは自分に言い聞かせているようだった。興味を引かれ、問いかける。
「ほう、例えば?」
「官吏の中にも、今の皇帝に肯定的な奴もいれば否定的な奴もいる。朱朝の頃からいる古参の官吏だって、必ずしも朱朝に同情的じゃない人もいた。それぞれの人が、それぞれの意見を持ってて……今の皇帝のやり方に不満がある人も、ただ陰口を叩いてるだけじゃないんだ。どうして不満に思うかをちゃんと考えて、皇帝に
「……へえ」
珍しく飛路は
「オレ、皇帝ってもっと自分勝手に
でも、と続け、飛路はどこか思いつめたように視線を落とした。
「
飛路は静かに言葉を結ぶと、長く息を吐いた。地面を見つめる瞳はわずかに暗い。雪華は以前よりうすうす感じていたことをこの機会に問いかけてみた。
「飛路。お前もしかして、胡朝を憎んでるのか」
「……っ。……なんで」
「なんとなく。お前の話しぶりを聞いていると、皇帝や胡朝の官吏を快く思ってないように聞こえたから。……そうなのか?」
飛路は目を逸らし、地面に視線を落としてしまう。しばらく拳を握ったり開いたりと落ち着かない動きを繰り返していたが、やがて大きく息をつくと小さく頷いた。
「……うん。……オレの親、朱朝の武官だったんだ」
「そうなのか。初耳だ」
「前の陛下にも、結構取り立ててもらったみたいで。オレはその頃、まだ本当にガキだったけど……いつか自分も武官になるんだって思ってたよ。でも朱朝討伐の変があって――」
「……まさか、お父上はそのときに――」
飛路の父が故人であることはすでに知っていた。雪華が目を見張ると、飛路は緩く首を振る。
「ううん、生きてたよ。でも目の前で大事な人を何人も喪って、親父自身も怪我をして……親父は結局、朝廷には戻らなかった。蓄えはあったけど、やっぱり暮らしも厳しくなるからさ。田舎に戻って静かに暮らしたよ。当然オレが武官になる夢も立ち消え」
飛路が肩をすくめ、小さくかぶりを振る。その明らかに作ったと分かる笑顔を見て、雪華は複雑な心境に駆られた。
驚いた反面、どこかで非常に納得する気持ちがあった。飛路がときおり垣間見せる品のある所作や教養は、やはり家庭でつちかわれたものだったのだ。出自や血筋をどうこう言う気はまったくないが、いくら装おうとも滲み出てしまうものは確かにある。間違いなく、飛路は上流階級の出自だ。
「胡朝の官吏になろうとは思わなかったのか? 胡黒耀は朱朝時代からの官吏も、才ある者なら分け隔てなく登用したと聞いた。今の皇帝も」
「…………」
その問いかけに、飛路は無言で雪華を見上げた。物言いたげな視線が何かを訴える。
……またあの視線だ。何かを、誰かを懐かしむような――
「オレの夢は、朱朝の皇帝に仕えることだったんだ。親父の心を踏みにじって体も痛めつけた胡朝には、仕えたくない。だから官吏も皇帝も憎かったよ。でも……この任務に入ってみて、分からなくなった。オレ、本当にこのままでいいのかなって」
「……?」
その言葉に引っかかりを覚え、雪華は首を傾げた。
飛路の言う「このまま」とは、暁の鷹に所属している現状のことを言っているのだろうか。だが、何かもっと切羽詰まった響きが込められているようにも聞こえる。
「あ……。ごめん、なんか変なこと言った。こっちの話だから気にしないで」
「あ……、ああ」
はっとしたように首を振ると、飛路は言葉を探してしばらく口をつぐんだ。やがてぎこちなく立ち上がり、回廊の方を指さす。
「ごめん、オレそろそろ戻らないと。あまり遅くなると探しに来られるから」
「ああ、そうだな。私もそろそろ戻るよ。これありがとう。汚れてないか?」
「大丈夫だよ。支給品だし全然平気。あんたの着物は汚しちゃったらまずいだろ」
椅子の上に敷いていた上着を差し出すと、飛路が無造作に羽織る。そのまま歩いていこうとする後ろ姿を、雪華は思わず呼び止めた。
「飛路。……悪いな、巻き込んで」
「え?」
「この任務、お前は乗り気じゃなかっただろう? 危険なのもそうだが、本当は城にも入りたくなかったんじゃないか……? 私が無理を言ったせいで、巻き込んだ」
「…………」
飛路はまじまじと雪華を見つめた後、急に踵を返した。雪華の前に立ち、ちょんとその額をつつく。
「…っ」
「雪華さん、考えすぎ。……オレ、この任務に入れてもらって良かったって思ってるよ。城の中のことが多少は分かったし、表の仕事も結構面白いし」
それに、と続けて飛路はにっと笑う。
「あんたに何かあったら駆け付けられるし、あんたの綺麗な女官姿、拝めたしね。……ほんと良かった」
「…………。生意気な」
「ははっ……雪華さん、ちょっと顔赤いよ?」
「赤くない」
柔らかく笑うと、飛路が今度こそ足を踏み出す。振り向かないまま、彼は穏やかな声で告げた。
「オレ、このぐらいの時間にここにいること多いから。雪華さんも空いてたらまた来てよ」
「……ああ」
しばらく見ないうちに少しだけ大きくなったような背中を見送り、雪華もまた仕事場へと戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます