第18話 赤い夜の記憶

 豊穣祭から数日後、雪華は久しぶりに夢を見た。


 煌々こうこうと照らしだされた城門に、陽帝宮の外朝。不夜城のようなその光景は、先日この目で見たものだ。

 ああ、思い出しているのかとぼんやりと思い、再び深い眠りへと落ちかける。だがその光景に何か違和感を覚え、夢の中で目を見開いた。


 ……違う、明かりではない。あれは――炎だ。

 外朝とよく似た内朝の一部が、真っ赤な炎を上げて焼け落ちている。遠いその場所に向かって雪華は手を伸ばす。


『父上…!! 兄上…っ!』


『なりません、姫!! お母上があちらでお待ちです。さあ立って! あなたまで死んではならない!』


『でも、そう将軍! 父上が、父上が…ッ!!』


 城に向かって手を伸ばす幼い雪華――いや、香紗を押しとどめるのは力強い武人の腕だった。振り返ると、髭をたくわえた堂々たる体躯の大男が苦渋に眉を歪めている。


『父上が……首を、切られて……っ。あ、兄上も…! どうして!? どうしてあんなことをされなくてはいけないの!?』


『姫、どうかここはご辛抱を…! 早く陽連を離れるのです。そうしなければ、あなた方のお命も危ない!』


『いやよ! どうして!? 黒耀が……龍昇のお父さまが、あんなこと…っ』


 聞き分けのない香紗を、宗将軍――禁軍大将軍・宗飛天そう ひてんが抱き上げる。彼は猛火に包まれる内朝から、香紗とその母である皇后をかろうじて脱出させてくれた。

 暴れる香紗を押さえつけながら、宗将軍は城と反対の方角に向かって走り始める。


『胡黒耀のとがは、いずれ裁かれるときが来るでしょう。今はそのお命を繋ぐことより大切なことなどございません! あそこの角に、皇后陛下が――』


『母上……。――母さまっ!?』


『皇后陛下!? 早まってはならない……!!』


 宗将軍に抱き上げられ、曲がった路地の奥。陽帝宮とは似ても似つかぬ粗末な道の隅に、母はいた。細い短剣を、喉元に突き立て――


『母さま……!!』


 短剣を握りしめる手は、ぞっとするほどに白い。香紗が叫ぶのと同時にその刃がきらめき、血しぶきが上がった。

 ほっそりとした手をおびただしいほどの赤い血が濡らし――彼女は、香紗の視界から消えた。


『皇后陛下――!!』


 一拍遅れて、こもった水音が響いた。背後の井戸に落ちたのだと理解したのは、それからかなりの時間が経った後のことだった。

 幽鬼のように虚ろな表情をたたえたまま、香紗の母は……死んだ。


『なんということだ……!』


 香紗を下ろした宗将軍の声が、遠くに聞こえる。母が消えた井戸を見ながら、香紗はぼんやりと立ちつくしていた。


(龍昇……。ねぇ、龍昇。……どうして……?)


 いつも一緒にいた幼馴染に、心の中で問いかける。もちろん答える声はないが、そうせずにはいられなかった。


(どうして……? 龍昇、どうして…!?)


 先ほどまで一緒にいた。父が弑逆しいぎゃくされるのを目の当たりにして気が動転した香紗は、龍昇を真っ先に頼った。……馬鹿だ。それを行ったのは、彼の父だというのに。

 そして悲痛な顔で、龍昇は香紗の手を振り払った。……それこそが、すべての答えだった。


『あ……、ああ……』


 あの優しい顔の下には、今日この日の計画があったのだ。穏やかに見えた黒耀の顔の下にも、そして龍昇の顔の下にも。


『ああ……! ああぁぁあ……っ!!』


『いけません姫! お気持ちは分かりますが、ここはこらえて下さいませ…!』


『胡黒耀……! 龍昇…っ!!』


 ――裏切られた。父と兄が殺されたことよりも、母が自害を図ったことよりも、何よりもそのことが苦しく悲しく……目がくらむほどに、憎らしい。


 腹の底から咆哮ほうこうが湧いてくる。自分を押しとどめる宗将軍の声も耳に入らない。

 裏切られたと思うのは、信頼していたからだ。……信じていた。いつまでも共にあり、朱朝を支えてくれるのだと。自分のそばにいてくれるのだと。


 ――ユルサナイ。

 ――許さない。許さない許さない許さない…!!


『龍昇…!!』


 血反吐ちへどを吐くように叫んだ。憎しみと怒りを込めて咆哮した。その瞬間、皇女としての香紗の生は完全に終わりを告げた。


 ――生きてやる。どれほど惨めな姿を晒しても、こんなところで殺されてなどやるものか…!

 必ず生きて、生き延びてやる。それこそが奴らへの復讐になる。


『姫、落胆されるのは分かりますが、どうかお気を強くお持ちください。私がなんとか致します。ですから早まった真似はどうか――』


『……大丈夫……大丈夫よ、宗将軍。私、こんなところで死んだりしないわ。……お願いします、頼りにしてるわ』


『香紗姫……。分かりました、それでは陽連からの退路をなんとか探してまいります。この井戸の影で少々お待ち下さい。必ず戻ります』


 急に目の据わった香紗をどこか痛ましげな瞳で見つめ、宗将軍が混乱に揺れる帝都へと飛び出していく。

 香紗は母の遺骸が沈んだままの井戸の影で、その帰りをじっと待っていた。そして数十分の時が過ぎ――


『宗将軍…! どうだったの?』


『姫、こちらにお着替え下さい』


 あちこちに傷を作りながらも無事戻ってきた宗将軍は、粗末な布きれを差し出した。木綿のそれは、色からするにもしかして男物だろうか。


『民に紛れ、陽連を脱出するのです。お嫌でしょうが、その絹のお召し物ではすぐに見つかってしまうので』


『いいわ。すぐ着替える』


 井戸の影で躊躇なく絹の着物を脱ぎ落とし、男物の衣服をまとう。

 あまりに簡素なそれの着付けに逆に惑っていると、宗将軍が手早く合わせを整えてくれた。そして将軍は懐から小刀を取り出すと、苦渋の顔で鞘を抜く。


『宗将軍…!?』


『香紗姫。――御免』


 宗将軍が香紗の長い髪をがしりと掴む。その瞬間、恐怖に体が強張った。


(まさか、宗将軍まで――!)


『…ッ! ……え?』


 ぶつりと鈍い音とともに、頭が軽くなった。……髪を切られたのだ。


『申し訳ありませぬ。綺麗な御髪おぐしですが……逃亡には障害となります。お許しください』


『い……いいわ。仕方ないもの』


 顔の横で無残に切られた髪が揺れ、さすがに泣きそうになった。たった今まで自分のものだった長い黒髪が、足元でとぐろを巻いている。

 龍昇が、綺麗だと言ってくれた。香紗がせがむと、誰も見ていない場所では優しく撫でてくれて――


『…………』


『恨むなら、この飛天めを恨んで下さい。あなたが生き延びるためには必要なことなのです』


『いいの。ありがとう、宗将軍』


 唇を噛んだ香紗に、宗将軍が深く頭を下げる。それに首を振って答えると、将軍は厳しい眼差しで通りの向こうを睨んだ。


『この道を通って陽連の外まで出れば、私が手配した人物があなたのことを保護してくれます。後ろを振り返らず、走って下さい』


『分かったわ。でも将軍は……?』


『私は姫と違う道を行き、おとりになります。……なに、黒耀の仲間といえど、元をただせば私の部下です。捕まっても殺されはしますまい』


『え……、でも…!』


『迷っている時間はありません。さあ行って! あなたは新しい生を、新しい場所で生きて下さい。ご両親や兄上の分も…!』


 両肩に力強く添えられた手が香紗を促すように離れる。厳しくも温かい目をした強面こわもての大男に、香紗は問わずにはいられなかった。


『宗将軍……また、会えるわよね……?』


『もちろんですとも。わが宗家の主君は朱家の方々のみ。あなたが野に下られようと、それは変わりなきことです。私の忠誠は、今は姫一人に捧げましょう』


『宗将軍……絶対に、無事でね…! 私も頑張って逃げるから!』


『はは……これは頼もしいお言葉だ。――ええ姫。この飛天、姫に誓って無事に生き延びましょう』




 拳を握りしめた宗将軍に促され、香紗はあちこちで火の手が上がる陽連の街を走り始めた。普段ろくに運動もしない足はすぐに棒のようになるが、ここで止まることはできない。


『……探せ! 皇女を探せ…!』


『っ……』


 遠くから獣のような怒声が聞こえた。

 ――怖い。怖くて怖くて足がすくみそうになるが、捕まえられるのはもっと怖い。だから香紗は必死で逃げる。だが――


『あっ…!』


 崩れ落ちた家の瓦礫がれきに足を取られ、地面に突っ伏した。土が熱い。頭上で大きな音がしてはっと見上げると、黒く焼け焦げた家の柱が香紗に向かって倒れてきた。


『…ッ!! きゃああぁあッッ!!!』


 避ける間もなく倒れたそれが、香紗の胴体を押しつぶす。

 内臓が潰れるのではないかというほどの、強い圧迫感。痛みと灼熱感は、あとになってから襲ってきた。


『――ッ!! が……、っ…、あ……』


 皮膚が焦げる臭いがする。体の外と中から、火であぶられているかのようだ。

 ……逃げたい。けれどもう体にまったく力が入らない。


『……あ……』


(龍昇……。助けて……)


 痛みと熱さに焼き尽くされていく思考の中、なぜか彼の名を呼び――その響きの尊さに、涙を流した。


(龍昇。龍昇、龍昇……)


 誰よりも大切な友達だった彼の顔を思い浮かべ、香紗の思考は永遠に閉ざされた。――はずだった。


『――おい! 坊主、生きてるか…!?』


『…………』


 体の上にあった重みが、ふっと引いた。その代わりに痛みと灼熱感が倍増し、苦痛に眉を歪める。もう叫ぶ気力は残っていなかった。


『しっかりしろ! 目を開けられるか!? おい、誰か水持ってこい……!』


 香紗の真上で、誰か男が何か叫んでいる。抱き起こされて嫌々ながら目を開いた。

 ……最初に見えたのは黒い、黒い服。血の臭いをまとわせたその男は、大きな手で香紗の頬に触れる。


(この人……知ってる。母さまが読んでくれた異国のおとぎ話に出てきたわ……)


 黒い服を着た、死の神が――香紗のもとへやってきた。


『馬鹿、目を閉じるな! おい坊主、自分の名前言えるか!?』


(私、坊主じゃないわ……)


 けれどその死の神は、香紗の顔を乱暴に叩くと大声で怒鳴ってくる。その痛みに苛立ちながら目を押し開け、乾いた唇を開いた。


『……し……』


 『朱香紗』と言いかけて、ぎりぎりのところで思いとどまった。……男の名前を言わなければ。でも、もうそれが考えられない。


『――雪華。……李、雪華だ……』


 無意識のうちに、この国ではありふれた姓と彼が綺麗だと言ってくれたもう一つの名を告げ、香紗は今度こそ意識を手放した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る