第17話【ジェダ】豊穣祭 後日譚

「こんにちは。……待ち合わせてあなたと会うだなんて、逢い引きのようで胸が高鳴りますね」


「ジェダ殿……。会って早々、そういう冗談はやめてくれ」


 翌日、約した時間に待ち合わせ場所まで行くとすでにジェダイトが到着していた。出会いがしらに歯の浮く台詞を吐いた彼は、まったく悪びれない様子で雪華を手招く。


「ですから、冗談ではありませんよ。さて、では参りましょうか」


 にこりと笑ったジェダイトに先導され、二人は雑踏を抜けて裏通りへと入った。そのままとりとめのない会話を交わしながら歩くこと十数分。その方角に嫌な予感を覚え、雪華は足を止める。


「ジェダ殿……もしや、城に向かうおつもりか?」


「ええ。といっても、外朝ではなく私が滞在している離宮の方ですが」


「さすがに外部の者は入れないだろう」


「大丈夫ですよ。大臣が帰国したので、警備も緩やかになりました。何か聞かれても、私の友人だと言えば止められはしないでしょう」


「だが……」


 いくら離宮といえど、宮城きゅうじょうの一部であることには変わりない。しかも今日は当然ながらヴェールなども被っていない。……顔が割れたら面倒だ。

 雪華が控えめに尻込みすると、ジェダイトは気にしていない風で外朝の方を見やる。


「この時間は外朝で皇帝陛下の謁見がありますから、離宮の警備などあってないような状態だと思いますよ。……シルキアのお茶があるのです。是非あなたにご馳走したいのですが」


「…………」


 こちらをもてなそうとするその瞳に他意や偽りはなく、純粋な好意だけが滲んでいた。

 こういう顔に、雪華は弱い。かたくなだった気持ちに迷いが生まれる。……離宮には一度も行ったことがない。少し見てみたいような気もする。


(もしバレたら……そのときは、逃げれば済むことか)


 そう結論付け、雪華はありがたく招待に応じることに決めた。




 城門をくぐり、外朝を横目に見つつ離宮の方角へと歩いた。人の流れは完全に外朝の方に向かっており、区域を外れると衛士えじもまばらだ。


「なんというか……本当に衛士の数が少ないな」


「そうですね、ご苦労なことです。……おや」


 ゆっくりと歩くうちに、離宮の方向から二人のシルキア人が歩いてくるのに気が付いた。ジェダイトよりも濃い褐色の肌をしたその男たちは、ジェダイトと雪華を認めると露骨に顔をしかめる。


(え……)


 嫌悪と、嘲笑。あからさまに歪められた彼らの表情に頓着とんちゃくすることなく、ジェダイトは軽く会釈すると二人の横を通り過ぎる。


「……□□……」


「…!」


 すれ違いざま、小さく言葉を投げられた。その大半は聞き取ることができなかったが、たった一つ――『犬』というシルキア語が雪華の耳を刺した。はっとジェダイトを振り仰ぐも、彼は薄い笑みをたたえたままで歩みを止めようとはしない。

 ……聞き間違いだったのだろうか。ジェダイトに続いて歩きながら、困惑を隠せずに背後を振り返った。


「虫の居所が悪かったようですね。お気にされなくて大丈夫ですよ」


「! ……聞き間違いではなかったのか。私はほとんど聞き取れなかったが、侮辱されたのではないか?」


「さあ。正面きって言われたわけでもないですし、真意のほどは分かりかねますが。どこの国でも、やっかみというのは面倒ですね」


「しかし、あんなあからさまな――」


「私は気にしませんから。……ああ、着きましたよ」


「…………」


 飄々ひょうひょうと雪華の言葉を受け流したジェダイトが、碧の目で正面を示した。その先では、斎の衛士があくびを噛み殺している。

 市街の方を羨ましそうに眺めていた衛士が、ジェダイトに気付くと慌てて道を開ける。何か言われやしないかと息を詰めたが、衛士の横を通り過ぎると実にあっさりと離宮の前までたどり着いてしまった。一瞬気まずく途切れた空気を繋げるように、ジェダイトを見上げる。


「私が言うことではないが……シルキアの要人が滞在しているというのに不用心ではないか? 斎の上層部に言って、警備を強化してもらった方がいいと思うが」


「昼間は仕方ないでしょう。シルキアの高官や他の者たちも、ほとんどが外朝に行っておりますし。人のいない離宮を守るぐらいなら、自国の皇帝の警護を固めた方がいい。それに、堅苦しいのは苦手なので。私は手薄なくらいがちょうどいいですよ」


「そういうものか……?」


 離宮の門を守る衛士に軽く手を上げると、ジェダイトは自ら門を押し開けた。高貴な身分の者は、通常そんなことはしない。だが衛士が何も言わないところを見ると、この人はいつもそうしているのだろう。

 唖然とした雪華を中へといざない、ジェダイトが門を閉める。黒衣のその人は引き続き、離宮へと入る最後の扉を開いた。


「どうぞ。ほとんどの者が出払っておりますが」


「失礼する。……っ」


 陽帝宮のはずれに建てられた離宮は、主に外国の要人をもてなすための施設だ。しかし雪華も初めて入ったその宮は、陽帝宮であって陽帝宮ではなかった。もちろん房室のつくりや調度品は斎のものだが、この空間に漂う異国の雰囲気はどうしたことだろう。

 シルキアの織物や小物で彩られた西国の香り漂う広い房室を、雪華は呆然と見回す。


「これは……あなたが整えさせたのか」


「いえ。先日帰国した大臣についていた侍従のものが、どうしてもシルキア風にしたいと……。私個人は、郷に入っては郷に従うのが筋と申したのですがね。斎の房室に、シルキアの布やら小物やら。さぞ、ちぐはぐでおかしく見えることでしょう」


「そんなこともないと思うが……」


 実際、それらはたしかに異なる国同士のものではあるが、不思議な一体感をかもし出していた。

 物音を聞きつけたのだろう、扉の奥から側仕えとおぼしきシルキア人の男が顔を覗かせる。……女性はいない。そのときになってようやく、シルキアでは女性の出国が禁じられていることを思い出した。


「……□□……」


 ジェダイトがシルキア語で何かを告げる。『客人』という単語だけは聞きとることができた。

 使用人の男たちを垣間見ると、皆一様にジェダイトより濃い褐色の肌をしていた。……ジェダイトは、シルキアの中では色白の方なのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、使用人たちは丁寧に雪華に一礼し再び扉の奥へと下がっていく。


「男ばかりのむさ苦しい場所ですみません。お気を遣わせないよう、奥に下がってもらいましたので」


「そんなことは……」


 ジェダイトが柔らかく笑み、雪華をじっと見つめる。他意はないのだろうが、彼のような美しい人に見つめられてはなんとなく居心地が悪い。雪華はジェダイトから視線を逸らすと、先ほどから気になっていたことを切り出した。


「この部屋……良い香りがするな」


「ああ……乳香にゅうこうでしょう。本国から持ち込んで、香炉こうろで焚きしめさせているのです。嗅いだことは?」


「昔、シルキアよりも西国を旅していた時に嗅いだ気がする。乳香というのか」


 その部屋には、清々しい草のようでいてどこか甘い、爽やかな香りが満ちていた。斎で使われる香とはまた違い、異国を感じさせる香りだ。


「シルキアでは強い香りをまとう者も多いですが、やはり程度というものがある。このぐらいならば、うるさくはないでしょうか」


「ああ。……そうか、あなたといると何かいい匂いがすると思ったら、これだったのか」


「香りの記憶は、もっとも強く残ると言いますから。あなたの心に私の香りが刻み込まれたなら、嬉しいのですが」


「だから、そういう戯言ざれごとはもういいって……」


「ふふ。……入り口で話しているのもなんですし、奥へどうぞ。雪華殿」


 さらりと話題を打ち切って、ジェダイトが次の間へと続く扉を押し開ける。明るく陽の光が射しこむ部屋に入り、雪華はそこに漂う甘くくすぶった香りに目を瞬いた。


「……ジェダ殿。この匂いは?」


 先ほどの部屋に漂っていた乳香の香りではない。部屋に残る、いぶされた果実のような香り。それは体験したことのないものだ。


「ああ…シーシャですね。前に誰かが吸ったようです。換気しておくべきでしたね……けむいですか?」


「いや、大丈夫だが……。しーしゃ?」


 聞き慣れない響きを問い返すと、ジェダイトは小さくうなずき部屋の隅から見慣れぬ物体を持ってきた。……腕の長さぐらいの、硝子ガラスと金属でできた筒だ。美しい曲線を描くそれはほっそりとした花瓶を彷彿ほうふつとさせる。


「シーシャ。水タバコと言えば、分かるでしょうか」


「水、煙草……」


 煙草なら、知っている。西国を旅していたときに航悠が口にしていたが、煙管キセルほどは気に入っていないようだった。

 だが、あれとは形がまったく重ならない。まじまじとその筒を見つめた雪華にジェダイトがくすりと笑う。


「火種も残っているようですし、少し吸ってみますか? 紙のタバコやキセルほどきつくはないですよ」


 こちらの興味などお見通しのように、ジェダイトが雪華の前にシーシャとやらを置く。戸惑いながらもうなずくと、ジェダイトは慣れた手つきで炭をその上に置き、本体に続く長い管へと数回空気を送り込んだ。

 硝子の筒に溜められた水が、空気を受けてゴポリと泡立つ。その光景を雪華はまじまじと見つめた。……面白い。


「準備できました。どうぞ」


「……?」


 木の吸い口がついた管を、ジェダイトが雪華に向けて差し出す。……吸え、ということか。雪華は無言でその管とジェダイトの顔を交互に見つめる。

 もちろん吸い口はジェダイトが使ってそのままのものだ。どうやら取り換えないものらしい。管を受け取ると、吸い口に唇を近付ける。


「…………。げほっ!」


 ふうっと息を吹き込むと、水がかすかに泡立った。だが反動で勢いよく煙を吸い込んでしまい、喉を圧迫する質量に激しくむせる。


「げほっ、げほっ…!」


「大丈夫ですか」


 口を覆った雪華の背を、ジェダイトが慌ててさする。涙目になりながら、こくこくと頷いた。


「すみません、吸い方もお教えするべきでしたね。慣れていないとよくむせるので……」


 雪華から管を受け取ると、ジェダイトは吸い口に唇を付け静かに息を吸い込んだ。そして管を離すと、口から煙を吐き出す。


「最初はゆっくり、です。どうぞ」


「ああ……」


 むせから立ち直った雪華にジェダイトが再び吸い口を差し出す。それを受け取ろうとすると褐色の手が雪華を押しとどめ、代わりに頭を引き寄せた。


「……っ」


 ――髪と頬の、ちょうど中間。あてがわれた手のひらは意外に大きかったが、決して強引さはなく温かい。だが有無を言わせぬような妙な力を感じ、なすがままに吸い口に口付けた。


「…………」


 吸い口から漂う果実のような煙の匂いに、かすかに混ざる乳香の香り。それはジェダイトがまとうものだ。横目で見やると、ジェダイトは伏し目がちにシーシャの水を確認していた。

 瞬きに合わせ、銀色のまつげが揺れる。その音が聞こえてきそうなほどに――近い。


「ゆっくり吸って……そう、吐いて……」


 耳元で響く穏やかな声。雪華の動きを誘導する、温かな褐色の手。それは本来ならば心和むはずのものだ。だが――


(……っ)


 ――恥ずかしい。いたたまれないほどに、今の状況が恥ずかしい。

 密着した黒衣から漂うかすかな香りも、ジェダイトの囁き声も、慈しむような手の動きも……そのすべてが穏やかであるのに、ひどく淫靡いんびに感じる。


 こんなことで動揺するような性格ではないのだが――。自分が動揺しているという事実に雪華はさらに動揺し、気を落ち着かせるようにジェダイトの誘導に黙って従った。

 煙を吸い込み、吐き出す。多少のむせを我慢してそれを繰り返していると、ようやくジェダイトが頬から手を離してくれた。


「どうですか?」


「……甘い……」


 それはシーシャの煙についての感想なのか、それとも先ほどまでの状況についての感想なのか、もはや自分でもよく分からなかった。

 吸い口から唇を離して息を吸い込むと、ようやく肺まで空気と煙の匂いが届いた気がした。甘く――そしてどこか、苦い。


「色々な味がありますが、好まれるのは果物の香りですね。これはたぶん、林檎かな」


「…………」


「赤くなっていますよ、雪華殿。慣れないと少し苦しかったですか?」


「……ああ、少し……」


 ジェダイトが、すっと雪華の頬に触れる。咳き込むふりをして小さく顔を逸らすと、雪華は碧の視線から逃れた。

 ジェダイトが火を消して、シーシャを元あった場所に片付ける。窓を少し開け放つと冷たい空気が頬を刺し、雪華はようやく冷静な思考を取り戻すことができた。


「何か飲み物をお持ちしましょうか。シーシャを吸ったなら、シルキアよりも斎のお茶の方がいいかもしれませんね」


「……いや、大丈夫だ。お構いなく」


「このままお帰ししては、男の名折れですよ。どうぞ、かけて下さい。すぐに運ばせましょう」


 そう告げてジェダイトは奥の間を覗き込むと、控えていたらしい使用人に二言三言告げて戻ってきた。

 ジェダイトに導かれ、見事な螺鈿らでん細工の施された卓へと腰かける。同じく正面に腰かけたジェダイトは、雪華を見つめてあのうっとりするような笑みを浮かべた。


「雪華殿は、タバコやキセルを吸われないのですね」


「ああ。分かるか?」


「慣れていないようでしたから。もしかしたらキセルを吸っているのかと思っていたのですが」


「……? なぜだ」


「……匂いが。ごくかすかにサンダルウッド――白檀びゃくだんのような香りがあなたからしたので」


「ああ……。仕事仲間がよく吸ってるんだ。毎日一緒にいるから移ってしまったんだろう」


「それはそれは……妬けますね」


「ご冗談を」


 ジェダイトはうっすらと笑み、流し目を送る。それを雪華は溜息で振り払った。……これ以上、心乱されるのは御免だ。

 そうこうしているうちに扉が開き、先ほどの使用人が茶器を持ってやってきた。使用人は螺鈿らでんの卓にそれを置くと、静かに下がっていく。


「さて……」


「ああ、いい。私がやるよ。もてなしてもらうばかりでは申し訳ない」


「そうですか? では、お願いします」


 立ち上がったジェダイトを押しとどめると、急須を手に取る。杯に茶を注ぐと、ジェダイトはにこりと笑った。


「あなたにお茶を淹れてもらえるとは、なんだか贅沢な気分ですね」


「茶ぐらい誰だって淹れられるさ。……はい、どうぞ」


 軽口にそっけなく答え、ずいとジェダイトへ杯を差し出す。自分の分も注ぎ、茶を口に含むと慣れた味にほっとした。異国の人と共に離宮とはいえ城に入り、さらには先ほどのような出来事があって、知らず緊張していたらしい。


 ようやく浮ついた気持ちが落ち着いたような気がした。周囲を見る余裕も出てきて、雪華は無礼にならない程度に部屋の中を見渡す。

 自分が今腰かけている椅子に敷かれた繊細な刺繍の布だとか、細かい細工の蝋燭立てだとか、斎では見かけないような見事な意匠の道具たちに目が引き付けられる。先ほどのシーシャもこれまで見たことがなかった。


「シルキアの物が珍しいですか?」


「ああ……。正直、驚いた。お恥ずかしい話だが、半鎖国制を取っているゆえにシルキアはもっと……その、技術が遅れているのかと思っていた。高官たるあなたには、本当に申し訳ないが――」


「お気になさらず。……そうですね。数十年前まではたしかに、シルキアの技術は斎や西の諸国に比べると大きく劣っていたようです。けれど数少ない異国へと旅した者たちの話を聞いて、さすがにこれ以上遅れをとってはまずいと当時の高官たちが思ったようですね。それ以来、異国の技術者を招へいするようになりシルキアの技術もどうにか諸国と同等まで追いついたのです。それでも我が国はまだまだですが」


「そんなことはない。ここに持ち込まれたあなた方の技術は、素人目に見ても素晴らしいものだ。本国にはもっと様々なものがあるのだろう? ……興味深いな。あなたの国を、私もこの目で見てみたいものだ」


 本心からそう告げると、ジェダイトは深い知性を宿した碧の瞳をうっすらと細めた。


「……ありがとうございます。そのお言葉、シルキアの技術者たちに伝えてやりたいものです。もっとも、あなたの花のような唇から言われた方が彼らも喜ぶとは思いますが」


「だから、そういうのはやめてくれって」


「ふふ」


 雪華のげんなりした顔にジェダイトはさもおかしそうに小さく笑うと、茶を注ぎ足す。その穏やかな横顔を眺め、雪華も何か満たされたような心持ちになった。

 シルキアと斎。近頃の情勢を聞く限り、その対立は根深くかなり切羽詰まった状況にあるようだ。だが、この人を見ていると信じられない。

 この穏やかな人が、斎の敵に回ることもあるのだろうか。斎に踏み入り、この国の人と国土を蹂躙じゅうりんする未来が迫っているのだろうか。


(……嫌だ……)


 そんな場面は見たくない。そんな事態にはなってほしくない。

 強くそう思い、雪華は視線を逸らした。それに気付いたのか、ジェダイトが心配そうに覗きこんでくる。


「雪華殿? どうかなさいましたか」


「いや、なんでもない。……長居してしまったな。そろそろおいとまするよ」


「おや、これから宵が訪れるといいますのに。私としては、朝までここにいて頂けると嬉しいのですが」


 ジェダイトが碧の目を蠱惑こわく的に細め、流し目を送る。その眼差しは妖しいほどに美しく、いかに鈍い雪華といえど心騒がずにはいられなかった。


「戯言を……」


「ふふ。……可愛い方だ」


 動揺をそっけなく隠すと、ジェダイトは笑みを柔らかいものに変えて雪華に手を差し伸べた。……掴まれ、ということか。

 ここで反発するのはあまりにも子供っぽい。素直に手を重ねた雪華を立ち上がらせると、ジェダイトはその手を持ち上げ、昨夜からつけっぱなしだった薬指の指輪に口付けを落とした。不意打ちの行動に雪華は目を見開く。


「……っ」


「左手の薬指にはめる指輪は……我が国では、結婚の証とされているのですよ。右手の薬指ならば、婚約。……さて、あなたはどちらの指にはめますか?」


「……どっちにも、はめない。大きさを直して中指にでもはめるよ」


「ふ……本当につれない方だ」


 指から名残惜しげにジェダイトの唇が離れていく。かすかな熱をともされたそこが震えないように、雪華は力を総動員してゆっくりと腕を下ろした。小さく息を吐くと、照れ隠しに苦笑を浮かべてジェダイトを皮肉る。


「あなたのことを、穏やかな草食動物のようだと思っていたが……間違いだった。隙を見せると噛みつかれそうだ」


「噛みついてほしいのですか? ご希望とあらば、お応えしますが。……私はもともと肉食獣ですよ。あなたが知らないだけで」


 ジェダイトが再び妖しい笑みを浮かべる。その一瞬だけ碧の目が鋭さを帯びたような気がしたが、見上げると彼はいつもの顔で笑っていた。だから雪華もいつものように答える。


「お応えしなくて結構。……じゃ、そろそろ本当に行くよ。ありがとう、ジェダ殿。馳走になった」


「あ……。少々、お待ちを」


 手を上げて立ち去ろうとするとジェダイトが一歩近づく。雪華の肩口で息を吸うとジェダイトは小さく笑った。


「ふふ……乳香の香りがしますね。……あなたに私の香りが移ったようだ。キセルの方に、何か言われなければ良いですが」


「何かって――」


「口にすることが必要ですか? 私は構いませんが……あなたも大胆な方だ」


 流し目を送り、ジェダイトが目を細める。……きっと、分かってやっている。


「……いや、いい。分かったから」


 雪華はそっけなく告げると、外へと続く扉に手を伸ばす。だがそれよりも早く背後から腕が伸びてきて、扉が押し開けられた。


「こちらこそありがとうございました、雪華殿。楽しい時間を過ごせました。お送りはいかがしますか?」


「大丈夫だ、まだ明るいしな。……それでは」


 ジェダイトの見送りを受け、人目につかぬように離宮の外へと出る。夜が近づくにつれて賑わいを見せる通りを歩いていると、ふと鼻先を何かの匂いがかすめた。


「……乳香、か」


 服にわずかに残った異国の香りを楽しみながら、雪華は心地よい気分で宿へと急いだ。



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