第13話 異国の舞姫

 十の月も終わりに近付いてきた。その日、雪華は一階の厨房で飛路と料理の下ごしらえを手伝っていた。


「雪華さん。それ皮剥きすぎじゃない? 食べられるところまで削っちゃってるじゃん」


「そうか? こんなものだと思うが……」


「もったいないって。それになんだよ、その切り方。大雑把すぎ。山賊料理じゃないんだから」


「山賊料理……」


 手際よく作業していると思っていたのに、横から飛路が逐一文句をつけてくる。その手元を見ると、たしかに雪華が手伝ったものよりもよほど綺麗に下ごしらえがなされていた。


「あんたってさ、不器用じゃないのに結構適当なとこあるよね。こないだも鍋もの作ってくれたじゃん? たしかに美味かったけど、完全に男の手料理って感じだったよな。豪快!山菜と猪の鍋!…みたいな」


「男の手料理……」


 ずたぼろに言われ、さすがに少々ムッとする。だが事実だ。

 雪華は何も言い返すことができず、黙々と作業にいそしんだ。しばらくすると扉が開き、のっそりと大柄な男が姿を現す。


「ああ、こんなとこにいたのか。……新しい依頼が来たぜ」


「あ、頭領。お帰りなさい」


 扉を開けたのは言わずと知れた航悠だ。航悠は厨房に入ってくるなり、切ったばかりの野菜を生のまま口に放り込んだ。


「あ、こら。せっかく切ったのに」


「これは切ったっていうか、叩き斬ったって感じだろ。こっちが飛路作か。お前もこれぐらいできねぇとな」


「ほっとけ……」


 ばりばりと咀嚼そしゃくするその後頭部に平手を入れたい気持ちになる。それをこらえて、行儀悪く調理台に腰かけた相棒の顔を見やる。


「依頼って、どんなのだ?」


「ああ。……雪華。お前、踊れ」


「……は?」



 ――航悠の話は、こうだ。


 陽帝宮に滞在しているシルキアの外交使節団に近々、本国からやってくる外務大臣が合流する。

 さすがに大臣の来訪ともなれば、陽帝宮も城を挙げて歓迎の意を示さなければならない。そこで、大規模な宴を催すことにした。

 だがシルキアとの不穏な情勢飛び交うこの状況下で、二国の要人がつどう宴において何かが起こらないとは限らない。そう思い、警備を担当する武官が内々に下調べを行ったところ――その『何か』が出てきたのだそうだ。


 ――当日、宴の中に不審者が紛れ込む恐れあり。

 それが斎とシルキア、どちらの要人を狙うのかは分からないが、その情報を突き止めた武官は当然その正体を暴こうとした。だが、できなかった。


 警備を増やして有事に備えはするが、宴の場に軍の人間が多くいることは普通はあまり好まれない。そこで、斎の軍とは何の関係もない自分たち暁の鷹に依頼が下った。宴の中心に潜入し、不審者があればすぐに武官へと知らせるように――と。

 あからさまに武器を携えて、宴に出席することはできない。だが自分たちは暗器の扱いにけている。あとは宴に潜入する手段として、偽装――楽師を装って、臨席してほしいというのだ。



「そんな、あらのある計画でいいのか? 向こうの顔も分からなければ、狙っている奴も分からない。私たちが出たところで状況が変わるかは……」


「まぁそうだな。……ま、国の威信がかかってるから手駒は少しでも多い方がいいってことだろ。俺たちは保険みたいなものだ」


「話は分かったが、城か。……城はちょっとな。さすがに顔が割れたら、後々の仕事がやりづらくないか?」


 今まで色々な所に潜入したり、今回のような目的で踊ったりもしてきたが……さすがに、城はまずい。どこにかつての知り合いがいるか知れたものではない。

 それに間違いなく、宴には龍昇も参加するだろう。あの男が気付いたとしても何か騒ぎ立てるとは思えないが、会わないに越したことはない。それを航悠たちに言うことはできなかったが、航悠は雪華の懸念を払うように緩く首を振った。


「大丈夫だ、そこはさすがに考えてるから。俺らは塗料で適当に顔を塗るとして、お前は……そうだな、ヴェールでもかぶっとけ」


「ヴェール? それはたしかに顔は見えないが……おかしくないか? 斎の楽器じゃ不釣り合いだろ。それに、斎の楽師は陽帝宮にもいるだろう。私たちがしゃしゃり出て大丈夫なのか?」


「斎の楽師とはやることが違うからな。あちらさんの要望で、俺らは一応『旅の楽師』ってことにしてほしいらしい」


「旅の?」


「つまりは、異国の踊りを踊ってほしいんだと。ちょうどいいじゃねぇか。お前、昔やったあれやれよ。あれなら俺も弾けるし」


「あれって……あれか……。気が進まないな……」


 『あれ』の姿を思い浮かべて雪華が渋面を浮かべると、同席していた飛路が首を傾げながら口を開く。


「あの、話が全然見えないんですけど……『あれ』ってなんですか? 雪華さん、踊るの?」


「できればやりたくないがな……」


「ま、そう言うなって。そうと決まったら今日から特訓だな。久しぶりだから俺も指が動くかどうか」


「いや頭領、だから話が見えな――」


「飛路、お前も打楽器ぐらいなら叩けるだろ? 手伝えよ。そしたらいいもんが拝めるぜ」


 にやりと意地の悪い笑みを浮かべて、航悠が飛路の頭をぽんと叩く。そのまま厨房から出ていった航悠の後姿を、飛路はぽかんと見送った。


「あんた一体、何するの……?」


「……聞くな」




 そして数日後――


「まっさか城に入れる日が来るとは思わなかったな。あっちの門からだってよ。ほら、行くぞ」


「…………」


 蒼月楼から、徒歩で三十分ほど。かつての我が家の前に立った雪華は、複雑な気持ちで城門を眺めた。

 市街からもよく見えるこの門から奥がこの国の中枢である陽帝宮だ。いくつかの門をくぐると外朝に入る。そのさらに奥が内朝だ。雪華が暮らしていたのは、皇帝の私的な空間である内朝の方だった。


 子供の頃、外朝や城門のあたりには数えられるほどしか来たことがない。つまりかつてのほとんどの臣下は雪華の顔など知りはしないはずだ。それでも、顔が強張るのはどうしようもなかった。


 衛士えじに案内され、外朝の中へと足を踏み入れる。航悠の後姿を追い、できるだけ景色を見ないように控室まで歩くが、外朝といえどその装飾は内朝とよく似通っていて胸が詰まる思いがする。


 ……こことよく似た場所を、駆け抜けた。あるときは子供同士の遊びの一環として。あるときは居並ぶ臣下に威容を示す父の後ろについて。そして最後は――炎にまかれた内朝から逃げ出すために。


「…………」


 その時の焦げくさい臭いや血臭が今にも漂ってくるようで、知らず口元を押さえていた。すると、前を歩く航悠の背が唐突に止まる。


「ここだって。――雪華、お前は隣。着替えたらこっちで合流しよう」


「あ……、ああ……」


 ぽんと肩を叩かれ、我に返る。おそらくひどい顔をしていたはずだが、航悠は何も言わずに雪華を隣の控室に押し込んだ。赤い柱が視界から消え、ほっと息をつく。


(しっかりしろ……! 任務で来たんだから!)


 頬を両手で叩き、気持ちを切り替える。隣に仲間たちがいることを心強く思いながら、雪華は手早く支度をしていった。




「お、できたか。いやー、久しぶりだなその服」


「……? …ッ!!」


 隣室の扉を開けると、すでに航悠たち男衆は支度を済ませていた。顔に黒い塗料を塗り込み、一見ではそれが彼らだとは気付かない。

 ひらひらと揺れる長い下衣をひるがえし、雪華は室内へと足を踏み入れる。なぜか固まっている飛路と青竹の横を通り過ぎると、異国風の衣装を着た相棒に見下ろされた。


「お前、少し太ったんじゃないか? この辺に肉が――」


「触るな。だから嫌だと言ったんだ……」


 雪華の姿をしげしげと眺めた航悠が、大きくさらけ出した腹部をつまんでこようとする。その手を叩くと、雪華は無言で突っ立っている他の男どもを見渡した。

 任務には航悠と飛路のほかに、松雲と青竹が同行していた。松雲は昔この姿を見たことがあるから何も言わないが、青竹と飛路は雪華を眺めたままで呆然と固まっている。


「……? なんだ」


「いや……すっげ、眼福っす……。梅林に譲らなくて良かったー」


 青竹は細い目を見開き、雪華の体…というか主に胸元と腹部を凝視していた。飛路はと言うと、同じくその二点を眺めている。


「飛路、お前までなんだ」


「…………。……化粧が、濃い」


「目しか出てないんだから仕方ないだろ。踊りを踊るならこれぐらいでちょうどいい」


「いやツッコミどころ、そこじゃねーだろ飛路」


「あ、ああ……。じゃなくて……なんて格好してんだよ、あんた! そんな、隠れてるとこの方が少ない服……っ」


 青竹に小突かれた飛路が朱に染まった顔で叫ぶ。それを冷静に眺めると、雪華は淡々と答えた。


「そんなことはない。というか、口に出すな。私が恥ずかしいだろ」


「どこがだよ。だったらもう少し分かりやすく恥じらえって……!」


「失礼だな。これでもちゃんと、恥ずかしい」


「そうは見えないって……。あんたな……はぁ。まぁ、もういいや……」


 赤い顔で溜息をつくと、飛路が目を背ける。雪華は改めて自分の格好を見下ろしてみた。


 胸の膨らみをかろうじて覆う、朱色の胸当て。大胆にさらけ出した胸元と腹部には金の装飾具が揺れている。

 足元は床に届くほどの長衣だが、少し動けば深い切れ込みから足が丸見えになるだろう。剥き出しの腕にはいくつもの腕輪を重ね、動くたびにシャラシャラと涼やかな音が鳴る。

 唯一の救いが、鼻から下がヴェールに覆われていることだ。……顔が見えなくて、本当に良かった。


(昔はよくこんな格好で踊っていたな……)


 かつて吟遊詩人の真似事をしていたときは、ここまで華美でも大胆でもなかったがこんな衣装を毎日のように着ていた。しばらく離れると、気恥ずかしいものだ。

 あまりに青竹と飛路とついでに航悠のにやけた視線が痛いため、大きな白いヴェールで体を覆う。そうこうしているうちに、先ほどの衛士が呼びにやってきた。


 衛士に先導され、宴が開かれているらしい大広間へと向かう。近付くうちに斎の楽師が演奏しているのだろう楽の音が聞こえてきて、雪華はゆっくりと唾を飲み込んだ。そして、明るく照らされた広間へと踏み出す。


「――それではシルキアの御方々、お待たせいたしました。今宵は最後に、幻想的な舞を一差しご用意させて頂きました」


 斎の大臣らしい男の口上に先導され、雪華たち一行は広間の中央へと踏み出す。

 装飾品の涼やかな音が足音に重なった。ヴェールで口元を隠し、さらに白絹で全身を覆った雪華は突き刺さる視線を感じながらひざまずく。


「こちらはシルキアよりもさらに西国から参った、旅の楽師にございます。かつてシルキアでも栄えたといういにしえの踊りを、ご覧に入れたいと存じます」


 大臣の斎国語を、シルキア語に同時通訳している者がいる。ヴェールの下からちらりと視線を向けると、ジェダイトが広間の斜め前に座っていた。……ということは、隣の男がシルキアの大臣か。


 すでに赤ら顔の大臣は、満足げな顔で雪華を見ている。どこの国も、酔っ払いの顔は大して変わりないらしい。ついでに正面の玉座へと目を向けると――当然のように、そこには正装姿の龍昇が座っていた。


(気付かなければいいが……無理だろうな)


 できれば、こんな格好を知己ちきに見られたくはない。いや、龍昇に見られたくない。

 目以外は顔も隠しているし、そうそう自分だとは分からないとは思うが……なんとなく、気付かれてしまうのではないかという予感があった。そのありがたくない想像をかき消すように背後でがくの音が鳴りはじめ、雪華はゆっくりと立ち上がる。


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 最初に響いたのは、航悠が手にしたダラブッカの音。杯型の太鼓の皮を叩き、全体の拍子を整える。そのあとに松雲の弦楽器ウードの音が続き、雪華は動き始める。

 この二人の楽の音は、いつ聴いてもぴったりだ。正直、流しの楽師としてやっていけるのではないかと思う。


(不審者……。この中にいるのか?)


 ごく自然な動きで、ヴェールの下から周囲に視線を配る。斎の高官の面々、シルキアの随従の面々……その誰もが、浮かれたような顔で雪華のことを見ている。


 航悠が低く、歌を口ずさみ始める。それは斎国語ではない。シルキアよりも西国の言葉は、シルキア語にも似通っていると聞いた。だから彼らには歌の内容が分かるだろう。

 ゆったりとした音階に合わせ、最初は踊りもヴェールの動きを取り入れた、穏やかなものから始まる。白絹を波立たせ、身にまとう。赤い衣装を内に隠し、少女のように恥じらいながら。


 そのうち手につけた小さなジルシンバルの音に合わせて、飛路と青竹の打楽器の音が入ってきた。

 即興で身に着けたにしては、なかなか様になっている。雪華が踊りながら小さく笑うとふと飛路と目が合ったが、不自然にぱっと逸らされた。頬が赤く染まっているようにも見えたが――きっと、見間違いだろう。


 踊りと歌には、物語がある。それは自然をたたえたり人を讃えたりするものも多いが、最も多いのが恋の歌だ。かつて一番踊っただろうその旋律が、雪華の体を勝手に動かす。

 そのとき――


「……っ」


 ふと視線をやった方向に異質な感覚を覚え、目を瞬く。雪華を注視する双眸そうぼうが集まる中で、たった一人だけ雪華を見ていないものがいる。


(あいつか……?)


 踊りながらちらりと視線を向けると、その男はシルキアの随従の中にいた。すぐ隣には斎の大臣が座っている。

 高官に紛れているが、その目はただの役人の目ではない。男の目が見ているのは雪華ではなく――斎の大臣だ。間違いない。


 今のところ男が動く気配はない。その挙動に注意しながら雪華は踊りを続けた。背後の航悠も気付いたのか、ちらりと視線をやったのが見える。


 舞による物語は、続く。白絹をまとい恥じらっていた少女は、だんだんと大人になっていく。

 楽の音が次第に艶っぽい旋律になっていくのに伴い、雪華の腰の動きも徐々に激しいものになっていった。


 そして、転調――


「……!」


 白いヴェールを脱ぎ落とし、少女は赤い衣をまとった女になる。

 身を固く隠す白衣は、もういらない。恋を知った女は、激しく腰を振り男を誘惑する。


 腕輪の鳴る手を伸ばし、こちらへといざなう。たっぷりと縁取った目で蠱惑的こわくてきに笑み、時の権力者を誘惑する。……だがそれは、女の罠だ。


 あらかじめ床に置いておいた舞踏用の剣を拾い上げると、躊躇ちゅうちょなく鞘から抜いた。頭の上に高く掲げ、次の瞬間振り下ろす。

 雪華の剣が差したのは――先ほどの、不審な男の方向だ。懐に手を入れかけた男の動きを制するように、剣先をぴたりとその顔に合わせる。


「――っ」


 男の顔が強張り、動きが止まった。それを見届け、雪華は剣を横なぎにすると首をねるように頭上へと戻した。……それで、十分だった。


 男がこそこそと宴席の場から抜けていく。そのあとを衛士が追っていくのが見えた。もう大丈夫だろう。

 とりあえずの役目は果たせたようだ。ほっと息をつくと、この任務を最後までまっとうするべく踊りへと意識を戻す。


 剣舞は、危険な動きが多いほどに観客は見ごたえを感じるものだ。雪華は慣れた手つきで剣を扱いながら、次は誰を狙おうかと考える。


(まあ、せっかくだし――)


 今日の主賓を狙ってみることにする。ヴェールの下でうっすらと笑むと、シルキアの大臣に向けて剣を振り下ろした。


「おお……」


 ぴたりと大臣へ向けられた剣は、不敬と思われる前に引き上げられ雪華の頭上へと戻る。何事もやりすぎは良くない。

 目を丸くしていた大臣がやに下がった笑みを浮かべた。その隣で、ジェダイトが穏やかに微笑む。


 次に女が狙うのは、当然のように斎の皇帝だ。

 ゆったりとした間奏に合わせ、狙いを定めていく。そして拍子が変わったその瞬間に、再び剣を下ろした。


「…………」


「…………」


 束の間――龍昇と、視線が交わった。皇帝は瞬きすらせず、雪華の顔を見ている。


(気付いている――)


 その静かな視線に、確信してしまった。

 何事もなかったかのように剣を戻すと、たくらみが破れた女は今度は追われる立場になる。


 逃げ惑う女は、それでも踊る。そうすることで自分を表現してきた女の、最後に許された自由。

 しかし追っ手が迫り、もう逃げ切れないと悟り――女は地に膝をつくと、剣を喉に突き立てて果てた。……それが、終劇だった。


 演目としては血生臭いし、追われるところなど特に好きではないが、女の本能的な生き方は嫌いではない。

 息を切らして動きを止めると、沈黙に支配された空間を割る拍手の音に雪華はほっと吐息を漏らした。


「大臣は、素晴らしかったと言っておいでです」


 興奮したように手を鳴らすシルキア大臣の隣で、ジェダイトが龍昇に向けて穏やかに口を開いた。雪華たち一行はその場に平伏し、鳴りやまぬ拍手を浴びる。

 拍手がやみ、航悠たちが立ち上がる。一仕事終え、雪華もほっと身を引こうとしたそのとき――


『え…? 大臣、それは――』


 耳に届いたのは、片言ならばなんとか理解できるシルキア語。赤ら顔の大臣の発言に、ジェダイトが困惑しているようだった。


「アル=マリク卿。大臣は、なんと?」


 その空気を察したのか、玉座の龍昇が穏やかにジェダイトに問いかける。ジェダイトはわずかに逡巡しゅんじゅんしたのち、今度は流暢りゅうちょうな斎国語で龍昇に告げた。


「その……そちらの女性に、ぜひ酌をして頂きたいと。失礼は承知しておりますが、素晴らしい舞でしたので是非に、と……」


「それは……」


 顔を伏せた雪華にも、龍昇が困惑したのが伝わってきた。

 雪華たちが斎の楽師という触れ込みならば、彼は自分たちにもてなしを命じることができる。しかし『異国の』楽師である自分たちは、いわば龍昇の傘下にはないことになる。だから龍昇も無理に命じることができないし、雪華たちにもそれを果たす義理はない。


 ここで応じればたしかに龍昇の、ひいては斎の面目が保たれる。

 雪華は居住まいを正すと、広間の端に控えていた侍従に目配せをした。侍従ははっとしたように奥に下がり、上等な酒器を持って雪華の前にかしづく。

 斎の威信をかけた宴席で雪華が義理で動く必要はないのだが、ジェダイトの困った様子に同情し、酒器を手に取った。


 きらびやかな舞の衣装で斎の酒器を持つ姿は、落ち着いて考えればかなりおかしく見えるだろうが相手は酔っ払いだ。音もなく大臣の前へと歩み寄ると、すっと酒器を差し出す。


『おお、おお。よく参られた。さ、ちこう寄れ』


 ――といったようなことを告げて、大臣が杯をずいと突き出す。そこに静かに酒を注ぐと、手首を掴もうとしてきた無粋な手をかわし、雪華はジェダイトの方を向いた。


「あの……申し訳ない」


 ジェダイトは斎国語でそう言うと、唯一表に出ている雪華の目を控えめに見やった。

 碧の目がうっすらと細められる。その視線に彼もまた雪華の正体に気が付いていたということを悟り、にわかに恥ずかしくなった。

 濃く縁取りを入れた目を伏せて、ジェダイトの空の杯を指し示す。ジェダイトは一瞬惑うような顔をしたあとに、意図を解して杯を差し出してくれた。


「……ありがとうございます、美しい方」


 流暢な斎国語で告げたその人を見つめ、一歩後退する。深くこうべを垂れると、雪華は次に玉座の前へと進み出た。


「え……」


 腰かけた龍昇が、わずかにたじろいだのが分かった。その様をヴェール越しに感じ取る。

 向こうから酌を望んだ異国の大臣ならいざしらず、一介の踊り子が勝手に皇帝に杯を捧げることは許されていない。雪華はその場に平伏すると、皇帝の許しを待った。侍従が皇帝に渡すための杯を用意するが、それを制して龍昇が呼びかける。


「――よい。……異国の舞姫どの、こちらへ」


 主賓の大臣に酌をしたら、宴の主催者でありこの場で最もとうとい身分である皇帝にも杯を捧げるのは決しておかしなことではない。むしろ自然な成り行きだ。

 けれど、別に従う義理もなかったはずだ。それなのに、なぜ――?


 龍昇に許されて立ち上がると、雪華は自分の行動に疑念を抱きながら皇帝の前まで足を進めた。


「…………」


 玉座の足元に膝をつき、龍昇と視線を合わせる。龍昇は固く強張った表情で、雪華を食い入るように見つめた。

 いったい、なぜ……とその目が語っている。ひざまずかないでくれ、とその目が訴えている。けれど、声に出すことはできない。

 龍昇の持った杯に視線を向けると、彼は今気付いたというように杯をこちらに差し出した。そこに静かに酒を満たしていく。


「ありがとう。……あなたの舞、素晴らしかった。あのように美しい舞は今までに見たことがない。また……見てみたいものだ」


 『異国の踊り子』である雪華は、その言葉に答えることはできない。ただつかの間、龍昇の黒い双眸を見つめると――なぜか、笑みがこぼれた。


「……っ」


 正装をして、玉座に収まっている幼馴染。それはもしかしたら憎むべき姿だったのかもしれない。

 けれど――雪華はなぜか、安堵していた。「ああ、良かった」と思っていた。この国はこの男のもとで動いているのだと、今初めて実感できたような気がする。


「あ……」


 虚を突かれたような龍昇が、何かを口にしかける。それよりも早く後退すると、雪華は深く頭を下げ玉座から離れた。そのまま出口へ向かって歩いていく。


『しばし待たれよ、舞姫……!』


『……閣下、お酒が過ぎるのではありませぬか? 舞姫は蝶のようなお方。我らのもとに一瞬だけでも舞い降りて下さっただけで、良しとなさいませ。一夜ひとよ限りの、夢にございますよ』


 背後から聞こえたのはシルキアの大臣のしゃがれた声と、それを押しとどめる低く美しい声。雪華が退出する時間を稼ぐようにジェダイトは今度は斎国語で続けた。


「舞姫どの、楽師がた、そして皇帝陛下。今宵は素晴らしい余興を用意して下さりありがとうございます。大臣に代わってお礼申し上げます」


 麗しの補佐官の言葉に、静まり返っていたその場の空気が緩む。雪華たち一行はもう一度叩頭こうとうすると、今度こそ宴の場から退出した。

 装飾具が奏でる涼やかな音を聴きながら、雪華は龍昇の深く静かな視線が今も背に注がれていることを感じていた。



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