第12話 懐かしい味

 それからまた一週間ほどが経過した頃、『それ』は再び突然やってきた。


「――姐御。薫風楼のあたりで、なんか伝言頼まれてきたんすけど」


「私に?」


 一階の酒楼で飛路と武器の調整をしていた雪華は、外から帰ってきた梅林の言葉に目を瞬いた。


「へえ。あの藍良の姐御からなんすけどね。ちょっとした用事と、おいしいものがあるからいらっしゃい、って」


「藍良か。なんだろう…?」


「あんたさ……いま絶対、藍良さんの名前じゃなくて『おいしいもの』の方に興味引かれただろ」


 一瞬にして口元を緩めた雪華に、飛路が呆れ顔で口を挟む。梅林はうっとりと目を閉じると頬を染めながら続けた。


「いやー、あの姐さん、ほんと美人すね。……って、あ、雪華の姐御の方が上っすけどね!」


「そこは比べなくていいよ。藍良に勝てるわけないだろ」


「いやいや、そんな! 姐御の方が上っていうか、もう最上っつーか、上から見下されて踏まれたい、っつーか……」


「……うわぁ……」


 自らを抱きしめて赤面でもだえる梅林に、飛路が引き気味の視線を送る。それに構うことなく、雪華は道具をまとめると軽やかに立ち上がった。


「じゃ、ちょっと行ってくるよ。もし航悠が帰ってきたら、『昼から遊ぶな、この節操なし男!』…って伝えておいてくれ」


「ああ。……って、え!? いやちょっと待てよ、無理だから…!」


「頼むな、飛路」


 立ち上がった飛路に手を振ると、雪華は明るい街へと足を踏み出した。




「春蘭、こんにちは。なんか藍良に呼ばれたんだけど」


「あ、こんにちは。雪華様。上がっていただいて大丈夫ですよ」


 薫風楼の裏口で迎えてくれたのは、今日も変わらず礼儀正しい春蘭だった。だが控えめな彼女にしては珍しく、口元に手をやると何が楽しいのかにこりと相好を崩す。


「あの――素敵な方ですね。ふふっ」


「……?」


 妓女見習いの極上の笑顔に見送られ、首を傾げながら妓楼に入る。雪華は階段を上がると見事な牡丹ぼたんが描かれた戸の前に立った。


「藍良、入るよ。私に用事ってなに……。――ッ!?」


「あ……」


 薫風楼最上階の、藍良の居室。勝手知ったるその部屋の戸を開けた雪華は、思ってもみなかった人物と遭遇し目を見開いた。

 すっきりとした平服に身を包んだこの国の皇帝――胡龍昇が、中央の卓に座っている。


「な――、あ……」


 もしかして、藍良が接客中だったのか。誰を? ……龍昇をだ。

 妓楼と龍昇という組み合わせに衝撃を受けつつも、一番に思いついたその「理由」に踵を返す。それを、藍良ののんびりとした声が引きとめた。


「あら雪華。早かったわねー」


「藍良……」


 部屋の奥から茶器を持ってきた女は、雪華を見て嫣然えんぜんと笑んだ。入口で固まっている親友を手招き、龍昇のかけている卓へといざなう。


「まぁ座んなさいよ。こちらの旦那、お知り合いでしょ?」


「え。ちが――、いや、そうだけど……」


 否とも応とも言えずに惑う雪華を、藍良が強引に腰かけさせる。男が衣に焚きしめた伽羅きゃらの香りがふわりと届き、目を合わせなくても隣に座っている人物を意識せざるを得ない。

 良い香りのする茶を慣れた手つきで急須から注ぐと、卓につくかと思われた藍良はそのまま扉へと向かっていってしまう。


「藍良……?」


「じゃ、ごゆっくり。あたしはこれから宴席に出るから、あと二時間は戻らないわ。好きに使ってもらっていいわよ」


「え……。え!? ちょっ……藍良! 待っ――」


 立ち上がった雪華の目前で、無情にも戸が閉められる。最高級妓女の居室に、雪華はこの国の皇帝と押し込められてしまった。

 ……いったい、どうしろと言うのだ。閉ざされた戸を呆然と眺めていた雪華は、肩を落とすとつかつかと卓に歩み寄る。


「ちっ……」


 卓に置かれた杯を掴み、一気に飲み干す。喉を流れていく、ぬるい茶が美味い。音を立てて杯を置くと、雪華は乱暴に椅子へと腰かけた。


「…………」


「…………」


 まさかこんな場所で、またしても会うとは思わなかった。

 龍昇は目を伏せ、居心地悪そうに茶をすすっている。その端正な横顔に雪華は低く問いかけた。


「客、だったのか……。たしかにここは官吏の利用も多いしな。まさか皇帝陛下までご贔屓ひいきとは思わなかったが」


「え……」


 低い声音に棘が混じる。それを自覚して雪華は眉をひそめた。

 今さら生娘でもあるまいし、こういう場所が嫌だとか汚らわしいなどと言う気は毛頭ない。官吏だろうと皇帝だろうと、男としての欲求は当然あるだろう。

 立場上おいそれと女官などに手を出すわけにもいかないから、考えられる事態ではある。それに、薫風楼のような上級の妓楼は宮城きゅうじょう外での政治まつりごとの場ともなる。


 ……そう、分かっている。分かっているが――何か、とても嫌な感じがした。


「違う。俺は客としてここに来たんじゃない」


「は……?」


 だがその推測を、龍昇はきっぱりと否定した。杯を置いて身を乗り出した男に雪華は少々気圧される。上品だがきらびやかな室内を惑うように見渡すと、龍昇はぽつりと口を開いた。


「今日、あなたに会いに行こうと思って街を歩いていたら……あの女性が、あなたの部下という青年と話していたんだ。『雪華は元気か』とあの人が聞いていて……思わず、声をかけてしまった。そうしたらここに連れ込まれて」


「藍良が…? 珍しいな。そういうこと、あまりしない女なんだが」


「彼女もそう言っていた。だが、すぐにあなたの幼馴染だろうと言われて、色々聞かれていたら……あなたが来た。だから本当に、ここに来ようと思って来たわけじゃない」


「……そうか」


 龍昇は重く息をついた。何もそこまで力いっぱい否定しなくても良さそうなものだが、とりあえず誤解だということは分かった。雪華は声をひそめ、低く問いかける。


「……藍良に話したのか。あんたが皇帝で、私が……皇女だったってこと」


「まさか。この前と同じだ。皇帝として来たんじゃない。それに、それを言ってはあなたが困るのだろう?」


「まあ……そうだな」


 仏頂面で答えると、龍昇がわずかに笑う。彼は立ち上がると、空になった雪華の杯に急須に残っていた茶を静かに注いだ。

 あまりに自然に給仕され、茶が出きったところで雪華ははっと我に返った。今のは皇帝がすることではない。しかしそんなことは意にも介さぬように、龍昇は椅子に腰かけるとまた静かに茶をすする。


「公務は。この前も思ったが、あんた一人で市中になんか来ているのか」


「今日は休みだ。働きたいのはやまやまだが、週に一度は休みを取れと宰相に泣きつかれた」


「だからと言って、なぜ街に下りる。皇帝は皇帝らしく城の池でも眺めていればいいものを」


「まだそれを解する年齢には達してないよ。……実は、街にはちょくちょく下りているんだ。あの城にずっといても、民の声は届きにくいから」


「……ご立派なことだ」


 龍昇の苦笑に、何か苦いものが胸の内を流れた。わずかにかげった雪華の表情には気付かず、龍昇は続ける。


「ここへは一人で来た……と言いたいところだが、実は近くの店に護衛を待たせている」


「……考えなしだな。もしも私や藍良が刺客だったりしたらどうする? 物見遊山気分で来ると、民に後ろから刺されるぞ」


「その時は、あれでなんとかするよ。これでも昔は武官を目指していたんだ。もっとも、市井に混じれば俺の顔など地味すぎてほとんど気付かれないだろうが」


 そう言って、壁に立てかけた自前の剣をちらりと見る。そのつかには皇帝の所持品らしからぬボロボロの革が巻かれ、龍昇が長い間それを愛用してきたことを物語っていた。

 そういえば、武官を目指していた時期が彼にはたしかにあった。過去を思い出して沈黙した雪華に、龍昇が安堵を滲ませた視線を向ける。


「……良かった。今日は逃げずにいてくれて」


「勘違いするな。藍良の顔を立てているだけだ。ここが薫風楼じゃなかったら、とっくに逃げてる」


「…………」


 即座に返された辛辣しんらつな言葉に龍昇が眉を下げる。その顔にまた、なぜか自分が悪いことをしたような気分になる。気まずくなった空気を散らすように雪華は頭を振った。


「藍良にだまされたよ。うまいものがあるなんて言って、あいつ――」


「いや、それは嘘じゃない」


 溜息をついた雪華の声をさえぎるように、龍昇が立ち上がる。卓の奥に置かれていた布包みを手に取ると、それを雪華に差し出した。


「どうぞ、姫」


「だから、姫じゃない。……なんだ。あんたから物なんて貰えない」


「そう言わずに。とりあえず開けてみてくれ」


「だから嫌だって――」


 渋る雪華に龍昇は引き下がらず、包みをじっと指し示す。そのしつこさに負け、雪華はしぶしぶ美しい刺繍のほどこされた布包みを開いた。布に包まれた箱を開けると、何か香ばしい香りが鼻孔に広がる。


「……菓子?」


 箱いっぱいに詰められていたのは、茶色い地味な焼菓子だった。花型に抜かれた平べったいそれをつまみ上げると、既視感を覚える。


(これ……どこかで……)


「食べてみてくれないか」


 龍昇の促しに、今度は反発を覚えることもなく菓子を口にする。その味が舌に広がった瞬間、はっと目を見開いた。


「これ――」


 雪華が思わず振り向くと、龍昇はすべてを解したようにゆっくりと頷いた。


「……良かった、覚えていてくれて。あなたの好きだった菓子を、料理長に頼んで作ってもらったんだ」


「料理長…? まだ現役なのか……!?」


 記憶の中から、懐かしい赤ら顔が呼び起こされる。陽帝宮、宮廷料理長――その官職名に、龍昇はしっかりとうなずく。


「ああ。……あの内乱のあと、胡朝を嫌って官職を退かれていたが、斎国宮廷料理がすたれてしまうのはあまりに忍びないと父が復帰を頼み込んだんだ。今でも胡朝は好きじゃないらしいが、あの人以上に宮廷料理に精通した人はいないからな……。戻ってきてくれて良かった」


「そう、なのか……」


 懐かしい味のする菓子をつまみながら、雪華は呆然とつぶやく。


 ――料理長。いつも自分たち家族の食事を作ってくれた、小太りな男性の顔がまぶたに浮かぶ。幼いころ好き嫌いの多かった雪華に向かい、『姫、なんでも食べなくては大きくなれませんよ!』と叱ってくれた数少ない大人だった。

 皇女も自分の子供も関係なく、悪いことは悪いと言い、良いことをしたら褒めてくれる情の深い男だった。今ではもう、官吏としては高齢の部類に入るだろう。


「よく……私やあんたに、菓子を作ってくれていたな……。もっと華やかなものが良いと言ったら、素朴なものが一番だと言って……おかげで舌が肥えてしまった」


「ああ。俺もあの人の作る料理が一番美味いと思う」


 龍昇が穏やかな目でうなずく。束の間、二人の間にはかつての空気が流れたような気がした。

 しばらくしてそのことにたじろぐと、無意識のうちにいくつも菓子をつまんでいた雪華の手に視線が向けられていることに気付く。雪華は今さらのように手を止めると、己の行動を恥じるように指を払う。


「甘いもの、今でも好きなんだな。食べてもらえて嬉しいよ。……もらってほしい。俺からだと思わなくていいから」


「…………」


 一度手を付けてしまった以上、ここまで来て突き返すのはどうかと思ったがそれが龍昇が持ってきた物であることを思い出し、わずかに迷う。だが口に残る素朴な甘みは、雪華にとってあまりに魅力的だった。

 懐かしく、切なさすら感じるような記憶。それを手放すのは、料理長にも申し訳が立たない。


「じゃあ……もらっておく。料理長に免じて」


「ああ、そうしてくれ」


 目を逸らしてつぶやいた雪華の声に、龍昇はくすりと笑みを浮かべた。その表情に雪華は低く続ける。


「礼は言う。だが調子に乗るな」 


「失礼。あなたを笑ったわけじゃないんだ」


「菓子一つで、ほだされたわけじゃない。料理長が作ったものじゃなければ受け取らなかった」


「ああ。それで構わない」


 突き放すように言っても龍昇は静かに受け流すばかりだ。その態度に、彼が積み重ねてきた長い年月が透けて見える。

 ……やはり、やめておけば良かった。この男と普通に会話をすることなど決して望んではいなかったのに。


 菓子箱を包み直すと、雪華はもやもやした気持ちを抱えたまま部屋の戸を無言で押し開ける。立ち上がった龍昇があとに続き、二人は裏口で立ち止まった。


「じゃあ……また」


「…………」


 藍良が帰ってこないうちに薫風楼をあとにし、建物の前で別れる。手を上げた龍昇に、雪華は無言の一瞥いちべつを返した。


「また……持ってくる」


 冷えた視線を受け流し、静かな微笑で告げると男は花街の人混みに紛れていく。姿勢のいいその後ろ姿は、平服を着ていても角を曲がるまで見失うことはなかった。

 その様をぼんやりと見送りながら、手の中に残された布包みの感触に雪華は何か複雑なものを感じずにはいられなかった。



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