第11話 菩提寺のひととき

 十の月も、十日ほどが過ぎた頃。久しぶりに休みが取れた雪華は、甘味処をひやかした帰りにふと菩提寺ぼだいじの丘へと上ってみた。


 特に意味があった訳ではない。ただなんとなく静かな場所に行きたくて、思いついたのがそこだっただけだ。

 落ちはじめた枯れ葉を踏み鳴らしながら、開けたその地へと足を踏み入れる。だが静寂に満たされたその場所には、先客がいた。


「……あ……」


「……? ああ……お久しぶりです、雪華殿」


 寂しい土地にそっとたたずみ、廃墟を見つめていたのは先月もここで会ったジェダイトだった。僧衣のような黒衣をまとった男が振り返り、みどりの目を瞬かせる。雪華はその隣へと歩み寄ると、小さく頭を下げた。


「まだ陽連におられたのか。てっきり帰国されたものだとばかり――」


「いえ……まだ用件は山積みですから。あまり公にはされていないのですが、今度本国から我が国の大臣が来るのですよ。だから、まだまだ帰れませんね」


「シルキアの大臣が? それはまた……大変だな」


「ええ。自らお出ましになることはないと、出国前にもお話ししたのですがね……。どうも好奇心の方がまさってしまったようで」


 そう言って、碧の目を伏せて控えめに笑む。

 そういえば彼は大臣の補佐官をしているのだった。少し毒の滲む、それでも美しい笑顔に雪華は嘆息する。


「上が勝手だと、いつも下の者が苦労するな。お察しするよ」


「ありがとうございます。……でも、内密に願いますよ? まだクビにはなりたくないですから」


「承知した。……と言っても、そちらの大臣に会う機会などないとは思うが」


 肩をすくめると、ジェダイトが穏やかに笑う。彼は風になびく銀髪を手で押さえると、うっとりするような笑みを浮かべて告げた。


「また、お会いできましたね。……良かった。あなたに会えるかと思って何度か通いつめた甲斐がありました」


「え……」


 その言葉に雪華はきょとんと瞬いた。ジェダイトは、にこにこと笑みを浮かべている。からかわれたか、お世辞を言われたのかと思ったが、美形に言われると返す言葉に詰まるものがある。

 気まずく目を逸らした雪華を見やり、ジェダイトは何事もなかったかのように目を伏せると遺跡の中をすっと指し示した。


「こうしてまた会えたのも何かの縁。……少し、お話ししませんか。市井の方と話をしてみたかったんです」


「別に構わないが……」


 穏やかな笑顔に誘われ、二人はちょうど人が腰かけられる高さの石に少し間を空けて座った。足を組んで背後の岩にもたれかかると、ジェダイトが興味深げに雪華を見やる。


「なんだ? ……ああ、あなたの国では女性はこんなはしたない格好はしないのか。まあ斎でもあまりいないだろうが」


「いえ、そんなことはないですが……いいですね、それ。気持ちよさそうだ」


 それまで姿勢よく石に腰かけていたジェダイトが、どかりと背後にもたれかかる。優美な容姿をしているくせに、やけに様になる。雪華が小さく笑うとジェダイトも薄い笑みを浮かべた。


「雪華殿は、陽連の生まれですか?」


「え? ……ああ、そうだな。ずっとここにいた訳ではないけど」


「そうですか。……この国は、いいですね。気候も温暖で、農業・商業が栄えている。シルキアとの国境から入り、陽連に近付くごとに人々の活気が増していくのが肌で分かりました。大陸広しといえど、これほどの都はそうない」


「どうかな……。規模は小さくとも栄えている都はあるし、陽連や斎だって問題がないわけではないよ。まあそんなに他の都を見てきた訳じゃないけど」


「異国に行かれたことがあるのですね」


「ああ……昔、旅をしていたことがあって。シルキアに入ったことはないが、そちらの言葉はさらに西国の言葉とよく似ているとか」


「そうですね。元をたどれば同じ言語ですから、似たものも多いでしょう。斎国語はまったく系統が違うので習得が大変でしたが…」


「そうか。私たちからすれば、そちらの言葉の方が難解だ。まあ多少は分からなくもないが」


 ちらりと隣に視線をやると、褐色をした男の手が目に入った。斎国人が持ちえぬその色彩に、小さな興味が湧く。


「少し、聞いてもいいだろうか。シルキアのことなんだが、興味があって。なかなかこちらには情報が入ってこないから」


「ああ……そうでしょうね。こちらの皇帝陛下や高官の方々にも、結構色々と聞かれましたよ。食べ物は何がうまいかとか……」


 皇帝陛下というと、龍昇だ。そういえば彼は昔から、異国の話によく興味を示していた。

 皇帝となった今もそれは健在らしい。変わらぬ気性に思わず小さく笑ってしまう。


「どうかしましたか?」


「いや、失敬。……そうだな、私が一番気になるのはそちらの女性のことかな。私が、というよりは私の仕事仲間がいつも口にしているんだが……男性も滅多に国を出ることがないそうだが、女性は本当に出入りがないだろう? そちらの女性はどんな暮らしをしているんだ?」


 興味のままに、ジェダイトを覗き込んでそんな問いかけを発していた。少し虚を突かれたようなジェダイトが、またあの穏やかな笑みを顔に浮かべる。


「どんな…と言うほど変わったことはしていませんよ。働いている女性もいますし、家庭に入って子育てをしている方もいます。ただ、ご存知の通り国を出ることだけは許されておりません。奴隷身分……男の持ち物としてのみ、外国人女性の入国は許可されていますが……」


 ――奴隷制。斎にも遠い昔は存在した制度だ。

 その響きにまた興味がそそられたが、ジェダイトのわずかにかげった表情を見る限り、彼はそれにあまり良い感情を持っていないのかもしれない。それを承知で続けて尋ねる。


「あの…あまり話したくはないかもしれないが……そちらでは、奴隷身分の者はどういった扱いを受けているんだ? やっぱり肉体労働とかか」


「そうですね……おそらく、あなたがた斎の方が想像されるよりは、悲惨な状況ではないと思いますよ」


「そう…なのか?」


 意外な返答に雪華が目を瞬くと、ジェダイトはゆっくりとうなずき思慮深いまなざしをこちらに向けた。


「主人となった人間に仕えるのは当然ですが、奴隷の命は国の管轄ですので勝手に殺されたりはしません。残念ながら虐待はなくなりませんが……あまりに主人が非道ならば奴隷自身が訴えて、契約を解消してもらえます。それにもし主人に気に入られれば、教養を身に付けることもできるんですよ」


「教養を?」


「ええ。……事実、シルキアの高官の中にも奴隷身分出身の者が何人かおります。力と学と才があれば、自由身分になることも夢ではありません」


「へえ……。それは知らなかったな」


「仕方のない話です。異国にはほとんど流れることのない情報でしょうから……」


 奴隷といったら、自由のない最下級の扱いを受けている者たちだと勝手に想像していた。偏った知識に基づく、根拠のない想像を恥じる。そんな雪華にジェダイトは苦笑で応えた。


「けれどいくら自由になる可能性があると言っても、奴隷は奴隷。人が人を支配することには変わりありません。こんな制度は、早くなくなれば良いのですが……。自国のことながら、恥ずかしいものです」


 重く溜息で告げられた言葉に、雪華は返す言葉を持たなかった。

 異国の内情に首を突っ込む権利などありはしないし、自分が口を出すことでもない。ただ、こういった意見を持つ人がいるということは、シルキアという国にとって良いことではないだろうかと傍観者の立場からぼんやりと思った。


「すみません、なんだか愚痴のようなことを」


「いや、気にしないでくれ。部外者の方が言いやすいということもきっとあるだろうし。しかし、あれだな……」


「……?」


 まだ沈んだ顔をしている異国の人は、美しいがどこか寂しげだ。柄にもなく、雪華はその空気を和らげたいと思った。


「あなたの奥方は大変だな。思い悩んでいてもこれほど綺麗な男性が夫となると、目のやり場に困るだろう」


「…………。ふふっ」


 ジェダイトがきょとんと目を見開き、ついで小さくふき出した。その反応に今度が雪華が首を傾げる。彼は両手を上げて何もはめられていない指を示すと、苦笑して続けた。


「残念ですが、私はまだ結婚しておりませんよ。だから目のやり場に困られることはありません」


「そうなのか。もったいないな、モテそうなのに。あなたと結婚すれば、色々な意味で贅沢な生活が送れそうだ。毎日眼福だな」


「さあ、それはどうか……。でも、そうですね……あなたが結婚して下さると言うのなら、私も仕事に張り合いが出るのですが」


 歌うような声でそう言うと、あの美しい目で見つめてくる。雪華はそれをきょとんと受け止め、軽く想像してみた。


「私が? ……あなたの国に入国するために奴隷身分になるのは嫌だな。ああ、でもあなたの顔を毎日拝めるのならそれも悪くないかもしれない」


「そうですか? それは楽しみですね」


 互いに軽口を叩き合い、苦笑する。重い空気は解消され、二人の間にはつかの間、連帯感のような不思議な空気が流れた。


「でも……いつか女人鎖国制が廃止される日が来たら、シルキアに行ってみたいな。あちらの女性は美しいと聞く。同性でも興味はあるよ」


「ああ……それは、ただの噂ですね。それこそ根拠のない話ですよ」


「え。……なぜだ?」


 航悠をはじめとした斎の男たちの総意のような考えを一蹴されてしまった。ジェダイトはやれやれといった様子で小さく笑う。


「シルキアの女性は外出時にヴェールをかぶることを義務づけられていますから。だから男は自分の妻子や母親以外には、女性の顔を見たことがないんですよ」


「そうなのか?」


「ええ。たまに『俺は美人を何人も見た』とかホラを吹く男がいますが、そういった嘘の話が国を越えて流れてしまったのでしょうね」


「そう…なのか……。斎の男どもが聞いたら、泣くな……」


「お気持ち、お察しいたします。……もっとも、今のように義務になったのも特に理由あってのことではありませんから。我々シルキアの男も、廃止したいと願ってはいるのですが」


 同情するように苦笑で返したジェダイトが雪華の顔を一瞥いちべつする。そして瞳を閉じると、しみじみとした口調でつぶやいた。


「斎はいいですね……。女性の顔が拝み放題で」


「……ジェダ殿」


 美しいおもてにうっとりとした笑みを浮かべ、ジェダイトは遺跡を遠い目で見やった。

 どこの国の男も、考えることはそう変わらないらしい。美しい横顔を眺めながら、妙な人間臭さをその人の中に見つけられたような気がして雪華はくすりと笑ってしまった。


 いつの間にか、ゆっくりと日が暮れてきた。雪華はジェダイトの顔を振り仰ぎ、彼の予定を問う。


「その……もう少し、お話ししてもよいだろうか」


「ええ、もちろん。……そういえば、こちらの方にお聞きしたのですがここは先の皇朝の祈りの場だったそうですね」


「……ああ」


 さりげなく振られた話題に、雪華は一瞬頬を強張らせた。何気ないふりをして視線をやると、ジェダイトは変わらず穏やかな目で廃墟を眺めている。彼は遠くを見つめたまま、つぶやくように告げた。


「私はかつての姿を知りませんが、立派な場所だったのでしょうね。廃墟だけでも規模は分かります」


「建築に興味がおありか」


「ええ、まあ。どんな建物もシルキアとはずいぶん違っていますから、面白いですね。……と、祈りの場に対してこんなことを言っては斎の方に失礼か」


「気にされなくていい。どうせ信仰心は持っていないから」


「そうなのですか。まあ、個人の自由ですからね」


 ジェダイトの言葉を聞きながら、じっと廃墟を眺める。そこには乾いた風が吹くばかりで、荘厳さも尊さも感じられない。


 ――そう、神などいない。かつてはそれを信じていたこともあったが、救いなどないのだと遠い昔に思い知らされた。

 他人の信仰を否定する気持ちはさらさらないが、祈って何かが変わるのを待つよりも自分で動く方がしょうに合っている。……少なくとも、今はそう思う。


「でも、奇遇ですね。……私も信じておりませんから」


「え……?」


 ふいに耳を掠めた暗いつぶやきに、はっと顔を上げる。ジェダイトは先ほどと変わらず前を見つめたままで、雪華の方を見てはいなかった。


「目に見えぬ神を、信じられる人は幸福ですね。何かをしてくれるわけでもないだろうに」


「……っ」


 その美しい碧眼が、なぜかこちらを貫き通すような暗さを帯びているように感じられ――雪華の背筋を冷たいものが伝った。ジェダイトはぱっと表情を切り替えると、穏やかに続ける。


「まあ、信じる信じないはその人が自由に考えれば良いことですから。少なくとも、この場所自体は私も気に入っておりますし」


「あ……、ああ……」


 今しがたの表情が嘘だったかのように穏やかな笑みを再び浮かべ、ジェダイトが体を起こす。それにつられ、雪華ももたれていた岩から背を離した。

 大臣補佐官にまで上りつめるぐらいだ。穏やかに見えても、彼にも色々な事情や感情があるのだろう。先ほどのジェダイトの表情をそう捉え、そっと心に封じる。


「もうずいぶんと暗くなってしまったな。私は下りるが、あなたはどうする?」


「では私もご一緒させて下さい」


 先日と同様に、肩を並べて丘を下る。街に入ると、宮城きゅうじょうへの分かれ道で手を上げて別れた。迷いなく異国の街を歩いていく黒衣の後姿を、雪華は見えなくなるまで見送った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る