第10話 月見酒

「じゃ、オレは上がるよ。お疲れ様」


「ああ、おやすみ」


 蒼月楼に帰りつくと、だいぶ疲れた様子の飛路が手を上げて階段を上っていった。その背中を見送ると、雪華も小さく伸びをする。


(さて……私も上がるかな)


「雪華。疲れてたらいいが、寝る前に一杯やらないか」


「……? いいけど……」


 くい、と杯を傾ける仕草をして航悠が晩酌に誘う。それに雪華は深く考えずに応じることにした。

 こうして航悠が誘いをかけてくるのは別に珍しいことではない。上りかけた階段を下って酒楼の卓につこうとすると、航悠は酒瓶とさかなを持ち、二階へと足を向けた。


「部屋で飲むのか」


「いや、もっと上。屋根行こうぜ」


「屋根……?」


 すたすたと二階の廊下を素通りすると、器用に酒と肴を片手にまとめ、航悠が梯子はしごから屋根へと上った。それに続き、雪華も梯子をよじ登る。


「あ……」


 視界が開ける。暗い夜空の中央には、煌々と満月が輝いていた。


「なんか色々あったが、今日は満月だからな。たまには月見酒ってのも乙なものだろ」


「そうか……」


 そういえば、そんな時節だった。最近忙しくて夜空を眺める余裕もなかったが。ぽかんと空を見上げる雪華に、屋根の中央に陣取った航悠がその隣を指し示す。


「ま、座れよ。……まずは一杯」


「ん。……乾杯」


 軽く縁を触れ合わせ、酒を口に含む。息をつくと、とろりとした旨みが喉を流れていった。


「お疲れさん。俺も、今日のはさすがに疲れた。なんかよく分からねぇし」


「ああ……」


「最近忙しくて、あまりゆっくりできなかったな。商売繁盛はいいことだが、たまにはゆっくり遠乗りでも行きたいよなぁ……」


「そうだな。昔は馬を駆って、どこにでも行っていたものな。街も便利でいいが、海とか山とかを見たいよ」


「だな。俺も田舎の育ちだからか、たまにはああいうとこに行かないとな。息が詰まるっつーか」


「そうなのか」


 意外な思いで雪華は目を見開いた。

 この場合、驚いたのは航悠が「息が詰まる」と言ったことでもあるが、出身が田舎だったというところだ。てっきり、帝都ではないにはしても街の出身だと思っていた。


 十三年も共にいるが、実はこんな基本的なことですら雪華は航悠のことをよく知らない。

 聞かなくても、特に困りはしなかった。それに自分も聞かれたくなかったから、無意識のうちに話題を避けていたのかもしれない。


「お前、どこの出身なんだ? 斎だよな」


「この顔でシルキアとかだったら、うけるな。……斎の片田舎だ。田舎って言うほど田舎でもないが、都会って言えるほどのもんでもない」


「それってどこの――」


「ああ、海で思い出したが……なんかな、最近西の方の港にシルキアの役人がよく訪れてんだってよ。下っ端の官吏からちょっと聞いたんだが」


 ――どこの州のことだ。そう続けたかったが、切り替わった話題に興味を惹かれて雪華は航悠の横顔を仰ぎ見た。


「シルキアが? それも視察かな。でもあっちだって港は持っているだろうに」


「シルキアは国土のほとんどが内陸だからな。わずかばかりある港も、波が荒くてあまり大きな船は停泊できないって聞いたことがある。……シルキアは豊富に採れる鉱物を輸出したい。だが、その拠点となる港がない。どうやらうちの港を狙ってるって噂、本当らしいぜ。港っていうか、あの地域一帯を」


「斎の領土を? だって、友好国だろ」


「表向きはな。そんな何もかもが仲良しこよしでやってける国なんて、ありはしないさ。今日みたいな依頼がいい例だ。今の王に代替わりしてから、シルキアはかなり強硬姿勢だ。このまま押してくるようなら……いつか、戦になるかもな」


「戦に……」


 夜空に向けて暗くつぶやいた航悠の横顔を、雪華は瞬きもせず見つめた。視線を落とし、考える。斎が、戦になるかもしれない――。


 自分は一度、この国を捨てた。今の胡朝がどうなっても、はっきり言って知ったことではない。けれど、祖国の地が異国の人間に踏み荒らされるかもしれないと思うと……やはり平静ではいられなかった。


「航悠……」


「ん?」


「依頼の額面が多いのはいいことだと思うけど、できれば私は……シルキアからの依頼は受けたくない」


「…………」


 胡朝はどうなってもいい。けれど今この国で生きている人が、戦に巻き込まれるのを見るのは忍びなかった。ただでさえ陽連は十三年前の内乱で、街の一部を失っているのだ。

 自分たちの任務で得た情報がシルキアに渡り、それが小さな火種となって何かが起こらないとは限らない。だがそれをうまく伝えることができず、雪華は無言でうつむいた。


「まあ、今の状況じゃな……何が向こうさんのえさになるかも分からないしな」


「……ああ。ただ、割がいいなら私だけ任務から外してもらえればそれで――」


「いや、いいよ。別にシルキア筋にこだわる必要はまったくないしな。依頼が来ても、はじいとく」


「……悪いな」


「気にすんな。ま、俺らが沈んでも仕方ねぇがな。……暗い話をしちまったな。まぁ飲めよ雪華」


「……ああ」


 空になった雪華の杯に、航悠が酒を注いでくれる。雪華も注ぎ返すと、しばらく二人は無言で酒をあおった。

 今日は色々なことがあった。いつもよりも早く、酒が体に回り始める。

 もうそろそろお開きにしようか。そう思ったが、なんとなくもう少し話していたくなり雪華はほろ酔い気分でぽつりと口を開く。


「この前、藍良のとこにお前に頼まれて行ったが……」


「うん?」


「お前、しばらく薫風楼へ行ってないんだってな。若い子たちが嘆いてるから、たまには寄ってくれと言ってた。……まったく、何軒馴染みの店があるんだ」


「はは……悪いな」


 航悠がぽりぽりと頬を掻く。

 この男の女好きは、今に始まったことではない。それこそ昔は声をかけてくる女がいれば見境なく付き合い、あとで修羅場になることが多かった。


 最初は相手の女も割り切って付き合い始めるのだが、だんだんと女の方が熱を上げてしまうのだ。そうすると航悠は、早い段階で身を引いてしまう。

 その別れ際の修羅場に雪華が巻き込まれたことも一度や二度ではないが、さすがに航悠も懲りたのか、ここ数年は金銭で割り切れる玄人くろうとの女としか関係をもっていないようだった。


「……節操なし」


「そりゃ誤解だ。向こうが声かけてきたら、丁重に頂かせていただくのが礼儀だろ。それに男が助平じゃなくなったらこの世は終わりだ」


「お前一人不能になっても、世界は困らないよ」


「ひでえな、おい」


 まったく悪びれずに航悠が苦笑する。その横顔は野性的だが、客観的に見ればたしかに美男の部類に入るのだろう。女たちが熱を上げるのも、分からなくはない。


「藍良とも……」


「うん?」


「藍良とも、寝たのか」


 酔いが回ったのか、気付けばそんなことを問いかけていた。

 航悠が少し目を見開く。その視線に、雪華ははっと我に返った。


「……気になるか?」


「いや、別に……。なんとなく聞いてみただけだ」


 口ではそう言いながら、雪華は内心で困惑した。

 藍良は妓女だ。航悠と知り合ったということは、仕事場で出会ったと考えるのが当然だろう。なぜ、そんなことを聞いてしまったのだろうか。


「……寝てねぇよ」


「え……」


「あいつとは、寝てない。たしかにそそられるいい女だが……お前の友人だろ。さすがにそれはちょっとな」


「…………」


 なぜか――安堵した。何に対して安堵したのかは、よく分からない。

 航悠は低く笑むと、杯を飲み干す。その光景を何杯分か眺めていると、急速にまぶたが下がっていくのを感じた。


「――雪華。……おい、雪華」


「…………」


 ――眠たい。いいから放っておけ。

 眠りに沈むその淵で、そう返答したつもりだった。支えを失った体が、がくりと横に揺れる。


「うおっ…、と……。……ったく、しょうがねぇな」


 雪華の頭は、筋肉に覆われた男の肩に受け止められた。ごつごつとしたそれは、快適な枕になるとは決して言えない。……それでも、温かい。


「おーい、こんなとこで寝たら風邪引くぞー。……って駄目だなこりゃ、熟睡してやがる。……仕方ねぇなあ」


 そのつぶやきが耳に届いたのを最後に、雪華の意識は闇に沈んだ。



 そして翌朝――当然のように自分の寝台で目覚めた雪華は、寝落ちした体をここまで運んできた男といつも通りの一日を始めたのだった。



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