第5話 失われた過去

 ――暗い回廊を、小さな足が駆ける。


『かあさま…! にいさま……!』


 幼い雪華は――いや、皇女香紗は怖い夢を見ていた。


 目覚めても、そばには誰もいない。寝室に一人きりということを自覚して、さらに恐怖が湧きあがる。

 たまらず回廊へ飛び出すと、今度は闇に沈む朱塗りの柱たちに言いようのない不安を感じ、泣きじゃくりながら走り始めた。


『とうさま…! そうしょうぐん……!!』


 今宵は宴が開かれている。子供の自分は早く寝かせられたけれど、広間に行けばまだみんなが残っているはず。

 知っている限りの人の名を叫びながら、暗い道を行く。なのにこんな日に限って、みな出払っているのか誰にもすれ違わない。


『りゅうしょう……。りゅうしょお……』


 香紗はいつしか、最も親しい友達にして最も信頼を寄せている少し年上の少年の名を呼んでいた。


 闇はだんだんと濃くなっていく。回廊の端までたどり着き、とうとう香紗はその先へと進めなくなってしまった。

 足元には下階へと続く階段がある。けれどそこはあまりに暗くて足を踏み出せない。立ちすくんだ香紗の手を引くように、背後から鋭い声がかけられた。


『姫…!』


『……!』


 呼び止めた声は、高く澄んだ少年のもの。けれどそのときの香紗には、それは天からの助けのように思えた。


『りゅうしょう…!』


『姫、こちらでしたか…! 外朝まで女官が探し回っていましたよ。香紗姫がいなくなったと。勝手に出歩いては駄目です…!』


 暗がりから現れたのは、自分と五つも違わない少年だった。大人びた表情で香紗を叱る彼は息を切らしている。


『父上と帰ろうとしたら、女官の声が聞こえてきて……内朝に入っては駄目だと言われたけど、もしかしたらって思って。とにかく、見つかって良かった……!』


 小さな体に見合わぬしっかりとした口調で語った少年が、まだ幼い手を香紗に差し出す。その手を取ると、伝わるぬくもりに止まった涙がまた溢れ出した。


『りゅ…りゅうしょう……っ』


『な……姫、どうしましたか…!?』


『こっ…、こわいゆめ、見て……! みんな、このおしろからいなくなっちゃうの…! わたし、一人ぼっちでのこされて……まっくらな中で、一人で立っているの……!』


『…………』


 子供の夢は、得てしてそういうものだ。本能的な恐怖を夢の中で体験することも多い。

 大人ならば内心で笑ってしまうようなそれを、少年は極めて真面目な表情で聞いていた。そして香紗の嗚咽おえつがやむまで待ってくれる。


『……大丈夫ですよ、姫。いなくなったりしません。おれと一緒にお部屋まで戻りましょう。そうしたら今度は女官がついてくれます。何も怖いことなんてありませんよ』


『ほんとうに……?』


 自分よりも少し年長の少年の言葉に、そのときの香紗は絶大な信頼を寄せていた。

 探るように見上げると、少年がしっかりと頷く。急速に胸に安堵が広がり、幼い香紗はようやく泣きやんだ。


『りゅうしょうは、えらいのね。わたしとそんなに変わらないのに……ずっと、えらいわ』


 手を引かれて回廊を戻りながら、かすかな憧憬を込めて少年を見上げる。香紗の言葉に少年は少しだけ赤くなり、ついでぶんと首を振った。


『そんなことはないですよ。おれだって父上について遊びに来ただけだし。仕事ができるようになるには、まだまだ歳も頭も足りない』


『そうなの……? じゃあ、雪華が大人になるころにはいっしょにお仕事、できる?』


『……雪華?』


『あっ……』


 ――いけない。皇族の愛称は、そうそう他人に言いふらしてはいけないものだった。いつか母上がそう言っていたことを思い出す。


(でも、りゅうしょうなら……)


 香紗はもじもじと唇を動かすと、意を決したように小さく口を開いた。


『あの、ね……わたしの、もう一つの名前……なの。ほんとうは言っちゃダメって言われてるんだけど……。お、おかしくないかな?』


『香紗姫の……』


 少年が「雪華」と小さくつぶやく。香紗はなんとなく恥ずかしい気持ちになり、繋がれた手を慌ててぶんぶんと振った。


『あのっ! あの……みんなには……』


『大丈夫、言いませんよ。でも……』


 萎んだ言葉尻をくみ取り、少年が笑ってくれる。そうこうするうちに部屋に近付き、少年はそっと顔を寄せると香紗に耳打ちした。


『すごく綺麗な名前だから、二人きりのときはおれも呼んでいいですか――』




「…………」


 白くまぶたを射す光に誘われ、香紗――いや、雪華は覚醒した。しばらく寝台でぼうっとしたあとに、頭を押さえて起き上がる。

 ……最悪な夢を見てしまった。


「また、ずいぶんと古い……」


 白くおぼろがかかったようでも、その内容をはっきりと覚えている。

 遠い遠い昔の……もう戻らない過去にあった、現実の出来事だった。


(昨日あいつに会ったから、懐かしんだのか? ……いや、そんなはずはない)


 自分でも意図せずに過去が呼び起こされたことに、かすかな苛立ちを感じる。ひやりと冷えはじめた床に足を下ろすと、雪華は重い息を吐き出し苦い笑みを唇に刻んだ。


「それにしても――可愛くないガキだったな、あいつ……」



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