第4話 突然の来訪

 それから一週間後――嵐は、突然のようにやってきた。


「ああ雪華。なんか表に、お前に会いたいって男が来てるんだが」


「私に? ……誰だ?」


 曇り空の昼下がり。薫風楼の廊下で声をかけてきたのは、組織内で三番手の松雲だった。穏やかな目をした男は小さく首を傾げる。


「さあ。一応航悠が見てきて、怪しい奴じゃなかったとは言ってたけどな。会いたくなかったら、俺が断ってくるが」


「いや、見てみないと分からないし……。行ってくるよ、ありがとう」


「男を振るなら後腐れのないようにしろよ。はっきり言ってやるのも優しさだぞ」


「航悠じゃあるまいし、そうそうあることじゃないって……」


 温厚な男の笑えない冗談に呆れた視線を向けつつ、首をひねる。……まったく心当たりがない。

 たまに雪華を名指しして仕事を持ち込んでくる依頼人もいなくはなかったが、それらはすべて航悠か松雲を通してから紹介された。


 どうやら仕事がらみではないようだ。だがこの街に男の知己はほとんどいない。

 また勘違いした男が迫ってきたりしたら嫌だな……などと考えながら、とりあえず一階へ下りてみる。


「……?」


 昼間のがらんとした酒楼を抜け、扉を押し開ける。だがそこにいると思われた来訪者の姿が見えない。


「――二つだか三つだか通り行ったところだ。名は名乗らなかったが、お前の知り合いみたいだぜ」


「……航悠? お前、また昼から飲んでるのか」


「飲んでねぇよ。上が掃除入るっつーから避難してきただけ」


 きょとんと瞬きした雪華に声をかけたのは、暗がりの卓に腰かけた航悠だった。表に出た雪華からその姿は見えない。

 面倒くさそうな声音にそれ以上の質問を浴びせるのも気が引けて、「わかった」とだけつぶやくと雪華は蒼月楼をあとにした。


「……なんで来てんだ、あの男。わけ分かんねぇ………」



 夜に輝きを誇る分、昼間の花街は店の大半が閉まっておりどこか寂しい空気が漂う。人気のない通りを、雪華はゆっくりと歩いた。


(通りを二つか三つ……。あれか?)


 路地に潜むように、白っぽい外套をかぶった姿の男がいる。

 ……まだ、顔は見えない。素性を隠すように頭から布をまとった男はどう見ても尋常な雰囲気ではなく、正直声をかけたくない。躊躇して足が止まってしまった雪華に気付いたのか、男が顔を上げる。


「……? ――ッ!!」


 なんの変哲もない旗袍チーパオに身を包んだ若い男――その姿に、心臓が止まるかと思った。

 振り向いた男の顔は、このひと月忘れたくても忘れられなかったものだ。


 斎国皇帝、胡龍昇――

 思ってもみなかった人物の来訪に、雪華は目を見開き……そして次の瞬間、逃げ出した。


「っ! ……香紗こうさ姫! 待って下さい!」


「……!」


 踵を返した雪華に龍昇が叫ぶ。雪華は一瞬肩を波立たせると、その動揺を隠すようにまた強く踏み出した。角を曲がり、別の路地へと逃げ込む。


「お待ちください……!」


 路地を駆ける雪華を龍昇が追ってくる。大声で呼び止められ、表通りにいた数人がこちらを怪訝に振り向いた。雪華は舌打ちすると、より人気のない通りに入り後続する龍昇を待ち伏せる。


「香紗ひ――。……ああ、良かった……」


「…………」


 角を曲がった龍昇が、立ち止まった雪華を見てほっとしたように息をつく。

 雪華は警戒を露わにすると、怯えたように両腕を体に回した。声色を変えて高く叫ぶ。


「なんなんですか、急に追いかけてきて! 人違いじゃないですか…!?」


「え…?」


「私、姫なんて呼ばれる身分じゃありません! なんだか知らないけど、追ってこないで下さい…!」


 いつもならしないような口調で、怯えと哀願を声音に乗せて。初対面の男に追われる無関係の女を雪華は演じた。

 こんな所で気付かれるわけにはいかない。龍昇と再会するなんて出来事は、自分の人生にあってはならない。


 虚を突かれたような龍昇をもう一度睨むと、雪華は肩を怒らせて路地を出ようとした。心のどこかに生まれた、後ろ髪を引かれる想いを断ち切って。――だが。


「違う……。あなたは、香紗姫だ。間違えるはずがない…!」


「……っ」


 歩き出した雪華にかけられた、迷いのない声。その強さに、足がすくんで止まった。


「あなたをずっと、探していたんです。――香紗姫」


「…………」


 立ち止まってしまった自分は……愚かだ。もう、否定もできない。

 天を仰ぐように目を閉じると、雪華は覚悟を決めてゆっくりと振り返った。


「…………」


 腕一本。……吐息をもらせば吹きかかりそうな距離に、その男はいた。龍昇は雪華の顔を見つめ、感極まったように溜息をもらす。


 ふと鼻先に、何か清浄な香りが漂った。男が衣に焚きしめた香だろうか。伽羅きゃらの清々しい香りにわずかに混じるのは――かつて暮らした場所の匂い。

 目を合わせたくないという理性の声を裏切り、雪華の視線は無意識のうちにその男の顔を追っていた。


「姫……」


 掠れた声は、耳を心地よく揺らす低音。昔、毎日のように聞いていた高く澄んだ声はもうない。

 黒い髪、黒い目。それはあの頃のままだったが、見上げる角度がまるで違う。精悍な顔に刻まれた年月が、そのまま別れからの時間を表していた。


「香紗姫」


 龍昇が、かつての名を呼ぶ。その音が心の底を揺さぶった。

 けれどもう――それは自分の名ではない。


「……何か用か」


「え――」


「皇帝がこんな場所まで直々に……何か用かと聞いている。こちらには用はない。話すこともない。よって、解放してほしいのだが」


「……姫……」


 素の口調で告げると、龍昇の表情がわずかに揺れた。初対面で雪華の男言葉を聞き、たじろぐ輩は想像以上に多い。それが知己ともなれば尚更なのだろう。

 もうあの頃とは違う。それを示すように、殊更に冷えた口調で続ける。


「答えられないのか? ……ふぅ、斎国皇帝というのはよほど暇な位であると見える。そんなに暇なら誰かに代わらせたらどうだ?」


「……っ。違う、今日は公務で来たのではありません。俺が私的に、あなたを探しに来たんです」


 弾かれたように龍昇が答えた。

 生真面目なやや硬めの口調。それは子供の頃からだ。だがそれを懐かしく思う余裕は今の雪華にはない。


「この前、街に出たときに……あなたを見かけました。まさかと思ったけれど、その後もどうしても気になって……このひと月、探していました。……見つけられて良かった」


「……っ」


 まさか、あの一瞬でこの男がそんなことをしてくるとは夢にも思わなかった。気にかけてはいても、まったく気付かなかった。

 己のうかつさに舌を打つ。その苛立ちを隠すこともせず、雪華は低く告げた。


「良かった? なにが? ……とりあえず、敬語をやめてもらおうか。誰かに聞かれたら困るのはこっちだ」


「……あ、ああ……。すみませ――。いや、すまない」


 龍昇がはっとしたように言葉を正す。その様を見て、雪華は重い溜息をついた。


「しくじったな……。皇帝がそんなに暇とは思わなかったよ。……ああ、違うか。いくらでも動かせる駒はいるものな。造作もないことか」


「軍を動かしたりはしていま――していない。ただ、少し……調べさせてはもらったが」


 彼の持つ権力を思い、皮肉な笑みを浮かべると龍昇は眉を寄せて首を振った。だがためらいがちに付け足された言葉に、雪華の目は冷たく凍る。


「そういうのを、なんと言うか知っているか? おおむね変質者とか言うんだが」


「…………」


 返す言葉に詰まったのか、龍昇が黙り込む。雪華は鼻を鳴らすと男から距離を取り、腰に下げた短剣のつかに手をかけた。


「それで? 今さら見つけた先の皇女様を、あんたはどうするつもりだ?」


「どう……とは」


「反乱の種と疑って殺すか? それとも捕らえて見せしめにするか? ……今の私はもう姫などではない。胡朝と関わろうなんて気はこれっぽっちもないが、それが許されぬのなら――そうだな。今ここで、あんたを殺すしかないかな」


 傲然と顎を逸らすと、柄をはじきわざと金属音を響かせた。呆けた表情を浮かべた龍昇が、我に返ったように目を見開く。


「な――、馬鹿な。そんなことをしに来たんじゃない…!」


「…………」


「あなたを傷付けようなどと、俺こそこれほども思っていない。あなたが言ったように、すでに朝廷とも関わりなき身。そんなことをするはずがない…!」


 眉を歪め、龍昇が叫んだ。今までかろうじてひそめていた声音が崩れるほどに、強く。


 ……昔から変わらない。龍昇は、嘘がつけない。

 さすがに長じた今はそんなこともないのだろうが、今このとき自分には真実を語っているのだと雪華はなぜか確信してしまった。そのことに自分でも得体のしれない焦燥と困惑を抱く。


 このまっすぐな男は、馬鹿のように真実だけを口にする。雪華は目を閉じると、胸に溜まった重みを吐き出すように溜息をついた。


「じゃあ……何をしに来た……」


 ――分からない。この男の考えることが分からない。

 ……違う、分かりたくない。とっさに閃いたある仮定を雪華は必死に否定した。そんなこと、あるはずがない――!


「あなたに……会いたくて。もしかしたらあなたかもしれないと思ったら、居ても立ってもいられなくて……探してしまった」


「……っ」


 それは、雪華が最も望んでいなかった答えだった。先の皇帝の血筋はすべて絶やすとか言ってくれた方が、まだ理解ができた。

 こんな再会は――望んでいなかった。


「私は……会いたくなかった」


「……っ。そう…だろうな……」


「当たり前だ…!」


 自分でも予期せず、喉から怒声がほとばしった。もう消えたと思っていた暗い炎が腹の底でうごめく。


 記憶が呼び覚まされる。それは、十三年前の暗く熱い夜の出来事だ。

 幸福に、ただ無知に生きていた皇女としての自分が死んだ夜のこと。そして、自分の家族がすべて死んだ夜のことだ。


「あんたたち胡朝がしたことを、忘れられたと思うのか…!? 復讐しようなんてこれっぽっちも思ってない。あんたら胡朝がどうなろうと、今の私にはまったく関係がない。それでも、思い出したくはないんだよ…!」


「……っ」


 気付けば龍昇をなじっていた。はっと我に返り、周囲の気配を探る。

 もしかしたら従者か何かがいるのかもしれない。皇帝にこんなことをすれば、ただでは済まされない。だが自分たち以外には人の気配はなく、雪華は詰めていた息を吐き出した。


「なんで、今さら……現れたりするんだ………」


「…………」


 龍昇は、雪華の罵声をただ黙って聞いていた。

 ……なぜこんなにも昂ぶってしまったのだろう。こんな気持ちは、とうに乗り越え忘れ去ったと思っていたのに。感情を乱され叫んでしまった気まずさに、雪華はうつむき口を引き結んだ。


「香紗姫……」


「やめろ……。その名は捨てた。この国も捨てた。朱家の姫など……もうどこにもいない」


「しかし……今の名を俺は知らない。なんとお呼びすればいい?」


 弁明も質問への答えも発することなく、龍昇は話を切り替えた。

 雪華としても感情をあらわにした失態を早く忘れてほしかったため助かるが、続いての龍昇の問いに再び口を閉ざす。


「調べたなら……知っているだろう」


「それは報告でしかない。俺は、あなたから聞きたい。あなたの今の名を」


「…………」


「姫」


 雪華を促すように、龍昇が低くささやく。その特別な呼称をもっと聞いていたいと、ふいに思った。だが即座にそれを否定する。

 そう呼ぶことは、すでに許されない。立場も……心情も。


 雪華は肺に溜まった息を長く吐き出すと、空気に溶けるぎりぎりの声量でつぶやいた。


「……雪華。……李雪華」


「ああ、やっぱり……。その名を使っていたのか」


 龍昇が、強張っていた頬をふわりと和らげる。それを見て雪華は逆に顔を背けた。


 ――雪華。その名は、何もないところから付け直したものではなかった。

 かつての真名は朱香紗しゅ こうさ。だが皇族、とりわけ皇子や皇女には、これとは別に愛称というものが存在する。

 真名はあくまでも公の名前。身内の者が子を呼ぶのには、愛称が用いられることが多かった。皇女香紗の場合、それが「雪華」だった。


 家族しか知りえない皇族の愛称を、龍昇は知っていた。それはかつて、彼と雪華がいかに近しい間柄だったのかをそのまま示す。

 過去の関係を思い起こされ、また過去を捨てきれなかった自分を指摘されたようで、雪華は渋面を浮かべて顔を背ける。


「雪華姫」


 ぎこちないほどに懐かしい音を確かめるように、龍昇がつぶやく。思いのほか柔らかい声音に、雪華は内心で戸惑った。


「やめろ。だから姫ではない。……こんなことになるのなら、違う名を名乗れば良かった」


「俺は、あなたがこの名を使ってくれていて良かった。この名前でなければ、きっと気付けないままだった。……ありがとう」


 龍昇がまぶしげに目を細めた。その顔を直視してしまい、息を詰める。


「……何に対して礼を言っているか、分からんな」


「何に対しても。あなたにまた会うことができた。そのすべての偶然に、礼を言いたい気分だ」


「……っ、馬鹿か……」


 さらりと言ってのけた龍昇に唖然とした。それを誤魔化すように罵声を付け足す。だが思ったよりも弱々しい口調になってしまい、雪華は再び戸惑った。

 ……こいつ、こんな奴だっただろうか。もっと真面目一辺倒な性格だった気がするが。


「雪華様」


「だから、尊称を付けるなと…! 誰かに聞かれたらどうする」


「では雪華」


「……っ」


「……と、お呼びしてよろしいのか」


 ――そんなことは、言っていない。

 だがそうなるように誘導したのは、他ならぬ自分だ。どこか楽しげな笑みで龍昇が続ける。


「雪華。……また、この名を口にできる日が来るとは思わなかった」


「じゃあ今日を限りにしてくれ。……気安く呼ぶな」


「…………」


 感慨深く告げた男に冷たく返すと、龍昇は途端に顔を曇らせた。その落差に何か自分が悪いことをしてしまったような心持ちにさせられる。

 そんな心情などいざ知らず、龍昇は翳った顔を上げると真正面から雪華を見つめた。


「また……来てもいいだろうか」


「断る」


 予想外のその言葉に、即答していた。口に出したあとに動揺が生まれる。……なぜ、こいつはこんなことを言うのだろう。


「会いたくなかったとさっき言わなかったか? これが最初で最後だ。私が何かしでかす前に、私の前から立ち去ってくれ」


 心に湧いた動揺を押し殺すように、ごく冷えた声で告げる。龍昇は再び暗い顔で思案したが、やがて瞳を上げるとゆっくりと首を振った。


「……また、来る」


「…………。な――」


 その言葉を最後に、龍昇が身をひるがえす。目を見開いた雪華には構わず、龍昇は路地の出口に向けて歩き始めてしまった。


「待て……! そんな、勝手な――私は会いたくなどない……!」


「…………」


 硬く強張った背は、振り返ることなくとうとう路地から出て行ってしまった。雪華はその場に立ちすくんだまま、瞬きすらせずその影を見送った。


「な……」


(――なんだ。なんなんだ。一体何を考えている、あいつは…!)


「……なんで……」


 会いたくなどない。思い出したくはない。関わりたくない。

 そう思う一方で、今日の再会を心から憎んではいない……否、どこかで喜んでいる自分がいた。


 そんな自分が分からず、龍昇の真意が分からず、雪華は呆然とその場に立ちつくした。



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