若狐、計略を練り打ち負かす ※暴力描写あり

「あははははっ。どうしたのよ混ざり者のクソギツネの王子様! 最初の威勢の良さは何処へ行ったのよ! こんなんじゃあ全然手ごたえも何もないわね」

「ぐうっ!」


 何度目かの哄笑と共に、打撃と共に視界がブレる。平手だか拳だか定かではないが、ともかく殴られた事には変わりはない。鉤爪によって切り裂かれた訳ではない事は、頬の表面から流血がない事だけでかろうじて判った。

 とはいえ口の中は切れてしまったらしい。口の中に溜まった血の味が気持ち悪くて、思わず吐き捨てた。行儀の悪い、いっそ下品な行為だと思うような余裕は今の源吾郎にはない。


 妖術をことごとく封じる術を持つ亜孤姫あこひめを前に、源吾郎は苦戦していた。それはやはり、肉弾戦にもつれ込んだためである。

 源吾郎が肉弾戦を得意としないという点もあるにはある。しかしそれと共に、亜孤姫が妙に肉弾戦に慣れているという事も大きかった。

 亜孤姫の話を聞く限りでは、食屍鬼グールとは腐肉や死肉、あるいは汚物や残飯などを糧とするある種のスカベンジャーであるらしい。しかしそれでも、生身の動物を狩るための技能を持ち合わせているようだ。

 その事は、源吾郎に対して容赦なく、そして的確に振るわれる爪と拳からしても明らかだ。とはいえ源吾郎が未だに仕留められていないのは、亜孤姫が狩人として劣っているからではなく、また源吾郎が優れた戦士であるからでもない。

 すぐには仕留めずに、苦しむさまを見てみたい。亜孤姫の中にそんな考えがあるからこそ、さっさと源吾郎に止めを刺さずにいるらしかった。

 実に悪趣味な考えではある。だがその考えは慢心から生まれており、それ故に付け入る隙をもたらす可能性もある。そんな風に、源吾郎は考え始めていた。

 だが、どうやって手練れと思しき亜孤姫の虚を突けば良いのか。その糸口は中々見つかりそうになかった。

――と、にわかに発生した突風が、山鳥女郎の屋敷の庭を通り抜けていった。

 この突風に運ばれた枯れ葉が、奇しくも亜孤姫の額に当たったのである。


「うわっ。ちょっと、何よこれは……」


 源吾郎を抑え込んでいた亜孤姫の注意がにわかに逸れた。そしてその一瞬を、源吾郎は見逃さなかった。

 隠し持っていた護符を発動させ、光を放った。殺傷能力も何もない、ただの光である。強いて言えば、懐中電灯の倍ほどの明るさを具えている程度であろうか。ともあれ亜孤姫の目が眩んでいるうちに、源吾郎は彼女から距離を取った。

 思いがけぬほどあっさりと、亜孤姫から距離を取る事が出来てしまった。これまでの取っ組み合いが何だったのかと思えてしまうほどに。というのも、光に目が眩んだ亜孤姫は、慌てた様子で両目を手で覆ったためである。

 食屍鬼というのは、もしかしたら強い光に弱いのかもしれない。源吾郎はそんな事をふと思っていた。

 いずれにしても、幻術の類が効力を発揮した事、それを確認できた事は僥倖だった。亜孤姫にぶつかるような術ではなかったためなのか、亜孤姫の持つ宝玉も、幻術の無効化までは出来なかったのか、その辺りははっきりしないが。

 ともあれ形勢逆転が出来そうだ。距離を置きながら、源吾郎はほくそ笑んでいた。


――生意気な狐を取り逃がしてしまったか

 眩んでいた視界が元に戻った所で、亜孤姫は今の状況を把握する事が出来た。島崎源吾郎とかいう生意気な仔狐と闘い、半ばいたぶって遊んでいた所だったのだが、ふいに周囲が眩しくなり、たまらなくなって目を両手で覆ってしまった。暗がりでも僅かな光で周囲を把握できる、食屍鬼のある種の目の良さが仇になった。食屍鬼たちが地下道で暮らすのは、何も彼らが陰気な日陰者だからではない。光の溢れる地上は、あるいは太陽が照り付ける日中は、彼らにとって刺激が強すぎるのだ。そしてそれは、深海ヨリ来ル者を祖父に持つ亜孤姫も例外ではなかった。

 食屍鬼としての特性の忌々しさに舌打ちしつつ、亜孤姫は周囲を見渡した。

 構成員による戦いは、ほぼほぼ終息しかけている――こちら側の軍勢の大敗という形で。

 負け戦だという事はとうに気付いていた。しかしだからこそ、亜孤姫は闘志を燃やしていた。食屍鬼の王だった曾祖父、そして深海ヨリ来ル者だった祖父。先祖の威信にかけて、自分が優れた存在である事を知らしめるのだ。私は他の連中とは違うのだ。怠惰で享楽的な食屍鬼たちとも、犬猫畜生共に易々と殺されるような間抜けな異形連中とも。

 その事を知らしめるには、やはりあの仔狐を殺し、八つ裂きにするほかないのだ。そんな風に、亜孤姫は論理だって考えていたのだ。

 源吾郎の姿はすぐに見つけ出す事が出来た。あの仔狐は、亜孤姫からわずか数メートルほど離れた場所にいた。ぼんやりとした様子でうろうろしているが、その手には木の棒らしきものを携えていた。

 武器のつもりなのだろうが、相当お粗末な武器と言う他ない。食屍鬼たちであったとしても、石の刃を括りつけた槍を、必要とあらば使うのだから。もっとも、食屍鬼の肉体には生まれつき武器が具わっている。ばねのようにしなる全身の筋肉に、鋭い鉤爪や硬い蹄。普通の獲物を狩る時には、それだけで十分だ。

 亜孤姫は、源吾郎めがけて躍りかかった。今回はもう遊びなどではない。一撃で仕留める。一度の跳躍で距離を詰め、首筋を狙って爪を振るった。流石の食屍鬼であっても、爪の一撃だけで、人間や獣の首を落とす事は難しい。だがそれでも、何処をどう攻撃すれば致命傷になるのか、より多くの血を流すに至るかは知っている。

 食屍鬼は確かに死肉や腐肉を好む。しかしそれは、墓を暴いて骸を喰らうだとか、運悪くロードキルされた亡骸をついばむだけという訳ではない。新鮮な肉を熟成させる事も往々にしてあるためだ。そして新鮮な肉を得るためには、おのずから狩りをせねばならないのだから。


「……!?」


 亜孤姫は違和感を覚え、首を捻った。仔狐の首を切り裂いていたはずの一撃は、空を切っただけだった。のみならず、仔狐の姿も見当たらないではないか。

 相手が攻撃に気付き、とっさに回避したとは考えられなかった。源吾郎という仔狐が、他の畜生たちに較べて鈍重極まりない事は、先程までの取っ組み合いで十分に把握していた。

 そもそも、亜孤姫の攻撃を回避できるほどの機敏さを具えているのであれば、一方的にいたぶられ続けなどはしないであろう。

 数秒に満たぬ短い間にあれこれと考えを巡らせていた亜孤姫は、今一度源吾郎がいた所に視線を落とした。


「これは……?」


 そこには、木でできた人型の札と、源吾郎が持っていた木の棒が転がっているだけだった。木人形にはべっとりと血が擦り付けられており、それが強烈な匂いを放っていた。もちろん、源吾郎自身の血である事は匂いで解っていた。

 変わり身の術というやつだな。文字通り狐につままれた顔になった亜孤姫は、そのまま静かに歯噛みした。化けギツネは単なる畜生ではなく、奇怪な術を行使する事でも有名ではないか。あの非力な仔狐は、キツネビやら結界やらを使っていたようだが、それ以外の術もあったというのか。

 と、視界の端で、またしても眩い光が迸った。狐火の焔だった。少し離れた所には、あの仔狐の姿もあった。


「馬鹿ね」


 亜孤姫は歯を見せて笑い――しかし飛びかかろうかと迷っていた。あの仔狐もまた、本体ではなくまやかしなのではないか。そんな疑念が頭をよぎっていた。

 だから彼女は、仔狐がにたりと笑うのをただただ眺めるだけだった。何故彼が笑ったのかは解らない。そこまで考えを巡らせるまでに、後頭部に強い衝撃を受けていたからだ。殴られた。亜孤姫はその考えを最後に、意識を手放したのだ。


「いやはや島崎よ。何処で何をしているのかと思っていたが……大技で相手を仕留めるとはなぁ」

「いえいえ、大技というよりも、そうでもしなければ仕留められなかっただけなので……」


 褐色の二尾の妖狐に言われ、源吾郎は照れくさそうに頭を掻いた。亜孤姫に殴られ、引っかかれた痕が思い出したように痛み、疼く。しかしここで痛い痛いと騒いでもどうにもならぬ事は解っていた。何よりまだ仕上げをせねばならないのだから。

 二人の視線の先にあるのは、倒木とその下に挟まるようにして倒れている食屍鬼の女だった。もう動きも暴れもしないが、背中が上下しているので死んではいないようだ。

 亜孤姫の所持する宝玉は妖術による作用を無効化するが、物理的な攻撃まで無効化するわけではない。また、妖術の無効化は彼女に直接触れた物に限定されている。その事に気付いたからこそ、源吾郎はどうにか亜孤姫を打ち負かす事が出来たのだ。すなわち、幻術でもって自身の分身を囮とし、狐火で木を倒して亜孤姫にぶつける。これこそが、亜孤姫を打ち負かした全容だった。

 亜孤姫はまた、闘うにあたって周囲に結界か認識阻害の術を行使していたのだろう。闘っている最中に他の者たちの姿が見当たらず、今になってからこうして他の妖狐がやって来たのもそのためであるらしかった。

 源吾郎のつたない説明を聞いていた妖狐は、長い鼻面を亜孤姫の指先に向けつつ告げた。


「こいつもまだ息があるみたいだし、島崎の話が本当ならば、こいつの持っている宝玉とやらに上層部も興味を示すだろう。とりあえず、生け捕りにして逃げないようにしておくんだな。縛妖索を持っているのならそれを使うと良い」

「縛妖索で大丈夫でしょうか? 彼女の宝玉は、先程も申しました通り妖術を無効化するようですが……」


 おずおずと問う源吾郎に対し、妖狐は鼻を鳴らしながら笑った。狐の笑顔と言えども、鼻面に皺が寄り、歯を剥き出しにしているので妙に凄味のある笑い顔である。


「縛妖索には妖術が籠ってはいるが、それでも縄である事には変わりはないだろう? よしんば縛妖索の術が無効化されようとも、物理的に縛られているのならば、縄抜け術を知っていない限り手も足も出んだろう」


 妖狐はそこまで言うと、やにわに人型に変化した。迷彩柄の戦闘服を着込んだ、筋骨逞しい青年の姿である。


「縛り方は俺が教えてやる。島崎も俺のやり方を見て覚えておくんだな」


 源吾郎は素直に頷くと、懐から縛妖索を取り出し、妖狐の青年に手渡したのだった。

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