金色の妖狐、灰色の食屍鬼
夜鷹を粉微塵にせんと放った狐火たちが、源吾郎に向かって牙を剥いている。この状況下に、源吾郎は一瞬硬直してしまった。結界術をおのれに展開すれば良いだけの話だったのかもしれない。だが一瞬と言えど迷ってしまった。それが、源吾郎の思考と反応を鈍らせる事になってしまった。
視界の端で、黄金色の太い線が、二筋ばかりきらめくのが見えた。
次の瞬間、源吾郎の胸元に何かが勢いよくぶつかってきた。思っていたような痛みはない。あるいは痛みが強すぎて、感覚を遮断してしまっただけなのだろうか。
ぶつかってきたものは、夜鷹によって弾かれた狐火では無かった。狐火は既に消えていた。磁石が引き合うように狐火同士が寄り集まり、それで爆発したのだ。爆発の中心は、もちろん源吾郎が先程までいた場所である。
そうした狐火の爆発が、源吾郎にはコマ送りのように見えていた。ぶつかった何かによって仰向けに押し倒されている最中だったから、普通に立って眺めるのとは異なっていたとしてもだ。後頭部をぶつける事は無かった。背後にある四尾が半ば反射的に動き、受け身を取ったのと同じような状態になったからだ。
源吾郎は、それからおのれの状況を把握した。おのれに躍りかかってきたのは一匹の狐だった。単なる妖狐ではない。オレンジがかった金色の毛皮を持つ女妖狐・米田玲香その
彼女の、暗い金色の瞳と目が合う。獲物を狩る時のように険しい顔をしていて、源吾郎は思わず怯んだ。だが彼女も源吾郎と目が合っている事に気付くと、その表情が目まぐるしく変わった。何故か一瞬哀しそうな表情になり、それから安堵の笑みを漏らしたのだ。
「本当に、本当に危なかったわ。だけど良かった。今度こそ、今度こそ助ける事が出来たんですから」
「米田、さん……?」
源吾郎は目を見開き、米田さんの姿をまじまじと眺めていた。彼女がここにいる事に驚いてしまったのだ。だがすぐに、傭兵という職に就いているのだから、今回の戦争に駆り出されていてもおかしくはないと思い直したが。しかも米田さんは、雉鶏精一派に属さないものの多少の交流があるのだから尚更だ。
源吾郎が少し落ち着いた事に気付いたのだろう。脇に飛びのいていた米田さんが、半歩ほど源吾郎に近付いた。彼女の優美に伸びた鼻面は、さも当然のように源吾郎の二の腕あたりに触れていた。
「いいこと島崎君。狙うなら鳥妖怪たちじゃあなくて、深海ヨリ来ル者たちのような信者たちを狙うのよ。あの鳥妖怪たちは強いわ。だから私たちは、狩りやすい雑兵の方を仕留めるのに専念するのよ」
「そ、そうだぞ島崎源吾郎!」
諭すような米田さんの言葉の後に、野太い声で源吾郎は名を呼ばれた。黄金色の二尾の妖狐が一匹、四肢を突っ張らせてそこに佇んでいるのが視界に飛び込んでくる。
こちらの妖狐も誰なのか知っている。白川先輩だった。萩尾丸の部下であり、研究センターによく派遣される事があり――そして、米田さんに想いを寄せていた男狐だった。
「いくら不意打ちと言えども、俺らじゃあ八頭怪やら山鳥女郎なんぞに太刀打ちできんだろう。そう言うおっかない連中はな、上層部が対応するように手配しているんだ。そう言う事だぜ島崎君」
白川先輩はきっぱりとした口調でそう言ったのだが、何を思ったのか口角を上げてやにわに笑みを見せた。
「――しかし、あんたにしてみりゃあ米田さんからありがたいお言葉を頂いたんだから、それはそれで役得だったんじゃあないかい?」
何故ここで米田さんの名前が出てくるのか。源吾郎がそんな事を思っている間にも、白川先輩は米田さんに近付いた。そして彼女の肩口辺りに鼻面を突き付け、今度は米田さんに向かって口を開いたのだ。
「それにしても米田さん。貴女の闘いぶりを傍で見るのは久しぶりですが、やはり見事な動きでしたね」
「……ずっと仕事に明け暮れるばかりの女ですから。きっと身体が鈍る暇も無いだけに過ぎないわ」
そう言うと、米田さんはそのまま身を翻して去ってしまった。白川先輩はバツが悪そうに尻尾を二度左右に振ると、やはり敵を見つけたらしく立ち去ってしまう。
白川先輩に対する米田さんの言葉は、源吾郎に対して語り掛けるよりも素っ気ないものだった。それは気のせいでも何でもなく、意図的な物だったのだ。そう思うと、源吾郎の心に仄暗い喜びが浮き上がり、胸の中を静かに満たしていった。
もちろん、そんな事ばかり考えている場合でもない。源吾郎もまた立ち上がり、未だ闘っている先輩たちに加勢すべく歩を進めたのだった。
※
結局のところ、雑兵たちの無力化という方面で源吾郎は活躍する事と相成った。源吾郎でも、あるいは源吾郎だからこそできる事である為だ。降伏した、あるいは戦意喪失した雑兵たち――深海ヨリ来ル者、黒い母山羊の眷属、蛇人間、そしてごく一部の妖怪だ――の動きなどを妖術で封じたり、あるいはもっと直截的に、所定の場所に結界術を展開して閉じ込めたりする程度の仕事だった。
源吾郎にしてみれば、直接闘うよりも気が楽な作業だった。既に降伏しているのだから傷つける必要も無い。しかも源吾郎は攻撃術よりも結界術を得意としていたのだから。
それに雑兵たちが思いのほか弱い事もまた、スムーズに仕事をこなせる要因となっていた。
若妖怪の部隊と邪神の眷属連中との抗争での戦局は、圧倒的に若妖怪サイドに傾いていた。
これもやはり相手の虚をつく不意打ちが功を奏したのかもしれない。だがそれ以上に、兵士としての、戦士としての質自体も段違いだと源吾郎は感じていた。
元々からして、邪神の眷属やその崇拝者を恐ろしいバケモノだと源吾郎は思っていたのだが、それ自体が間違いだったのかもしれない。そんな考えすら、源吾郎の脳裏には浮かんでいた。あるいはもしかしたら、人間サイドで考えれば、こうした連中も恐ろしいバケモノに見えてしまうだけではないか、と。
源吾郎はだから、周囲の話し声に耳を傾ける余裕が出来た。敵兵を無力化したと言えども、そのまま石ころのように放っておいている訳ではない。監視役や護送車の手配などの為に、複数の戦闘員が詰めていた。妖狐や化け狸と言った獣妖怪に人間の術者と、種族はさまざまである。
「さーて。護送車の方はあと十五分ほどで来るそうだ。我々の仕事もここまでだけど、くれぐれも気を抜かないように」
「それにしても、邪神の眷属だとか邪教集団の信者だという話だったが、思っていた以上に腑抜けた雑魚ばっかりだな。こんなのしかいないとは、八頭怪も程度が知れているな」
「おい! 無駄口を叩くな! 俺たちはあくまでも、末端の連中を狩っただけだぞ。まだ八頭怪どころか、幹部連中も顔を見せていないというのだから……」
しばらくの間彼らの言葉に耳を傾けていた源吾郎であったが、何者かがこちらに近付いたらしく、その姿がちらと視界に入った。しかもその姿の主は、まっすぐ源吾郎に近付こうとしたのではない。こちらのいる方に誘うような、そんな動きをしていたように源吾郎には見えた。
「どうした島崎」
「いえ……ちょっと何かがこちらの様子を窺っているようですので」
訝った様子の先輩に手早く事情を話し、源吾郎はしばし捕虜たちから離れた。源吾郎が離れたとしても問題は無い。彼の施した結界術の維持には影響がないのだから。
数メートルほど進んだ所で、源吾郎は一度歩を止めた。何かが弾丸のごとき速さでもって躍りかかって来るのを察知したためだ。反射的に尻尾の一尾が前方へ動き、何かを弾いてやり過ごしたが――それは明らかに源吾郎の胴体めがけて進んでいた。
その一尾に衝撃が走る。ヒリヒリする痛みと共に、尻尾の毛が宙を舞う。相手の鉤爪が尻尾を掠め、その毛を刈り込んで引き裂いたのだ。
――また来るか? 源吾郎は今度こそ相手を警戒しつつ身構えた。しかし、予想に反してそいつは飛びかかってはこなかった。
「その四尾にやけに人間臭い体臭。あんたが噂に聞く九尾の末裔ね」
そいつが投げかけてきたのは、攻撃ではなく言葉だった。若い女の声だった。俺を攻撃してきたのは若い女だったのか。妙な所で戸惑いつつ、源吾郎は声のした方を振り仰ぐ。
視線の先にいたのは、犬めいた頭を持つ半獣の女だった。動きやすくも清潔そうな衣裳と、薄汚れた灰色の毛皮に覆われた頭部や妙に猫背の姿勢が、何ともちぐはぐな印象をもたらしていた。
それに何より、彼女の口許は血で汚れていた――それも紅色だけではない。山羊の異形が流す、黄緑色の体液も見受けられたのだ。
彼女が何者なのかは定かではない。しかしただならぬものを源吾郎は感じ取っていた。この女は、これまでの有象無象とは違う、と。
「――私は
思案する源吾郎に言い聞かせるように、犬頭の女は告げる。食屍鬼。確か食屍鬼は死肉や腐肉を主食にしていた妖魔の類だったか。亜孤姫は歯を剥き出しにし、憎悪と嗜虐に満ち満ちた笑みを源吾郎に向けていた。
「と言っても、私は混ざり者という事で爪弾きに遭ったんだけどね。だから九尾の末裔――あんたの事が赦せないのよ」
亜孤姫という女食屍鬼のその言葉は、源吾郎に対するれっきとした宣戦布告そのものだった。
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