妖獣跋扈し血肉は舞う
※
妖怪、特に獣妖怪の身体能力は人間のそれとは大きくかけ離れているのは有名な話である。だが、元になった動物よりも優れている事もまた、事実である。
例として妖狐を取り上げよう。もっとも力の弱い一尾であったとしても、タイヤを括りつけられた状態で数百メートルから数キロは全力疾走するスタミナを、彼らは有しているのだ。
強化されているのは持久力だけではない。身体能力も、普通のキツネよりも優れている事が普通なのだ。
これが一体どういうことなのか。数メートルほどの高い塀などは、妖狐たちにとっては何の障害でもないという話である。
源吾郎の属する狐狸精第三部隊は、数十分間走り続けた結果、目的である屋敷に到着する事と相成った。屋敷という事で周囲は高い塀に囲まれていたのだが、妖狐たちの殆どは、苦も無く跳躍一つで塀を乗り越えていったのである。
もちろん、結界やら対妖怪向けの術が施されてあったり、門番などがいたりしたらこのような事にはならないだろう。しかし門番と思しき異形は既に他の部隊の者に斃されており、結界などの術の類も特に施されていない。
だから狐狸精第三部隊の面々は、悠々と塀を飛び越えて屋敷の内部に入り込んでいくのだった。
そして源吾郎はというと、塀を飛び越えて屋敷の中へと不法侵入する仲間たちを、ただ眺めるだけだった。三メートル以上ある塀を飛び越えるなどという芸当は、源吾郎には不可能だったためだ。
潤沢な妖力と抜きんでた才能を持つ源吾郎であるが、半妖である為にその肉体は狐よりもむしろ人に近かった。
そのためなのか、源吾郎の身体能力は普通の成人男性と大差ない。反応速度も、ジャンプ力や走る速さなどは、一尾の妖狐などよりも格段に劣るのだ。しかも学生時代は文化部に所属し、それほどスポーツに力を入れていた訳ではないから尚更だ。
それ故に、源吾郎は塀を前にして逡巡していたのだ。妖術の行使に長けていると言えども、宙に浮く術や壁をすり抜ける術を会得している訳ではない。狐火などをぶっぱなして塀を破壊する事も可能であるが、そんな事をすれば仲間をも巻き込む事は明らかだ。
ああだこうだ考えている源吾郎のズボンに、ひんやりとした鼻面が押し当てられた。穂谷先輩だった。彼もまた変化を解き、柴犬ほどの大きさの黒狐の姿を取っている。それでも律義に、殿の役割を担っているらしかった。
「何を悩んでいるんだ島崎君。結界は特に張られていないし、既に中も交戦状態なんだよ」
穂谷先輩の言葉はいつになく鋭く、険のある物だった。だというのに、彼は鼻面を歪めて笑ったのだ。
「それとも――君の事だから、怖気付いちゃったのかな?」
違います。俺は単に、どうやって乗り越えるべきなのか考えていただけなんです――彼にそう伝えたかったが、結局のところ源吾郎には出来なかった。おのれの任務だと言わんばかりに、穂谷先輩はとうに塀を飛び越えていたからだ。やはり彼も二尾の妖狐である。大柄な柴犬とほとんど変わらぬ体躯ではあったが、さも当然のように塀を飛び越してしまったのだから。
源吾郎は取り残された。しかし、彼の珍しく荒っぽい言葉とそれに伴うやり取りは、全く無為で無意味な物でも無かった。穂谷先輩の言葉が、塀を乗り越える方法のヒントになったのだから。
源吾郎は手許で小さく印を組み、早口に呟いた。直後、板状の結界が顕現する。地上から五、六十センチほどの高さの場所にだ。源吾郎はこれに飛び乗り、すぐに次の結界を構築した。結界を構築してはそれに乗り、また新たな結界を構築する。これを源吾郎は繰り返したのだ。
確かに源吾郎は、浮遊術や飛行術を会得している訳ではない。しかし、結界術を応用する事によって、一時的にしろ宙に浮いているような状態を生み出す事は可能なのだ。
塀を超えた後も、源吾郎は結界術を扱いながら、少しずつ地上へと降りて行った。いかな半妖と言えども、下手な落下で骨を折りかねないと思ったためだ。
「なんだ、何だ何なんだこの犬畜生共が!」
「兄貴ぃ、こいつらは犬じゃなくて狐ですぜ!」
「グダグダ下らん事をぬかしているんじゃあねぇよ、この腐れ魚介類共が! 八頭怪のアンポンタンから離脱して大人しく降伏するか、俺らに抗ってそのままくたばるか、二つに一つだこの野郎!」
穂谷先輩の言葉通り、敷地の内部では既に戦闘が始まっていた。地上では獣妖怪と邪教の信者と思しき半魚人やら山羊のバケモノやら蛇人間が相争っており、地上では鳥妖怪同士が空中戦を繰り広げている。
想像以上に凄惨な光景に、源吾郎は思わずぎょっとしてしまう。
怖気付いては駄目だ。理性でおのれに訴えかけるも、心が硬直してしまっていた。源吾郎とて、もはや温室育ちのお坊ちゃまなどではない。妖怪同士で相争う事も知っているし、雪羽や他の若妖怪と戦闘訓練だって何度も行っている。この間の裏初午の時なども、テロリストがけしかけてきた牛鬼と闘い、他の妖狐たちと斃したではないか。
だがそうであったとしても、眼前で繰り広げられる光景に、源吾郎はたじろいでしまったのだ。方々に飛び散っているのは、鮮血や緑がかったあやしい体液――どうやら邪神の眷属、特に山羊めいた連中の血液らしい――だけではない。毛の塊や肉片、更には千切れ飛んだ手足や頭などまでも飛び散り、転がっていたのだ。
幸いな事に、雉鶏精一派の陣営にいる者たちの中で惨殺されているような者は見当たらなかった。その事は喜ぶべき事だろう。自分たちの方が優勢であり、敵対者を鎮圧できるという事と同義なのだから。
しかしそうなると、今度は別の考えが首をもたげてきた。仲間たちは敵である異形連中に暴虐の限りを尽くしているが、果たしてそれは正当な事なのか? 事もあろうに、源吾郎はそんな事を考え始めてしまったのだ。
だが、そんな甘ったるい考えに浸っていたのも、ほんの短い間だけだった。
源吾郎は見た。赤褐色の妖狐が、五、六羽の鳥妖怪たちに囲まれてリンチを受けている様を。鮮血の紅で毛皮を汚しながら吠える尾崎先輩の許に、源吾郎は駆け寄った。
「貴様か、貴様が入譜丸さんを撃ち落とした挙句、ションベンを引っかけたんだな!」
「この忌々しい下等生物が! 穢い下半身を引き千切って断種してくれる!」
「アタシはあの
「ギィッ……ギィイイイ!」
「やめろっ、やめないかこの鳥頭の糞鳥類共が!」
数羽がかりで夜鷹が狐の胴を引き裂こうとした丁度その時、源吾郎は堪えかねて絶叫した。運の良い事に、夜鷹共は源吾郎の叫び声に驚いたらしく、動きを止めてこちらを見つめだした。
新たな伏兵に気付かないというのは、戦場では不用心な事のようにも思える。しかしもしかしたら、彼らは憎い仇をいたぶるのに夢中で、源吾郎の接近に気付いていなかったのだろうか。
いずれにしても、判断を下す猶予が源吾郎には与えられた。
源吾郎はだから、余裕をもって狐火――に見える幻術を夜鷹連中に放つ事が出来た。実害はないが、ぶつかれば痛みを感じる代物である。
放った幻の狐火は、群がっていた全ての夜鷹共に命中した。一部は尾崎先輩にもかすってしまったが、幻の痛みを感じるだけだから問題は無かろう。
いずれにせよ、尾崎先輩をいたぶっていた夜鷹たちは全て彼から離れた。あとは分身を練って安全な所に運ぶべきか……そう思っている間に、何処からともなく三尾の妖狐が姿を現し、尾崎先輩を背に乗せて立ち去った。狐狸精第三部隊の妖狐ではないが、源吾郎たちの味方である事は言うまでもない。
その場に残されたのは、源吾郎と夜鷹たちだった。標的を失った今も、夜鷹連中は無様に地面に転がっている。命中したせいで、幻の痛みが未だに彼らを苦しめているのあろう。
源吾郎はそれを、醒めた目で見下ろしていた。攻撃するにしても、あそこまでやり過ぎるのは如何なものか。そのような迷いは、源吾郎の心の中にはもはや無かった。
だから彼は、今一度狐火の弾丸を錬成した――幻ではない、殺傷能力を持つ本物の狐火をだ。
「そうだよな。これは戦争なんだから、下手に仏心を出してもいけないもんな」
言い放つのと、狐火が放たれていくのはほぼ同時だった。もんどりを打ちつつも飛び立とうとする者、観念したようにうずくまる者。弾丸となった狐火は、そうした者に等しく牙をむいたのだ。
狐火は命中する。そうなれば連中は粉微塵になるだろう。源吾郎はそう思って僅かに油断していた。だからこそ、夜鷹の一羽が歪んだ笑みを浮かべていた事に気付けなかった。
「はん、戦の途中だというのに、良い気になってんじゃあねぇよクソガキが!」
「何を言って……?」
吐き捨てるような夜鷹の言葉に眉を顰める。直後、源吾郎は異変に気付いた。狐火の餌食になった夜鷹はまだいない。それどころか、源吾郎が放ったはずの狐火は、今や使い手である源吾郎めがけて飛んできているではないか。
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