雉鶏精 討伐の日取りを定めたる
雪羽とあれやこれやと談笑している間に、始業時間まであと五分となった。源吾郎と雪羽はちりぢりになり、それぞれ日常点検やら何やらを手早く済ませた。研究センターの長である紅藤は、始業時間ギリギリまで部下たちが談笑していても、特に何も言いはしない。
それでも源吾郎は、若狐なりに忖度し、始業時間の五分前――状況によっては、十五分前や十分前の場合もあるが――には、仕事の準備に取り掛かるように心がけていた。
ましてや今日は月曜日である。月曜の朝と言えばミーティングがあるため、他の曜日の朝よりも源吾郎は若干緊張していた。最近は、ただ話を聞くだけではなく、源吾郎も(もちろん雪羽も)発言を求められるのだから尚更だ。
それにそうでなくとも、八頭怪を封じるという超巨大プロジェクトが横たわっている。その事について、萩尾丸は言うまでもなく紅藤や青松丸までも神経を尖らせているのだ。三月の上旬までは、紅藤たちもその空気をどうにか隠そうとしていた気もするが、最近はそれすらも無くなっている。
出社したばかりの源吾郎が仄暗い憂鬱に囚われていたのと同じく、上司たちと顔を合わせる場で緊張するのは、無理もない事だったのだ。
「おはようございます、皆様。始業時間よりも少し早いですが、今日もミーティングを始めます」
丁寧な、しかし何処かたどたどしさを伴った物言いで紅藤が告げる。
その姿を見た源吾郎は、思わずぎょっとして目を丸くした。部下たちの前に向き直る紅藤の姿には、憔悴の色がありありと浮き上がっていたためだ。紫の瞳の下には青黒い隈が浮かび、赤褐色の柔らかな巻き毛も湿っているかのように額や頬にへばりついていた。それでいて、眼光は鋭くその面に浮かぶ表情には鬼気迫るものがあった。
元々からして紅藤は身なりに構わない所はあるにはあった。だがそれでも、ここまで異様な風体で源吾郎たちの前に姿を現す事は初めてだった。
よく見れば、側近である萩尾丸の顔にも、若干の疲れの色が見え隠れしている。しかし萩尾丸の方は、表情以外はごく普通に取り繕っているようだ。だからこそ、紅藤の憔悴度合いがより一層際立ってしまうのである。
「そうですね。色々とお話しないといけない事もあるかとは思いますが……とりあえず、八頭怪への総攻撃を行う日取りが決定した事をまず報告します。決行日は三月三十一日の、午後七時からになります」
「!」
紅藤の妙にさらりとした発言に、一同は絶句した。何せミーティングが始まって一分も経たぬうちに、彼女は最も重要な事を口にしたのだから。
源吾郎はもちろん驚き、おろおろと周囲に視線を走らせた。誰も彼もその顔は強い驚愕に染まっていた。それを確認したからと言って、源吾郎は強く安堵したりより一層驚いたりはしなかったけれど。
水を打ったような静寂を打ち破ったのは、鋭く大きい――聴覚が鋭敏になっていたために、余計に大きく聞こえただけだったのだが――舌打ちだった。
紅藤様。萩尾丸は当惑し、そして不機嫌さを露わにした表情でもって師範に呼びかけている。
「お気持ちやお伝えしたい事は解りますが、先程の説明は余りにも性急すぎませんか。僕や青松丸君は、先日のお打ち合わせに参加していたので事情を知っています。ですが若い
萩尾丸の言う打ち合わせとは、一体全体いつ行われた物を指しているのだろう。強い驚きで感覚が鈍った脳内で、源吾郎はぼんやりと思っていた。先週の月曜日から金曜日までの間に出た結論でも無さそうだし。
そこまで考えていた源吾郎は、ある結論に気付き、思わず身震いした。
もしかしたら、紅藤や萩尾丸が打ち合わせを行い、八頭怪を討つ日取りを決定したのは、この土日の間での事ではないのか、と。休日すら厭わず仕事に身を投じるなんて、本当に恐ろしいほどの体力と機動力だ――驚く点はズレているかもしれないが、源吾郎は静かにそんな事を思い始めていたのだった。
一方で、紅藤と萩尾丸はしばし互いに睨み合っていた。というよりも、紅藤の反応が緩慢すぎるために、彼女が萩尾丸を睨んでいるように見えただけだった。しかも萩尾丸は、忠臣めいた様子で紅藤の次の言葉を待っているのだから尚更だろう。
だが当の萩尾丸も、このままでは埒が明かないと思い直したようだ。軽く咳払いすると、おもむろに紅藤から視線を外した。青松丸にサカイ先輩、そして源吾郎や雪羽を睥睨し、口を開いた。
「ええと、紅藤様も順序だって説明して下さるつもりだったんだけど、やはり話の内容が内容だけに、どうにも気が急いてしまったみたいなんだ。驚かせてしまって申し訳ないね。
その代わりに、八頭怪討伐の日程を決めた経緯や今後の動きについて、僕の方から説明するよ」
萩尾丸の落ち着いた真摯な言葉は、源吾郎の脳内にわだかまっていた混乱を取り払うには十二分すぎる効果を発揮してくれた。それどころか、紅藤すらも少し安堵したような表情で、萩尾丸を見つめているほどである。
皆の視線を一心に受けながらも、涼しい顔で萩尾丸は言葉を続けた。
「何故八頭怪及び彼の協力者への総攻撃の日取りを三月三十一日にしたのか。それは八頭怪自身が、四月一日に事を起こす事が僕たちの調査で明らかになったからに他ならないんだ」
「って事は、八頭怪のやつが動く前に、俺らの方で先んじて潰しにかかるって話になるんですかね」
気付けば雪羽は、思っていた事を口にしていた。萩尾丸はそんな雪羽の言動を咎めず、むしろその通りだと言わんばかりに首肯していた。
「八頭怪は、というよりも彼らのような者たちは、大きな事を起こすにあたって日付を重要視するみたいなんだ。と言っても、僕らがカレンダーにあるような大安とか仏滅とかを気にする事とは次元が違うみたいなんだけどね」
萩尾丸はそのまま、何故邪神の眷属や狂信者たちが日付にこだわるのかについても丁寧に教えてくれた。少しずつクトゥルー神話を読み進めている源吾郎は知っている事柄だった。要するに邪神たちは星の並びによって動きが制限されているという事なのだ。日によって星の並びが異なり、特定の星の並びになると、その制限がなくなるという塩梅である。
しかし幸いな事に、邪神連中が自由に闊歩できる星の並びというのは、滅多に現れない。しかも一日でもズレ込むと、やはり星による制限が課せられて身動きが取れなくなるのだという。だからこそ、星の並びが揃う前に先回りして叩く事が重要なのだ――萩尾丸は妙に熱っぽい表情でもって、源吾郎たちにそう告げたのである。
「ともあれ、詳細については追って報告するよ。何せ襲撃の日取りそのものが決まったのが昨夜の事だからね」
「ええっ。萩尾丸さんも紅藤様も、日曜日の夕方なんぞに打ち合わせをなさってたんすか。あのアニメとかも見ないでさ」
「ちょっと雷園寺君。驚く気持ちも解るけれど、萩尾丸さんがお話をなさっているから、少し落ち着こうか」
途中で雪羽が驚きの声を上げたり、それを青松丸がたしなめたりしていた。だが萩尾丸は意に介さず、ただただ聞き流しているようだった。彼が目を伏せて恐ろしげな表情を見せているのも、野次馬めいた言葉に立腹したからなどでは無かろう。
「今回の全面戦争に、誰が参加するのかはこれから決める所でもあるんだ。戦力は多いに越した事は無いけれど、あまりにも若過ぎる子や経験の浅い子を投入したくはないからね」
しかし。妙な優しさの滲む言葉から一転し、萩尾丸は鋭い眼差しで研究センターの面々を見据えた。その視線が、源吾郎や雪羽に絡んできたのは気のせいでは無かろう。
「研究センターに所属する皆は、全員今回の戦闘に関わってもらう。その事は既に決定事項だからね。もちろん、実力や実戦経験を考慮して割り当てるつもりだけど……そのつもりで考えておくように」
「はい……」
「解ってますよ、俺らも闘うって事は……」
自分たちも戦力として投入される。その事実を突きつけられた源吾郎は、雪羽と共に頷いていた。源吾郎にしろ雪羽にしろ声は震えていた。しかし幸いな事に、その事を指摘したり笑ったりするものはいなかったのだ。
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