雷獣勘繰り狐は笑う
※
月日の流れは早いもので、気付けば三月も下旬に差し掛かっていた。
就職してから様々な事があったが、波乱に満ち満ちた日々だった。今や十九となった源吾郎は、三月の日々をそんな風に思い返していた。
何せ三月の頭からして、紅藤と敵対している山鳥女郎が来訪した挙句に爆弾発言を残していったのだ。それを皮切りに雉鶏精一派の幹部の中に、八頭怪に通じる裏切り者が存在する事が明らかになった訳であるし。
そこからは八頭怪討伐の対策・計画が練られ、職場は打倒八頭怪の空気に塗り替えられてしまった。
実際に事を起こすタイミングがいつなのか。それはまだ源吾郎は知らない。先方の、八頭怪サイドからの宣戦布告がまだないためだ。しかし水面下では、峰白を筆頭とした幹部勢が計画を練っている事には変わりはない。来るべき時が来れば、末端である源吾郎たちにも八頭怪討伐の連絡は来るであろう。
しかし、源吾郎にしてみれば、決行の日が判らないというのも相当なストレス出会った。生物はいつ生じるのか判らない脅威に対して強いストレスを感じるという。今回の八頭怪討伐云々は、まさしくいつ来るか判らない脅威そのものと言っても過言では無かった。
源吾郎とて、自身が戦いに身を投じなければならない事は解っている。状況が状況であるから、怖気付いている場合ではないとも思っている。
それでも、薄雲のごとく広がった不安が心の中を覆っていく事は、源吾郎の意志を以てしてもどうにもできない事柄だった。
※
「おっす! おはようっす島崎先輩!」
「ああ。おはよう雷園寺君」
週明けの三月二十六日。普段通り出社した源吾郎を出迎えたのは、今や同僚のような存在となっている雪羽だった。月曜日の朝だというのに、雪羽は妙にテンションが高い。
元々雪羽は感情の起伏が激しく、ご機嫌な時はテンションが高く見える。だがそれが妙に気になってしまったのは、この所源吾郎が神経質になっていた事もあるのかもしれない。
そしてそんな源吾郎の様子に気付いたのだろう。雪羽は小首を傾げつつ、源吾郎の様子を窺う。
「あれ。どうしたんすか島崎先輩。この間誕生日を迎えたばっかりなのに、浮かない顔をしてるじゃあないですか」
誕生日が来た事と、憂鬱との間にどのような因果関係があると言いたいのだろうか。源吾郎がそう思っている間にも、雪羽は矢継ぎ早に言葉を続ける。
「やっぱり米田の姐さんとも予定の関係で会えなかったし、俺も土日とかお祝いに駆け付ける事が出来なかったから、それで拗ねちゃってるんですかね?」
ここで一旦言葉を切ると、雪羽はニタリと歯を見せて笑った。悪だくみをしているかのような表情である。かつて悪ガキと見做されていた頃には、よくそんな笑みを浮かべていたのかもしれない。
奇妙な懐かしさを感じつつも、源吾郎はそんな風に思っていた。
「もしかして、歳を取ったのが嫌だったとか? ほらさ、人間って年齢を重ねる事を嫌がる習性とかあるやん。島崎先輩は妖狐を気取っているけれど、本当は半妖だし人間社会にも俺たちよりうんと詳しいから、そう言う事があるのかなって思ったんだけど……」
「違う違う違うわ! 雷園寺、君の推測は何もかも間違ってるぜ」
感極まって声を上げた源吾郎であったが、すぐに咳払いして雪羽が怯んでいないか注意深く観察した。それこそ、自分の言動が大人げないものだと思い直した為である。
「それにしても、雷園寺君がそこまで人間の習性というか文化に詳しいとはな。ちょっとだけ驚いたよ」
まぁね。先程よりも幾分穏やかな源吾郎の物言いに、雪羽はまたしても笑みを見せた。
歳を取った事や実年齢の捉え方について、人間と妖怪とでは認識の違いがある事は紛れもない事実だった。
基本的に、妖怪たちは年数を経るごとに妖力と知識を増していき、より強大な存在へと成長していく。妖力は生命維持にも重要な役割を担っているから、歳を取っても老いる事は殆ど無い。それ故に、妖怪たちにとっては歳を取る事はポジティブな事であるととらえがちなのだ。年齢を詐称する妖怪もいるそうだが、それはむしろ若妖怪が実年齢よりも多く生きているように装う事の方が多いのだというほどだ。
そうした考えは、人間の年齢観とは確かに異なった物であろう。
さて源吾郎はというと、妙に得意げな表情の雪羽を見据えながら、更に言葉を続けていった。
「まずはだな。俺は別にさ、歳を取るのが嫌だとか、そんな事を思ったりしないよ。まだそんな事を思うような歳でもないし、半妖だけど精神的にも肉体的にも妖狐に近いんだし。それに何より、早く大人になりたいって常々思っているんだからさ」
早く大人になりたい。これは源吾郎の偽らざる本音だった。やはり末っ子である事、それも兄姉たちと歳が離れていた事が大きな要因であろう。実家で過ごしていた時は、末っ子として父母や兄姉らに保護され甘やかされる特権を享受していた。しかしそれは、源吾郎が最年少の幼い仔狐であると見做されているからだったのだ。
源吾郎は齢十七の時に最強の妖怪を目指していると宣言し、高校卒業を機に実家を出て独り暮らしを行っている。だがこれも、結局は親兄姉から仔狐扱いされる事に嫌気がさしたという側面が強かった。
とはいえ現在も度々実家に戻ったり、兄姉らと連絡を取ったりたまに会ったりする事もあるが、それはまた別の話である。
「次にだ。この間の週末に米田さんに会えなかったからと言って、それで拗ねたり凹んだりなんかしないよ。まぁ、会えなかったのは少し寂しいし、折角の休日なのに残念だとは思っているけどな」
そこまで言うと、緩んでいるであろう表情を引き締めて、源吾郎は言葉を続ける。
「俺だって、米田さんが仕事の関係でご多忙だって事は十二分に理解しているから、ね。それに俺はさ、実を言うと自分の時間も確保できないと、ストレスを溜め込んじまう性質なんだよ。だからどんなに大好きな相手だったとしても、四六時中べったりとなると、それはそれで……しんどいって事さ」
「自分の時間を確保できないと、ストレスを溜め込むだって? 大好きな、それこそ恋人とかが相手だとしても?」
雪羽は源吾郎の言葉を反芻したかと思うと、目を丸くしてその顔を覗き込んでいる。あからさまな表情と言い大げさな物言いと言い、源吾郎の言葉への驚きの念が、ありありと浮き上がっていた。
「島崎先輩ってば甘えん坊な性質だと思っていたから、自分の時間も必要だなんて意外っすね」
「そうか? 甘えん坊だろうと何だろうと、自分の時間は必要だろうに」
源吾郎はそう言ったものの、雪羽は納得いかないと言わんばかりの面持ちで見つめ返している。
「自分の時間が必要って……先輩ってもしかしてかなりワガママな奴だったりするの? 都合のいい時は甘えるけれど、そうじゃない時は塩対応だなんてさ」
「ワガママ野郎で結構」
驚きを通り越して何処か非難がましい眼差しを向ける雪羽を正面から見据え、源吾郎は短く強く息を吐き出した。
「言っておくけれど雷園寺。俺は別に、聖人君子だとか品行方正な妖怪なんぞを目指している訳じゃあないんだ。元より最強の妖怪になって君臨し、他の妖怪たちを従えるって野望を持っているんだからな。その野望を叶えようとしている時点で、俺がワガママ野郎だって事は解りきっているだろうに」
まぁそれも。一転して微妙な表情になる雪羽を見据えながら、源吾郎は言葉を続ける。
「ベタベタされるのが嫌って言う気持ちも、きっと俺が末っ子だからなのかもしれないな。なんせ実家にいた頃は、両親だけじゃなくて兄姉たちからもこねくり回されて育ったからさ。俺が望む時だけではなく、特に望んでない時であっても、兄上たちは俺に構って来たんだ」
「それはご両親やご兄姉たちに愛されていたという何よりの証拠じゃないか」
雪羽は鼻を鳴らしながらそう言った。それから睨み付けんばかりの眼差しを源吾郎に向けたのだ。
「全くもって羨ましい限りっすよ――くそ忌々しいほどに、ね」
しまった。これは言うべき事ではなかったか。雪羽の鋭い眼差しと言葉を前に、源吾郎は素直にそう思った。雪羽に対して親兄弟の話をする場合、細心の注意を払わねばならないのだ。彼は親兄弟との交流に飢えている。源吾郎がうんざりしながら受けていた事であったとしても、彼の悪感情を刺激しかねないのだ。そんな事は解りきっていたはずなのに。自分の迂闊さをしばし呪っていた源吾郎であったが、ややあってから脳裏には妙案が浮かんでいた。
「ごめんな雷園寺君。さっきの発言は迂闊だったよ。よく考えたら、君が家族の事とかで悩んでいるというのに……」
「いや、良いっすよ島崎先輩。そんなに畏まって謝らなくても良いってば」
雪羽が源吾郎の言葉を遮ったが、そんな事は些事だった。それよりも、雪羽が立腹せず、むしろ普段通りの表情に戻っている事こそが源吾郎には大切だった。雪羽は源吾郎のように根を持つ事は無いが、その分感情の起伏が烈しい。怒りや悲しみなどと言った負の感情に囚われれば、何かと厄介な事になるのはよく解っていた。
だからこそ、源吾郎は落ち着いた心地で次の言葉を語る事が出来たのだ。
「だけど雷園寺君。君だってよーく考えてみたまえ。君は確かに弟である穂村君たちや時雨君なんぞを大切に思っているみたいだけど、それでも四六時中、ノンストップでべったりされたら、流石に嫌気がさすんじゃあないかい? そこまでいかずとも、ちょっとは離れてくれよって思うだろうさ」
「いや別に。べったり一緒にいてくれたら嬉しいけど」
即答した雪羽であったが、何か思う所があったのだろう。首を傾げ、またしても彼は思案顔を浮かべていた。
「ああだけど……先輩の言う事も一理あるかなって思うよ。だってさ、お便所にまでくっ付いてこられたら、流石に困るからさ……」
「そんなとこまでくっ付かれたら誰だって困るわ!」
真面目な表情を見せるから何を言うのかと思っていたのだが、まさかそんな事を言い出すとは。呆れと可笑しさが入り混じり、源吾郎はやや大きな声でツッコミを入れてしまった。
雪羽は源吾郎の声に気を悪くする事などは無かった。それどころか、堪えかねたように笑いだす始末である。
つられて源吾郎も笑っていた。悪い気はしなかった。それどころか憂鬱な気分を僅かに忘れる事が出来て、それはそれで愉快な気分だったのだ。
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