導きたるは夜鷹の遣い

 地上に出た亜孤姫あこひめは、意気揚々と歩を進めていた。

 所持品は手提げのハンドバッグに収まるほどであり、行く当ても特にない。だがそれでも、亜孤姫は特に不安は無かった。鬼生じんせいの門出たるこの出立が、よりによって夜だったという不満はあるにはあったが。


 行く当てのない一人旅に取り立てて不安を感じないのは、何も亜孤姫が楽観的すぎるからではない。彼女なりのプランや準備があったためだ。

 小物しか入らないようなハンドバッグを提げているだけの亜孤姫であるが、長旅の為に必要な路銀はきちんと携えていた。人間――厳密には深海ヨリ来ル者の血を受け継いでいたそうだが――である祖父の形見たる宝飾品の幾つかを、亜孤姫は所持していたためだ。

 形見分けがあった際は兄らも存命だったために、亜孤姫だけが宝飾品を沢山受け継いだわけでもない。しかし件の宝飾品は、たった一つでも高級車一台と交換できるほどの値打ちを保有していた。それはひとえに、九頭龍くとぅるーの眠る海底宮殿の技術や技巧に通じていたからに他ならない。

 それらの事を亜孤姫は知っていたから、いざという時は宝飾品たちを一つずつ路銀に変えるつもりだった。

 また、仲間のいない出立であるが、群れの外にもコネクションはある。仲間だった食屍鬼たちに詰られたのも、先日彼女が交流会に出向いたためである。あの手の交流会で信心深い者たちを探し出し、気が合えば交流しコネを構築する事を、亜孤姫は密かに何度も繰り返していた。もっとも前回は、蒙昧な妖怪共による襲撃を受け、それどころでは無かったのだが。亜孤姫とてなりふり構わず逃げる他なかった。と言っても、他の物を重要視して生命を落としてしまえば、それこそ元も子もないのだが。

 ともあれ知り合いに連絡を入れよう。亜孤姫はハンドバッグからスマホを取り出した。スマホの使い方は知っているし、何なら日常的に使っている。食屍鬼であれ深海ヨリ来ル者であれ妖怪共であれ、文明の利器は積極的に利用しているのだ。


「……って、充電が残ってないじゃない」


 ロック画面を解除してみたものの、表示されたのは電池切れのマークだけだった。亜孤姫は軽く舌打ちし、スマホをそのままハンドバッグに押し込んだ。充電用のコード、いやモバイルバッテリーを何処かで買わねばならないのか。そう思うと、亜孤姫は少しだけ憂鬱な気分になった。

 人間の女性に擬態できる亜孤姫であるが、人間や他の妖怪に本性を見抜かれないか心配だった。特に悪臭漂う他の食屍鬼グールたちに、取り囲まれていたばかりであるから、尚更その懸念が強かった。

 して思えば、ヒトの多い日中ではなくて、夜の出立だったのも悪い事ではないのかもしれない。亜孤姫は妙に楽観的な気持ちでもって、そんな事を思い始めてもいた。


 奇怪な啼き声と共に小さな鳥が舞い降りてきたのは、亜孤姫が公園のベンチで小休止していた時の事だった。

 陰気臭い群れを離れて新天地に向かう。期待に満ち満ちた出立ではあったが、それでも疲れを感じてしまう事には変わりはない。それでも休憩場所に宿ではなく公園のベンチを選ぶのが食屍鬼としての悲しい性でもあった。

 いずれにせよ、おのれに接近してきたその存在は、亜孤姫の眠気や疲労感を一瞬にして吹き飛ばした。警戒心が全ての感情に勝る事は、生物としての基本的な事であるためだ。地下暮らしが長い亜孤姫と言えども、夜行性の鳥が珍しい事くらいは知っている。

 それに何より、近付いてきた小鳥から何がしかの魔力が放たれているのを、亜孤姫は目ざとく感じ取っていた。現に小鳥は、亜孤姫の目の前に降り立った時には、人間の姿に擬態していた。それは若い男の姿を取っていた。白いシャツに黒いズボンで、何となく清潔そうな見た目だと亜孤姫は思った。

 つまるところ、人型に化身した小鳥に対して、亜孤姫は好印象を抱いていたのだ。典型的な食屍鬼の暮らしを厭う亜孤姫にしてみれば、清潔というのはとてもいい意味合いを持っていたのである。


「あ、あなたは誰なの、素敵な小鳥ちゃん」


 姫らしく優雅に尋ねてみよう。亜孤姫のその目論見は、他ならぬ彼女自身の言葉によって裏切られた。実際に口から出てきた言葉は、情けないほどにたどたどしかったのだ。

 鳥妖怪の青年も、焦げ茶と明るい茶褐色がまだらに混じった巻き毛を揺らしながら、鼻で笑っているではないか。


「小鳥ちゃんとはご挨拶だなぁ。そう言うあんたこそ、しみったれた哺乳類なんかじゃあないのかい?」


 クスクスと笑う青年を前に、亜孤姫は反論の言葉も思いつかず瞠目するだけだった。哺乳類というのが何故罵倒の言葉に繋がるのか、よく解らなかった。というよりも、亜孤姫自身は鳥妖怪を間近で見るのは初めての事のように思えてならなかった。鳥妖怪が実在する事は知っている。しかし食屍鬼の住まう地下道に、彼らが姿を現す事は殆ど無かった。あったとしても、それは食料になった後の事だったのかもしれない。

 そんな訳で、亜孤姫は鳥妖怪の青年の間で、しばし思案に暮れていたのだ。

 ややあってから、鳥妖怪の頭がゆらりと動いた。ぼうっとする亜孤姫の顔を覗き込んでいたらしい。彼の瞳は、闇の中でもなお黒々としていた。

 その瞳が揺らぎ、笑みの形に歪む。


「ああ、ああ。食屍鬼のお嬢さん。さっきはからかったりして悪かったな。よくよく見ていたら、大分胆の据わったお嬢さんだって事に気付いたからさ」

「あら。私はただ胆が据わっているだけではなくってよ」


 鳥妖怪の褒め言葉に、亜孤姫は頬を火照らせながら告げた。表情や言葉からして、相手は亜孤姫の事に興味を持っている。それだけではなく、彼女を優秀な存在だと見做そうとしていた。その事実が、亜孤姫の自尊心をくすぐったのだ。

 鳥妖怪は目を細めながら言葉を続ける。


「そうなんだ? それじゃあお嬢さん。君の事を教えてくれないかな。ふふふっ、俺も食屍鬼の事は知ってるよ。だけど俺が知る限り、あいつらはモグラやドブネズミみてぇに地面の奥に隠れてコソコソ暮らしているようなものだと思ったんだが……お嬢さんみたいに、地上に出て、何か目的を持ってウロウロしているのは珍しいんだぜ?」


 この小鳥は、私が目的を持って地上に出た事を知っている――言外に告げられたこの事実に、亜孤姫は稲妻に打たれたような心地になった。驚きはあったが恐怖心は無い。むしろ心地よく、嬉しくすらあった。

 亜孤姫はだから、鳥妖怪の青年に事のあらましを洗いざらい話し始めたのだ。彼女の話は長かった。何しろその事のあらましというのは、君主だった曾祖父の代から始まる物語だったのだから。もちろん、曾祖父の寵児であった祖母の異種族恋愛も、父母や兄らに降りかかった悲運についても語って聞かせた。

 恐らくは亜孤姫の話は長話の部類になったのかもしれない。しかし亜孤姫はそんな事などお構いなしだったし、鳥妖怪の青年も、嫌な顔をせずに聞いてくれた。だから気にするだけ無駄な話だったのだ。


「――とまぁ、そんな訳だから、私はくそったれな食屍鬼の群れを出て旅に出ている最中なのよ。私は単なる食屍鬼なんかじゃあないの。ひいお祖父様の代までは食屍鬼たちの君主だったし、お祖父様は食屍鬼じゃあないけれど……信心深いお方だったもの。だからね、私の方からあいつらを見限ったのよ。信仰も、野心も何もない、ただの享楽的で刹那的な連中には付き合い切れないわ」

「ふふふふっ。情熱的な身の上話をありがとな。実に面白かったぜ」


 鳥妖怪の青年は言うと、片頬に笑みを浮かべながら亜孤姫を見つめた。


「うん、うん。亜孤姫様。貴女は俺の見立て通り、いや見立て以上に魅力的で意欲的なお方だね。君の言う事は俺にもよーく解るよ。俺だって、信仰や使命に生命を燃やす喜びを知っているから、ね」


 そこまで言うと、鳥妖怪はやにわに亜孤姫の肩に手を添えた。重さを感じさせない、しかししっかりとした温もりは伝わってくる。独特の感触だった。


「そうだとも。君みたいな優秀な若者は、しょうもない所で埋もれたりしたらいけないんだよ。ふふふ、君の才能を活かせそうな場所、俺は知ってるよ。何なら今から案内してあげる。少し疲れていたみたいだけど、大丈夫かな?」

「大丈夫です! すぐに案内して頂戴」


 亜孤姫は半ば叫ぶように告げていた。鳥妖怪の青年は、承知したとばかりに頷き、ゆっくりと歩き始めた。

 自分は夜鷹の妖怪であり、八頭怪と呼ばれる存在に仕えている。歩き始めた鳥妖怪の青年は、亜孤姫にそんな事を教えてくれたのだった。亜孤姫が身の上を教えてくれたから、青年もお返しに自分の事を開示したのだろう。鳥妖怪の横顔を眺めながら、亜孤姫はぼんやりとそう思ったのだった。

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