食屍姫の追放、あるいは旅立ち ※暴力描写あり

 三月下旬。スラムのような場所に居を構える野良妖怪たちですら滅多に立ち寄らない寂れた地下道。食屍鬼グール亜孤姫あこひめは、同族たちに取り囲まれ詰問を受けている最中だった。

 質問の段階で、彼らは鉤爪のある前足を振るって彼女を殴打しはじめていたのだが、別段食屍鬼たちが野蛮で粗暴だというわけでは無い。

 ただ、亜孤姫自体がとかく仲間内で異端視されやすいだけの話だ。彼女が幼い頃からそうだったが、その傾向はここ数年で強まっていた。

 亜孤姫が仲間から異端視される。それは彼女自身の性格と、彼女ではどうにもならぬ血筋によるものが大きな要因だった。


「亜孤や。お前もまぁ……愚かな事をしでかそうとしたもんだな。わざわざ他の種族の、それも邪神なんぞを信奉する野蛮な連中と接触を図ろうとするとは」

「そうだそうだ。そんな事をするからこそ、我らとてあの野蛮な魚面や山羊畜生と同等だと思われて、敵を作ってしまうのだぞ。貴様の親も兄弟たちも、それで生命を落としたではないか」

「まぁまぁ。そんなにいきり立ちなさんな。血気盛んなのは若さの特権とは言うけれど。だがしかし、亜孤姫の先祖の事を思えば、こやつが突飛な事をしでかすのも致し方ないだろうな。何せ亜孤姫の祖母は、魚面の血が混じる人間を伴侶にしたのだから」

「はん。こいつの蛮行は祖母の代から始まっているのか。筋金入りの阿呆とはこのことだな」


 口々に思った事を言い捨てた食屍鬼たちは、そのまま大口を開けて笑い始めた。口は耳までがばと裂け、赤黒いうろのような口内には鋭い乱杭歯が揃っている。

 彼らの口許から漂う腐臭と下水のごとき臭いに、亜孤姫は思わず柳眉を寄せる。それから口の中で血の味が広がっている事に気付いた。殴られた拍子に頬の内側を切ったのだろう。

 亜孤姫はだから、血混じりの唾を吐き出した――呆けたように笑い続ける食屍鬼の若者の頬めがけて。


「愚かな阿呆って言うのはあんたたちの事だと私は思ってるけどね!」


 不意打ちに戸惑う食屍鬼たちを目の当たりにした亜孤姫は、この時確かにいい気分になっていた。だからこそ、こんな本音が口をついて出て来たのである。

 しかもどうした訳か、詰問していたはずの食屍鬼たちは、緊張した様子で亜孤姫を見つめるだけである。それはまるで、下賤の民が貴人を前にしてひれ伏しているかのような状況に似ていた。

 そして実際のところ、ここにいる食屍鬼共はこの私に対してそうして当然だと、亜孤姫は思っていた。元より亜孤姫の先祖は、曾祖父の代までこの地の食屍鬼たちの君主として君臨していた。曾祖父どころか祖母の顔もマトモに知らぬ亜孤姫だが、君主の末裔である事だけは知っていた。


「私の事を愚かだの阿呆だのとあんたたちは言うけれど、私にしてみれば、あんたたちの暮らしだって大概じゃない。こんな辛気臭いあなぐらで、肥溜めに浸かって生ごみを喰らうような暮らしが……健全な暮らしだって言うのかしら?」


 一般的な食屍鬼は地下や穴倉に住まうスカベンジャーである。要するに腐肉や下水に溜まった汚物などを主食として生きながらえているのだ。もちろん、肉にしろ他の食物にしろ、熟成されていない状態のものがある事は知っている。しかし、それらを口にする事を食屍鬼たちは恐れていた。実際問題、熟成されていない青臭い肉や食物を口にしても、消化不良を起こす事が往々にしてあるためだ。

 他の異形たちに較べて力も弱く、強い光への刺激も苦手なため、食屍鬼たちは概ね暗がりで過ごすのが常だった。表皮に苔が生えているのも肌を守るための助けになっているし、猫背の矮躯も狭い地下で暮らすために適応した姿だった。

 混血とはいえ曲がりなりにも食屍鬼である亜孤姫も、こうした食屍鬼の性質は嫌というほど知っていた。知った上で嫌悪感を覚え、生理的に受け付けないと思っていたのだ。なぜこうも、食屍鬼は不潔で卑屈で矮小な存在なのだ、と。


 亜孤姫は食屍鬼の性質に馴染めなかった。仲間が御馳走だと見做す物を腐った汚物と認識していたし、むしろ彼女は青臭く他の食屍鬼が敬遠する青臭い食事の方が好みだった。

 また薄暗い地下を忌み嫌い陽光溢れる明るい場所を好んだ。無闇に身体を洗わずに苔で肌を護る仲間たちのやり方を不潔だと常々思っていた。

 それは異種だった祖父の血に起因するものなのかもしれない。その事が解ったとしても、何も変わる事など無いのだが。亜孤姫にしろ、他の食屍鬼たちにしろ。

 それでも亜孤姫は言葉を続ける。ただただ、おのれの心の動きに従って。


「それにね、人間たちですら『人はパンのみに生きるに非ず』って言葉を知ってるのよ。その人間たちよりも優れているはずの私らは、どうしてこんなくそったれな暮らしに甘んじなければならないのよ」


 言ってごらんなさいよ。そんな思いを籠めながら、亜孤姫は食屍鬼たちを睨んだ。しばし呆然としていた食屍鬼たちは、色めき立ちつつも再び口を開いた。


「よりによってヒトザルの言葉を妄信するとは、やはりお前は異端の狂人だという他ないな、亜孤よ」

「そんな考えだからこそ、カルト教団に興味を持ちやがるんだな。そのせいで、お前の兄弟は全員死んだと言うくせに。いや、俺の妹だって、お前らの兄弟の巻き添えを喰らったんだぞ」

「あんたは生き残っているからまだマシかと思っていたが……お前の異端は悪食だけじゃあなかったのか」

「全くだ。落ちぶれたとはいえ君主殿の子孫だからって情けを掛けてやっていたが、あんたは何処まで恩を仇で返すつもりなんだ」

「恩だって。恩とはどういう事さ」


 やや年かさの食屍鬼の言葉を、亜孤姫は鼻で笑った。


「まさか、私や両親や兄様たちを、この辛気臭い群れに縛り付けていた事を、恩だなんて腑抜けた事を言うんじゃあないだろうね」


 亜孤姫の言葉に、周囲の温度が数度ばかり下がった。少なからぬ数の食屍鬼たちから、怒気が放たれるのも、亜孤姫は肌で感じ取っていた。


「この女、こっちが優しくしてりゃあ何処までも付け上がりやがって……」

「畜生、こうなったら私刑をおっぱじめるか」

「そうだなそうだな。こいつも母親になりゃあ、ちっとはマシになるだろうな」


 若い食屍鬼たちは早くも残忍な愉悦を想像し、頬を緩ませている。亜孤姫はそれを下等生物でも眺めるような眼差しを向けるだけだった。

 同族たちの脅しめいた言葉に恐怖は無い。いざという時は、密かに覚えた術によって撃退する。そんな風に亜孤姫は思っているだけだったのだ。

 と、老いた食屍鬼がこちらににじり寄る。仏頂面にただならぬ雰囲気を滲ませた彼の姿に食屍鬼たちは気圧された――下卑た若人たちだけではなく、亜孤姫までも。


「亜孤姫よ。そなたはこの群れに縛られてなどはおらんのだぞ。確かに私などは、そなたを見るたびにそなたの祖母の事を思ってはいたが……」


 老いた食屍鬼の顔は、寂寥の色に染まっていた。群れの中で最年長である彼ならば、確かに祖母の事も知っているだろう。

 亜孤姫。老食屍鬼は亜孤姫をじっと見つめながら、今一度呼びかけてきた。


「そなたの道は二つに一つ。一つは我らの掟に従って、群れの一員と生きていく道。そしてもう一つは、群れを離れて自由に生きる道だ。だが亜孤姫よ、一度我らから離れるのならば、二度とこの群れに戻る事は赦されんぞ。ましてや、邪教集団への接触を図るのならば尚更にな」


 自分の身柄は縛られていない。そして自分には二つの道がある。その事を提示された亜孤姫の心は、仄暗い地下道の中にあって晴れやかな物だった。

 おのれを殺して群れで辛気臭い暮らしをするか。群れを出て自由を謳歌するか。その二つに一つのうち、どちらを選ぶのか。そんな事はもはや決まりきっていた。


「ああ、そうなのね。私もあれこれうじうじと考えていたけれど、そんなに簡単な事だったのね」


 亜孤姫はそう言うと、踵を返して歩み始めた。彼女を取り囲んでいた食屍鬼たちは、しかし亜孤姫の歩みを止める事は無かった。老食屍鬼の貫禄と気迫に気圧されたのかもしれない。亜孤姫にはどうでも良い話であるが。

 かくして亜孤姫は、何者にも邪魔されずに、生まれ育った群れから離れる事と相成ったのだ。

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