夜の帳 白衣の妖女に出会いたる
終業を知らせるチャイムが鳴った。ああこれで解放されるのだ。そう思った源吾郎は、デスクにいる事を良い事に思わず伸びをしていた。雪羽や白川の視線が突き刺さるが、そんな事を気になどはしない。
思えば今日は長い一日だった。午前中から昼の中頃までは打ち合わせ、それも八頭怪の討伐に関する重要な物である。そしてその打ち合わせが終わった後も、通常業務が待ち構えていた。業務自体は既に慣れたものであると言えども、やはり疲れる物は疲れる。いつだったか長兄は「仕事なんてしんどいのが当たり前なんだぞ」と言っていたが、それは事実だったのだ。
そんな塩梅で疲労感を抱いていた源吾郎であるから、もうさっさとタイムカードを押して帰ろう。さも当然のようにそう思っていたのだ。
「島崎先輩ってば、月曜日からダレちゃってますねぇ~」
タイムカードを押そうと立ち上がった源吾郎に、雪羽が絡んできた。ダレていると言いつつも、特に非難がましい気配はない。むしろ目元や口許には笑みが浮かんでいる。彼としてはじゃれているつもりなのだろう。
「ダレるって、月曜日だからこそダレちまうんだよ」
源吾郎はだから、じゃれついてきた雪羽に対して軽口で応じた。勿論、月曜日だからダレてしまうという部分は事実である。
「それに雷園寺君も知ってる通り、特に俺は最後まで打ち合わせに出席したからな。八頭怪と闘うなんて言う物々しい内容だったんだから、そりゃあ疲れるよ。しかも打ち合わせだけじゃあなくて、普通の仕事だってあったんだからさ」
言いながら、源吾郎は雪羽の顔をじっと見つめる。源吾郎とは異なり、雪羽は元気そのものと言った雰囲気である。もしかしなくても、今日から三國の許に戻れると知って、喜んでいるのだろう。
「しかし、雷園寺君は元気そうだなぁ。やっぱり、三國さんの許に戻れるのが嬉しいんやな」
「そ、それは……」
源吾郎の言葉に、雪羽が照れたように頬を赤らめる。そんなんちゃうわ、と言い出すかと思ったのだが、そう言う訳では無かった。
照れていたのも数秒ほどの事である。雪羽はにわかに真面目な表情を浮かべ、ごくごく素直に頷いた。
「ま、まぁ、それもあるかな。萩尾丸さんに言われた時には驚いたけれど、でも叔父貴の家には野分と青葉だっているから。あの二人の事だって、ちょうど気になっていた所だし」
叔父夫婦の許に戻れる事ではなく、叔父夫婦の子供の事について雪羽は言及していた。それは彼なりの強がりだったのかもしれない。源吾郎は一瞬そう思ったが、その事には言及せずに別の事を口にした。
「そうか。雷園寺君は野分君たちの事が気になるんだな。あの双子ちゃんもまだ赤ちゃんだし、やっぱり雷園寺君はお兄ちゃんだもんな」
雪羽が生粋の兄気質である事は、源吾郎もよく知っている。実の弟妹の為に当主の座に返り咲く事を望み、異母弟の事を因縁抜きに兄としての情を寄せているほどだ。叔父夫婦の間に出来た幼い双子の事を気にかけるのは、雪羽の性格上ごく自然な事だった。実際問題、源吾郎も雪羽から件の双子の写真を見せてもらった事が何度かあるほどだ。
「そうだよ。俺もちゃんとお兄ちゃんをやらないといけないからな。俺ももう、ヤンチャとか好き放題やってるような場合でもないし」
想定通り、雪羽は真面目な表情でそう言った。翠眼は鋭く、決意とまだ見ぬ未来を探る色合いに染まっていた。兄というのはこういう物なのだ。弟妹のいない源吾郎もまた、しみじみとそう思っていた。自分の兄や叔父の事を思い出してもいたのだ。
源吾郎と雪羽は、その後もしばし取り留めもない会話を続けていた。
そしてその時に、源吾郎は気付いた。今日は近くのスーパーにて肉類のセールがあり、それに出向こうと思っていた事を。
※
スーパーへの買い物から戻って来た源吾郎が、再び研究センターの敷地に足を踏み入れたのは、夜の七時を回ってからの事だった。かすかに冬の名残を感じさせるような肌寒さを感じつつも、源吾郎の足取りは軽い。お目当てである鶏肉や豚肉を購入できたためである。夕飯の支度の前に、少し下ごしらえでもやろうか。下ごしらえはさておき、先に冷凍しておこうか。そんな事を考えながら、源吾郎は歩を進めていたのだ。
だからこそ、源吾郎を見つめる妖影がある事に、すぐに気付けなかった。
「島崎源吾郎君、だね」
呼びかけられた源吾郎は、弾かれたようにびくっと身を震わせた。それと共に、それまで施していた変化術が解け、ボリュームのある四尾が腰の付け根から顕現した。
源吾郎がそこまで驚いたのには理由がある。フルネームで呼びかけたその声には、聞き覚えが無かったからだ。しかも、その声は艶のある女のそれだ。
声の主を見つけ出した源吾郎の心は、更なる驚きで満たされた。
想像通りに、声の主は女性、それも美女だった。円熟した色香と冷徹で怜悧な気配。相反するであろう物を彼女は持ち合わせていた。それはもしかしたら、背が高くグラマラスな肢体を白衣の中にかっちりと押し込んでいたからなのかもしれない。しかも細長い楕円のフレームが特徴的な眼鏡をかけていたので、一層神経質な女教師や女研究者と言った雰囲気を漂わせてもいた。
大理石のごとき肌の白さに彫りの深い面立ち、そして灰青色の瞳。髪色は落ち着いた褐色であるものの、彼女の風貌はあからさまに日本人離れしていた。全体的にバタ臭く、西洋人のようだと源吾郎は思った。
もっとも、西洋人とは言ってみたものの、彼女はそもそも人間では無かった。全体的には人に近い姿を取っているが、人では持ち得ぬ特徴を具えていたためである。
頭部には野生羊のごとき巻角。背には翼のごとき青黒いケープ。足首は黒々とした剛毛で覆われ、その直下にはさも当然のように蹄がある。無論それはただの人間がコスプレしたものでは無く――よしんばコスプレだったとしても、このような物を好んで行うだろうか――彼女が元々具えている物である事を、源吾郎は一瞬で看破していた。変化術を修める源吾郎は、他者の変化術を見抜く能力も具えているのだ。
白衣の彼女が、妖怪なのか魔族と呼ぶべきなのかは定かではない。だがいずれにしても人外の者、それも自分よりも遥かに格上の存在であろう。彼女は何者なのだろうか。今更のようにその事に考えを巡らせる。源吾郎の額には、一筋の汗が流れていた。彼女の得体の知れなさ、それでいて源吾郎の名を知っている事に、ある種の緊張と恐怖を覚えていたのだ。
と、硬質な音がすぐ傍で響く。蹄を鳴らし、彼女が二歩ほど源吾郎に近付いていた。女性と言えども背は高く、源吾郎を見下ろせるほどだ。
文字通りの上から目線で彼女は源吾郎を一瞥し、少し困ったような笑みを見せた。
「ああ済まない。まだ名乗っていなかったね。私の事はアルテミシアと呼びたまえ。苗字は特に無いが……強いて言うならパトラのアルテミシアと言った所かな。君の先輩にあたる萩尾丸殿の直属の部下なのだよ、私は」
「萩尾丸先輩の、部下ですか」
源吾郎が言うと、アルテミシアは何かを思い出した様子で言葉を続ける。
「そうだね。むしろ君にしてみれば、林崎殿の同僚と言った方が解りやすいかな」
「はい。その方が馴染みがありますね」
「そりゃあそうだろうね。君は妖狐だから林崎殿とも関りがあるし、何より彼女は世話好きだからね」
アルテミシアはそう言うと、うっすらとその頬に笑みを浮かべていた。穏やかな笑みというよりも、何処か諦観が滲み出ているような、そんな笑顔である。
一方の源吾郎は、先程まで驚いていたのとは打って変わり、落ち着いた気持ちを取り戻しつつあった。アルテミシアが何者であるかはっきりしたためだ。萩尾丸の部下、それも林崎ミツコの同僚であるというのだから、敵や怪しい存在ではない事は明らかだ。冷静に考えてみれば、紅藤が詰める研究センターに、生半可な敵が侵入できない事もまた、自明の話ではあったのだが。
そして冷静さを取り戻した源吾郎の脳裏には、当然のように疑問が浮上していた。何故アルテミシアが、源吾郎に接触を図ったかという事である。
「アルテミシア、さん。一つお伺いしたい事があるのですが」
「もちろん、構わないよ」
一つ断りを入れてから、源吾郎はおもむろに問いかけた。
「アルテミシアさんは僕にお声がけをなさったようですが、一体どういう御用がおありなのでしょうか。萩尾丸先輩は、この事をご存じなのでしょうか」
「大丈夫だ島崎君。少し込み入った話にはなるが、順を追って答えていこうではないか」
幾分中性的な物言い――中性的な物言いは初めからであるが――でもってアルテミシアは告げ、ズレた眼鏡の位置を調整していた。妖艶な見た目とは裏腹に、その言動は理知的で冷静な物だ。そんな風に源吾郎は感じていた。
「まず、私の島崎君との接触だが、そこは萩尾丸殿も把握しているよ。私としては、このまま萩尾丸殿の許に君を連れて行きたい位なのだけどね」
「萩尾丸先輩にお会いするのは構いません。ですがその前に、一旦部屋に戻っても構わないでしょうか」
半ば反射的に源吾郎は言い、それから腕に提げているエコバッグに視線を落とした。
「見ての通り、僕は先程スーパーで買い物を終えた所なのです。鶏肉と豚肉を買ったので、早めに冷蔵庫に直しておきたいと思いまして。まぁ一応、氷は貰ってるんですがね」
真面目くさった調子で源吾郎が言うと、アルテミシアは何故か唐突に笑い始めた。生真面目そうな彼女が笑う所に拍子抜けした源吾郎であったが、ともあれ一旦部屋に戻る事は許可されたのだった。
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