若狐 忠義の行方に思いを馳せる
そらそうだわな。明るくやや間の抜けた声と共に、源吾郎の肩に手が添えられた。声の主は、肩に手を添えたのは先輩妖狐の白川だった。
「良いか島崎君。女妖怪が、子を身ごもってから産み落とすまでの間に、自分の妖力を消耗する事はお前だって知ってるだろう。その理屈から行けば、二尾の母親から三尾の仔なんて産まれやしないさ。それまでに母体が衰弱死するか、そのまま流産するかの二つに一つだぜ」
衰弱死に流産。白川の語った言葉の凄惨さに、源吾郎は言葉も出なかった。そうした事は男の身である源吾郎には縁遠く、それ故にひどく恐ろしい事のように思えたのだ。実際に恐ろしい事には変わりないだろうし。
そうだよ。断定的に、白川に加勢するかのような声が上がる。声の主は雪羽だった。彼は源吾郎をぐっと見据えると、そのまま口を開いたのだ。
「島崎先輩にはちとショッキングな話だったかもしれませんけれど、白川先輩の言う通りっすよ。この前生まれた叔父貴の子供たちだって、一尾として生まれましたもん。母親である月姉は、それこそ六尾ですけどね。それに俺だって、二十足らずで三尾になりましたが、流石に産まれた時から二尾では無かったんすよ。それこそ、時雨が生後数か月で二尾になったとかだったんじゃないっすかね」
そこまで言うと、雪羽は笑みを深めて言葉を続けた。
「そんな訳なんで島崎先輩。世間では、二尾以上で生まれるって事は結構まれなんですよ。まぁ、島崎先輩は半妖ですし、妖怪社会にちと疎そうなので、その辺は詳しくないかもしれませんがね」
雪羽の言葉には若干の嫌味が込められているようだった。だがそれに言及しようかどうか考えているうちに、午後の中休みのチャイムが鳴り響く。源吾郎が特に何も言わぬままに、皆は休憩だとばかりに解散してしまったのだ。
※
「どうしたんだい、島崎君。休憩時間にやって来るなんてさ」
見つけ出した萩尾丸の表情と言葉は、いかにも飄々としたものだった。それを目の当たりにした途端に、源吾郎は熱い血が頭へと昇っていくのを感じた。脳裏に、紅藤とのやり取りが蘇ったのである。厳密に言えば、峰白との密談が終わった後の、紅藤に対して見せた笑みだった。
萩尾丸先輩。低く憎悪を漂わせた口調と、剣呑な眼差しでもって源吾郎は問いかける。萩尾丸は表情の読めぬ笑みを浮かべたままだった。源吾郎の表情に気付いていない訳ではない。気付いた上で笑い続けているのだ――取るに足らぬとでも思いながら。
「先程の、紅藤様に対する態度について、お尋ねしたい事があるのです」
「僕の、紅藤様への態度だって。一体何が言いたいのかな、島崎君?」
ここにきて萩尾丸の表情が僅かに揺らぎ、眉根を寄せた。源吾郎に対する恐怖心らしきものは見当たらない。当然の事ではあるのだが、何故か今の源吾郎にはそれが腹立たしくてならなかった。
「萩尾丸先輩は、涼しい顔をなさって、紅藤様を騙そうとなさっていたじゃあありませんか」
紅藤様の一番弟子が聞いてあきれる態度じゃあないか。源吾郎はそこまでは言い切らなかった。
「僕が紅藤様を騙す? 君は何の話をしているのかな。その辺りをきちんと聞かせて欲しいのだけど」
萩尾丸に睨まれ、源吾郎は一瞬怯んでしまった。それでも源吾郎は唇を震わせながら言葉を紡いでいった。
「峰白様から、紅藤様の事をそれとなく監視するようにって言われましたよね。だというのに、萩尾丸先輩はその事を押し隠して、何事もなかったかのように紅藤様に接してらっしゃったではありませんか。それは欺瞞そのものですよ!」
「何だ。君が切羽詰まった表情を見せるから何事かと思ったら、そんなしょうもない事を考えていただけだったんだね」
そこまで言うと、萩尾丸はあからさまにため息をついた。源吾郎に対する当てつけであろう事は言うまでもない。
「いかな紅藤様と言えども、馬鹿正直に『あなたは平静を失ってらっしゃるから、僕たちは峰白様に言われて監視する事になりました』なんて報告しても問題ないと、君はそんな風に思っているのかい?」
「違います……」
源吾郎の言葉は弱々しかった。萩尾丸が口にした事がおかしいのは解っている。しかし、自分がどう思ったのかを伝える術がなかった。考えはあるのだが、それを上手く言語に落とし込めない。それが源吾郎にはもどかしかった。
それでも、源吾郎は言葉を紡いだ。冷徹にこちらを見つめる萩尾丸の眼差しが、源吾郎を喋らせているような気さえした。
「萩尾丸先輩が仰った事は、流石に僕もおかしいと思います。ですがその、あるじであるはずの紅藤様に対して秘密を抱えて、その上で何事もなかったかのように振舞うなんて……ましてや、峰白様は今の紅藤様のお考えに疑念を抱いているのですから」
成程ね。短く呟く萩尾丸の表情が一変した。先程までの厳しさがなりを潜め、合点がいったと言った様子を見せたのだ。そのためか、柔和な表情をその面に浮かべていた。
「島崎君。僕が紅藤様を騙していると感じたのは、紅藤様のお考えに反して僕が動こうとしたから、もっと端的に言えば、あのお方のお考えに疑念を抱いたから、と言う事になるのかな?」
「は、はい。そうなりますかね」
半ば反射的に源吾郎は頷いていた。顔を上げて視線を戻すと、笑みを深めた萩尾丸とばっちり目が合う。ここで何故萩尾丸が満面の笑みを浮かべているのか。その意図が読めなかったために、何とも言えぬ不気味さを源吾郎は感じていた。
「そうか。島崎君は、そんな風にあのやり取りを捉えていたんだね。良いかい島崎君。先程の言葉で、君が紅藤様に心底忠義を尽くそうとしている事がはっきりと解ったよ」
またしても源吾郎は頷いた。但し無言のままで。源吾郎が紅藤に忠義を尽くしている。萩尾丸にそのように評されたものの、喜ぶべきなのかどうか解らなかった。あるじに忠実である事は美徳になる。その事は頭で解っていたはずなのに。
それに今の話の流れでは、萩尾丸も手放しに喜ぶだけではない。そんな事を、源吾郎はうっすらと感じ取ってもいたのだ。
「狐の性質には善悪は無く、ただ忠の心があるのみ。それは妖狐である島崎君も知ってるよね?」
「存じてます」
妖狐には善狐と悪狐ないし野狐の二大種族が存在する。人間たちの間で信じられている通説であるが、これは全くの嘘である。善狐と悪狐という分類は、あくまでも人間サイドで都合よく見た場合の話に過ぎない。そうでなくとも、完全に善ないし悪なる存在など、この世にはいないだろう。
萩尾丸の説明通り、妖狐の中にあるのは忠の心である。どんな狐の中にも、忠義を尽くす存在があるという意味だ。妖狐の善悪は、むしろ何に仕えるかによって変わるともいえる。善なる者に仕えるのであれば善良であるし、悪なる者に仕えるのであれば邪悪とも言えよう。そして、忠を尽くすべき他者を見いだせなかった狐はというと――おのれの心に忠義を尽くすようになるのだ。そんな狐が善悪のどちらかに転ぶのかは、その狐の心次第である。
もちろん、源吾郎もいっぱしの妖狐として、そう言う事は知っていた。そして源吾郎の忠義の心が、紅藤に傾いているという事も。後者についてはそれほど意識していた訳ではないが。
萩尾丸は、源吾郎をじっと見下ろしながら言葉を続けた。少し物憂げな、思案するような表情を見せながら。
「君が紅藤様に忠義を尽くそうとしている事は、僕としても喜ばしい事だと思っているよ。だけど、君の忠誠心はまだ幼くて未熟だという事が、君とのやり取りではっきりしたよ」
源吾郎が戸惑っている間にも、萩尾丸は澄まし顔で言葉を続ける。
「島崎君。君はきっと、紅藤様に仕えて忠義を尽くすのであれば、彼女と同じ考えでなければならないと、彼女の考えに疑問など持ってはいけないと思っているんだろうね。
だけど島崎君。紅藤様を尊敬し忠義を尽くす事と、あのお方と意見や考えが異なってしまう事とは別問題なんだよ。僕にしろ紅藤様にしろ、自分に耳障りの良い事だけを口にするイエスマンなどは欲しくは無いんだ。むしろ僕などは、有事の折には面と向かって意見してくれる妖怪こそ、信用できる部下だと思っているんだ。
だからまぁ、そう言う意味では、今回君が食って掛かってきたのも、良い事なのだろうと思うけどね」
萩尾丸はそう言って笑っていた。源吾郎は笑おうとして表情が引きつっただけだった。皮肉だと気付いたためだ。
「それにそもそも、いかな尊敬し忠義を尽くす相手と言えども、おのれの意見を押し殺して従う事はしんどいだろう? 特に島崎君は、大人しく振舞っているとはいえ我が強いんだからさ」
それはその通りです。源吾郎はそう言おうとした。しかしその直後にチャイムが鳴ったので、源吾郎の呟きはかき消されてしまったのだが。
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