若狐 帰りの道で出会いたる

 母との対面での話し合いは、小一時間程度でお開きとなった。ともすれば数時間も拘束されるのではないかと身構えていたので、源吾郎の予想よりもはるかに短い時間で話し合いは済んだ。

 と言っても、話の内容は薄っぺらなものでは無い。現実改変の能力を皮切りに、源吾郎はここ最近あった事を洗いざらい話した。先祖たる玉藻御前と這い寄る混沌との関係。這い寄る混沌の彫像を若菜より継承した事。そして――源吾郎が継承した這い寄る混沌の権能が、八頭怪との闘いの決め手になるであろう事も。


 話し合いが行われている間の、源吾郎と母の表情は対照的だった。

 源吾郎は始終緊張し、時に言葉を詰まらせもした。一方の母は、始終落ち着いた様子で話に耳を傾け、時に頷くだけだった。源吾郎が這い寄る混沌の権能を継承したと耳にしても、八頭怪と闘う事になったと語っても、だ。

 全ての話を聞き終えてから、母はうっすらと微笑んだ。何処か作り物めいた、ぎこちなさを伴う笑みだと、源吾郎はその時気付いてしまった。


「源吾郎。あなたが私の他の子供たちと違う生き方を歩むであろう事は、あなたが生まれる前から解っていたわ」

「そう、ですか」

「だけど、私が予想していた以上に、大きな事に巻き込まれそうなのね」


 母がそう思うのも致し方ない事だろうな。頷きながらも、源吾郎は何処か醒めた気持ちでそんな風に思っていた。元より母は、玉藻御前の孫娘という立場にありながら、ごく普通の妖怪ないしは人間として生きる事に腐心している。源吾郎が抱くような最強の妖怪になるという野望とも、それに付随する抗争とも無縁であろう事は、深く考えずとも明らかな話だった。

 ましてや源吾郎の属する組織は八頭怪と対立し、今や正面衝突は避けられない事態になっているのだから。


「――まぁ、それこそが俺の天命だろうけどね」


 先程とは打って変わり、源吾郎は明るく弾んだ声音で告げる。母がじろりと眼球を動かし、源吾郎を睨んだ。皮肉にも、話し合いが始まってから母の表情が大きく揺らいだのは、まさにこの瞬間だった。


「青梅が先に黄梅よりも落ちる。源吾郎。読書好きなあなたなら、この言葉がどういう意味か解るでしょう」


 唐突に放たれた母の言葉に、源吾郎は頷く事も瞬きをする事も忘れていた。その間にも、母は更に言葉を重ねる。


「あなたにはすぐに落ちる青梅になって欲しくない。私はそう思っているの」


 そこまで言うと、母はもう何も言わなかった。だが源吾郎には、母の言わんとしている事は十分に伝わっていた。ニュアンスもさることながら、黄梅と青梅を用いたことわざの意を、読書好きの源吾郎は知っていたためである。


 かくして用事は済んだとばかりに実家を後にしようとした源吾郎であるが、見送る者の中には名残惜しさを隠さぬ者も見受けられた。その筆頭が、長兄の宗一郎である事は言うまでもない。

 泊って行かないのかどうか、車で送らなくても大丈夫か。夕食はどうするのか。そうした問答を三度ばかり繰り返したのち、宗一郎はやや考えてから小さな紙袋を源吾郎に差し出した。中を覗き込んで確かめずとも、何であるかは源吾郎には解った。総菜の香りは、タッパーに詰め込んだ所では遮断されていないからだ。


「源吾郎にも源吾郎の都合があるよね。いかな家族、兄弟と言えども、無理を通すのはやっぱりいけないし……」


 宗一郎の説明によると、やはり紙袋の中に入っているのは夕食のおかずの一部であるらしい。母と源吾郎が話し合っている間に、宗一郎は夕食の準備をしていたそうだ。休日なので夕食の準備が早いのは何らおかしな事ではない。しかしもしかしたら、源吾郎がここで夕食を摂る事を密かに想定していたのかもしれない。

 宗一郎ならば、いかにもそう言う事を考えそうであった。


「君の事だ。きっと家に戻ってから夕食の準備をしようと思っていたんだろう。だからこれをあげるよ。源吾郎とはちと味付けとか調理方法は違うかもしれないけれど、君にしても食べ慣れた味である事には変わりないだろうから……」


 宗一郎の手料理を、源吾郎が食べ慣れているというのは事実だった。男子は厨房に入らずという格言は島崎家には無い。むしろ母の三花は、息子らを積極的に台所に入れ、料理を仕込んできたくらいである。そのうち料理は父母特有の仕事ではなくなり、行えるものが行うというシステムが構築された。源吾郎が手料理を嗜む事が出来るのもそのためであるし、長兄や次兄が夕食を用意するのも、さほど珍しい事ではなくなったのだ。


「あ、ありがとう、宗一郎兄様」


 もうすぐ十九になろうという青年への対応というには、宗一郎のそれはいささか過保護に思えてならない。源吾郎はしかし、そうした感情を押し殺し、無邪気に感謝の念を口にした。兄姉というのは幼い者を庇護したがり、愛玩したがるのだ。そうした欲求を叶えてやる事もまた、幼く可愛い仔狐の務めであり処世術でもあった。

 それに実際のところ、用意された夕食への感謝の念は偽りなどではない。宗一郎の料理は兄姉たちの中でも美味しいし。

 源吾郎は紙袋に視線を落とし、中のタッパーを見た。弁当箱ほどの大きさで、チキンステーキと半分に切ったゆで卵、そして付け合わせであろう温野菜が詰め込まれている。

 顔を上げて宗一郎に視線を戻し、源吾郎は再び口を開いた。


「このタッパーは、向こうで洗って兄様に返すよ。と言っても、宅配便を使って送るつもりだけど」


 おかずは今宵頂くとして、おかずが入っていたタッパーをどのように返却するのか。それが源吾郎の懸念事項だった。タッパーを返すためだけに再び実家に戻るのも手間がかかるし、さりとて長兄が源吾郎の許まで訪ねてくるのも面映ゆいし気まずい。

 そうなると、宅配便を利用するのが一番ではないか。源吾郎はごく自然にそう思っていた。

 源吾郎の言葉に、宗一郎は一瞬驚いた表情を見せ、それから優しく微笑んだ。


「タッパーは返さなくて良いよ。それも君にあげたんだから、ね。源吾郎も料理をしているんだから、タッパーは余分にあっても困らないでしょ。それにこいつも安物だから、別に一個減っても問題ないから、さ」


 そこまで言うと、宗一郎は笑みを深めた。母や叔父の苅藻が見せる様な、いたずらっぽい笑顔だった。


「それにね源吾郎。僕は夕飯のおかずをあげるとは一言も言ってないだろう。だからタッパーもその紙袋も、君の物だから、ね」

「……本当に、ありがとうね宗一郎兄様。何か色々と気を回してくれて、申し訳ないよ」

 

 源吾郎の口から二度目の感謝の念が零れ落ちる。先程の社交辞令とは異なり、本心からの言葉だった。生真面目な長兄の見せる優しさがありがたく、それでいて何処か恐ろしくもあった。

 宗一郎は、ただただ鷹揚に微笑むだけである。やにわに源吾郎の肩に手を添えたかと思うと、さっぱりとした笑みを浮かべながら言い添えた。


「良いんだって。僕にしてみれば可愛い弟の一人なんだから、さ。それにまぁ……源吾郎も僕の知らない所で、ちゃんと頑張っていると思っている。昔から君には僕も厳しい事ばかり言っていたから、たまには甘やかしても悪くはないだろうと思ったのさ」


 ところで。言いたい事をひとしきり言ったのかと思ったが、宗一郎はまだ話したい事があるらしい。呼びかけた時には、彼は既に真面目な表情を浮かべていた。


「源吾郎は今、小鳥を飼っているそうだね。ちゃんと可愛がって面倒を見ているかい?」


 唐突な長兄の問いに、源吾郎は目を丸くした。何故小鳥の、ホップの事について言及したのか。源吾郎には宗一郎の意図がすぐには解らなかった。

 だが、数秒ほどしてから意図が何となく読めた。

 半月ほど前に、源吾郎は米田さんに送るはずのメールを長兄に誤って送信していた。誤爆の原因は、源吾郎に向かって飛びついてきたホップだったのだ。そしてその事を、宗一郎も知っている。源吾郎が話したからだ。

 恋人へのメールを間違って長兄に送ってしまった。そんな恥ずかしいミスを誘発した小鳥に対して悪感情を抱き、蔑ろにしていないか。長兄はそんな懸念を抱いていたというのか。

 源吾郎もまた真顔になり、何度も繰り返し頷いた。


「あ、小鳥。小鳥ってホップの事だよね。宗一郎兄様、その辺も大丈夫だよ。まぁあいつも気まぐれでごんたくれだけど、可愛い使い魔……いやペットには変わりないからさ。うん、言う事を聞かないのは仕方ないよ。単なる小鳥と変わりないもん」


 口早に源吾郎が言うと、宗一郎は目を細めてそれは良かった、と言うだけだった。やり取りを聞いていた長姉の双葉も「源吾郎ならホップちゃんの事をめちゃくちゃ可愛がってたわよ~」とさも呑気な様子で言っていた。


 新快速の列車が参之宮に到着すると、源吾郎は迷わず下車した。吉崎町の半ばに向かう直通バスに乗り込むためである。今までは更に私鉄などを乗り継いでいたのだが、直通バスの方が何かと便利であると気付いたのだ。

 強いて言えば、バス代がやや高い事がネックであろうか。しかし山間を走る私鉄もそこそこ値が張るし、何より時間が合えば私鉄よりも早く帰る事も出来る。

 それに今日は土曜日である。急いで帰る必要も無いのだ。十姉妹のホップが留守番しているのだが、帰りが遅くなる事も見越して餌や水は多めに入れている。泊りがけではないから、仮に夜遅く帰って来たとしても、ホップの方は大丈夫であろう。そんな風に源吾郎は考えていたのだ。

 あれこれと算段をつけながら帰りのルートを考えていた源吾郎であったが、時刻表を確認した時には思わず声を上げていた。バスは先程出たばかりであり、次のバスが来るまでに四十分近く間があるのだ。

 しゃあないな。何処かで時間潰しでもしようか。源吾郎は心の中でそう思った。車を運転出来れば話は異なるかもしれないが、生憎源吾郎はマイカーを持っていない。免許は所得しているから、貯金が出来れば車を買うのもやぶさかではないと思っている。

 米田さんは「どこでも車で向かえば良いという物でもないのよ」といつだったか教えてくれたのだが、それは都市部に暮らすが故の感想であろう。都市部の道路は狭く、そしてごちゃごちゃと入り組んでいるのだから。

 外は暗くなり始めてはいるが、まだ六時を回った程度である。店じまいにはまだ早い時間であるし、何となれば居酒屋などは営業を始める時間かもしれない。

 未成年ゆえに源吾郎は居酒屋やバーには入らないが……いずれにせよ時間潰しする場所には困りそうにない。どの道魔道具セットと夕食を両手に提げているから、本屋や古書チェーンのブック・インでウィンドショッピングに洒落込む事になるだろう。とりあえず、近場の本屋にでも向かってみるか。源吾郎はそう思い、バス停に背を向けて歩み始めた。


「あ、源吾郎、源吾郎じゃない!」


 聞き慣れた声が、源吾郎の斜めから投げかけられたのは丁度その時だった。若い女性の声で、それだけでも叔母のいちかだとすぐに判った。

 源吾郎は歩みを止め、すぐに声のした方を振り仰ぐ。叔母の声には驚きの念が込められていたが、それ以上に喜色にも満ち満ちていた。


「こんばんは、叔母う、え――」


 挨拶をしようとした源吾郎は、いちかの姿を見て思わず言葉を詰まらせた。親交のある若妖怪の男女を伴っていたのだが、その中に米田さんの姿を発見したからである。

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