若狐 ふとした拍子に成長示す

 さて源吾郎は長姉の双葉や末の兄の庄三郎と共に、母に率いられて店へと向かう事にした。途中までは徒歩だったが、目的地に向かうには電車に少し乗らなければならないとの事だった。白鷺城を一望できる城下町の界隈は確かに広い。とはいえ、それでも全ての物や店が揃っているという訳でもないのだ。


「お金の方は大丈夫かしら、源吾郎」


 母から気遣わしげな様子で問われたのは、駅前の券売機での事だった。源吾郎は既に切符を買っていたし、往復で買ったとしてはした金程度の出費だと思っていた。

 源吾郎はだから、唐突な母の気遣いに驚き、そして首をかしげたのだ。


「往復で五百円程度だから大丈夫だよ。それにしても母様。何で急にお金の事を心配したの。もしかして……」

「源吾郎も、色々とお金がかかる時期になっているだろうから。それでちょっと聞いてみただけよ」


 源吾郎の言葉を遮るように、母は言い放った。否定とも肯定ともつかない物言いである。源吾郎はしかし、落ち着いた母の言葉に安堵してもいた。今日の切符代は母様が出してくれるの。遮られなければそこまで言ってしまいそうだったからだ。


「お金がかかるだなんて大げさだよ。五百円程度なんて、俺にしてみればみたいなものだしさ」


 はした金。その部分を強調したためなのか、母は僅かに顔をしかめ、源吾郎を見つめ返した。


「はした金だと言って小銭でも軽んじていたら大変な事になるって、ちっちゃい頃から教えてきていたでしょ」

「そうよ源吾郎。妖怪として暮らしているからと言って、お金を馬鹿にして良いって理屈はないわよ。てか、妖怪たちもお金を使って暮らしているじゃない」


 母の言葉の後に放たれた女の声に、源吾郎は思わずぎょっとした。声の主は、もちろん長姉の双葉である。双葉はいつになく鋭い眼差しで源吾郎を睨んでいて、それ故にぎょっとした。

 この手の説教は、長兄の宗一郎が一手に引き受けていた。宗一郎以外の兄姉であれば、次兄の誠二郎がごくまれに何か言い募ったり、指導したりする事がある程度である。

 元より双葉は生真面目な兄らと異なり、奔放でおおらかな気質の持ち主である。生きた玩具代わりに弟らで遊び、弟らをからかう事を楽しんでいるような姉なのだ。末弟と言えども、弟たちを叱責し指導する事は珍しい物だった。ましてそれが、末弟の源吾郎であったとしても、だ。


「だ、大丈夫だって双葉姉様。俺だって、お金の使い方とかはそろそろ真面目に考え始めてるんだからさ……」


 源吾郎の言葉は真実だった。一人暮らしを始めた頃からお金の使い方は考えねばならなかったのだが、その事をより強く意識し始めたのは今年に入ったからである。

 そうした意識の変化点は、やはり米田さんと交際し始めた事にある。なるべくお金のかからないデートを互いに心掛けてはいるものの、それでも喫茶店に入るくらいの事はする。それ以前に、源吾郎は米田さんに会うために港町や大阪などに出向いている。大金を使わぬように意識していたとしても、交通費や飲食費はどうしてもかさんでしまうのだ。

 今となっては、米田さんとの交際費はどうしても確保したいものの一つになっていた。更に言えば「遊びの男は本命と違ってデートにお金を掛けないそうよ」という鳥園寺さんの言葉が、呪縛のようにのしかかっていた。あまりデートの費用をケチっていると、米田さんも次第に疑念を抱くのではないか。それは源吾郎としては避けたい所でもある。

 そのような理由から、源吾郎もいよいよ節約を考え出した次第なのである。と言っても、切り詰められそうなのは食費、ついでちょっとした物の購入を控えると言った程度であるが。


「母さんも双葉姉さんも、あんまり源吾郎を問い詰めたら可哀想だよ」


 これまで黙っていた庄三郎がふいに声を上げる。ただ単に自分の切符を買い終えただけなのかもしれないが、それでも心強い事には変わりない。

 源吾郎と目が合うと、庄三郎はにこりと微笑んだ。含みの無い、いっそ無邪気で純粋な笑顔だった。


「お金の事に関しては、僕よりも源吾郎の方がしっかりしてると思うんだ。一人暮らしをやってる最中にお金がないとかそんな事で僕たちに泣きついたりしないし、何よりお正月は僕にお年玉を渡してくれたんだからさ」


 今年は源吾郎からもお年玉をもらった。無邪気な様子で語られた庄三郎の言葉に、源吾郎は隠していた尻尾が飛び出しそうになった。庄三郎にお年玉を渡した事は、両親や兄姉たちには秘密にしておきたかった。無論悪い事をしている訳ではない。ただ、上の兄姉三人にはお年玉を渡さずに、末の兄だけにお年玉を渡すのは平等では無いような気もしたのだ。芸術家という肩書を持つとはいえ、定職に付かず収入も不安定である事を差し引いても、だ。

 つまるところ、末の兄にお年玉を渡しているという事を根拠として、他の兄姉たちからもお年玉を渡す事を要求されるのではないか。その事を源吾郎は危惧していたのだ。特に双葉などは、そんな事を言い出しかねないし。

 源吾郎はそっと母と長姉の様子を窺った。二人はまず目配せし、それから庄三郎と源吾郎を交互に眺めていた。二人の顔には驚きの色が貼り付いていたが、とんでもなく驚いたという感じでも無かった。

 そしてそれから――母と長姉は笑い始めたのだ。


「あらあら。源吾郎ってばお父さんやお母さんだけじゃあなくて、庄三郎にもお年玉を渡していたのね。庄三郎は源吾郎にとってお兄さんだから、そこまで気を回さなくても良かったのに。でもきっと、理屈で動いた訳じゃあないって事は、お母さんには解るわよ」

「ふぅん。源吾郎庄三郎にお年玉を渡していたのね。去年までは私たちからもらう側だったのに、渡す側に回れるなんて結構頑張ったじゃない。

 ああだけど、やっぱり源吾郎も私たちの弟よね。何も言わなくても、庄三郎にこっそりお年玉を渡しているんだから。源吾郎も薄々勘付いていると思うけれど、私らも庄三郎にはお年玉を渡しているのよ。寸志レベルではあるけどね。でも別に、それってお兄ちゃんに命令されたとか、兄弟三人で示し合わせた訳じゃあんだけどね」


 感心したような双葉の言葉に、源吾郎は素直に安堵する事が出来た。長姉は、そして他の兄らも、源吾郎にお年玉やお小遣いを要求するような態度は無さそうだからだ。だがそれ以上に、容貌がまるきり異なる兄姉たちとの、血の繋がりのような物をひしひしと感じ取ってもいたのだった。


 電車を降りた先に広がるのは、見慣れた城下町とは異なる風情の町並みだった。いかな姫路が大きな都市と言えども、城下町ばかりが広がっている訳でもない。それこそ、少し離れれば山もあるし田園が広がっているエリアもある。

 但し今回やって来たのは田園地域ではなく、城下町ほどでは無いにしろそこそこ家や店舗の集まるエリアだったのだが。それこそ、小学校や中学校での校外学習や遠足で、足を運んだ事があるような場所だと思った。


「お店までは歩いて五分ほどの所にあるから、ね」


 先を進む母が、周囲を一瞥しながら言う。遠足で引率する教師と生徒のようだと思ったのは、直後に長姉と末の兄が各々返事したからなのかもしれない。実際には教師と生徒ではなく親子であり、しかも姉も兄も大の大人なのだけど。

 何を思ったのか、母が歩を止めてこちらに向き直った。鋭く険しい眼差しで、双葉と庄三郎を交互に眺めている。いや、庄三郎に眼差しを向ける比重の方が、やや多いように感じられた。


「念のため言っておくけれど、双葉と庄三郎はお店に入ってからはあんまりウロウロしないように気を付けるのよ。二人も源吾郎と同じく半妖ではあるけれど、むしろ人間の血が濃くて人間としての気質が強いでしょ。世間の妖怪たちは悪いやつばかりではないけれど、それでも人間や半妖を良く思わない者もいるから、その辺りは用心なさい、ね」

「それなら大丈夫よ、お母さん」


 長々とした母の言葉にまず応じたのは、長姉の双葉だった。


「お母さんも知ってると思うけど、私は二十三の頃からオカルトライターの業界に踏み入れているわ。だから、何に用心すべきなのか、何を警戒すべきなのか、そこは私なりに心得ているの。流石に弟たちまで護るのは無理があるけれど――自分の身は自分で護れるわ」


 獣の瞳で語り終えた双葉を前に、源吾郎は嘆息の声を漏らしていた。先程までのフワフワした空気は消え失せ、双葉は早くも仕事モードに切り替わっていたのだ。

 玉藻御前の血を受け継ぐだけあって、双葉は世間では美女の類に入るらしい。その上オカルトライターなどをやっているから、「美しすぎるオカルトライター」などという頭の悪い通り名なども付けられているという。

 しかし、オカルトライターとしての双葉の強みはそれではない。父より教えられたオカルト・怪異方面への豊富な知識、妖狐の血がもたらした高い身体能力、そして危険を察知し退くべき時を見定める判断力。それこそが、島崎双葉を優秀なオカルトライターたらしめる要素だった。

 有事の際は弟たちを護れない。いささかドライなこの発言も、見方を変えれば現実的で誠実な意見とも捉える事が出来るのかもしれない。もっとも、誠実というのは「弟たちに淡い期待を持たせない」という意味合いに過ぎないが。

 とはいえ、可愛い(?)弟たちに対し、有事の際は見捨てると大々的に言うのは如何なものだろうか。兄上だって怯んでいるじゃあないか。そんな事を思いながら、源吾郎は庄三郎の方を見やった。


「まぁ姉上はほぼほぼ人間と同じだから、妖怪が襲い掛かってきたら逃げるのがやっとだよね。でも兄上、その時は俺が兄上を、いや母上や姉上も、この俺が護るよ」

「源吾郎……」


 庄三郎の口から呟きが漏れる。喜んでいるのか照れているのか、はたまた悔やんでいるのか。複雑に入り混じった感情たちが頬を紅く染め上げていく中で、庄三郎は口を開いた。


「そんな、弟である君に護ってもらうなんて、申し訳ないよ」

「別に、兄上の為に護る訳じゃあないぜ」


 鼻で笑いつつ、源吾郎は返答する。どういう訳か、源吾郎もまた、照れくさい気持ちが駆け巡り始めていた。


「兄上が妖怪に襲われたりしているのに、黙って何もしないでいるって言うのは寝覚めが悪いもん。だから兄上を助けるとしても、それは俺自身の為って事になるのさ」


 気が付けば、母は庄三郎と源吾郎のやり取りを眺めていた。その上で、母は穏やかな笑みを浮かべている。気恥ずかしさと照れくささが、源吾郎の胸の中で膨れ上がった。


「あらあら源吾郎。さっきの話を聞いていて思ったけれど、源吾郎も見ない間に大人になったわね。ずっと仔狐かなって思っていたら、そりゃあ源吾郎にも失礼よね」


 母の言葉に、源吾郎は返答しなかった。気恥ずかしさのあまり顔面が熱を帯び始めた事に気付き、思わず俯いてしまったからだ。

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