第十四幕:狐の日常、化鳥たちの計略

若狐 家族に呼ばれ舞い戻る

 白鷺城下町某所。いつになく賑やかな昼食を終えた源吾郎は、ため息をつきつつ部屋の天井をぼんやりと眺めていた。

 下の階の喧騒はこの部屋から遠く、いっそ静まり返っていた。しかしだからこそ、源吾郎の脳裏には様々な考えが渦巻き始めていた。不安、不満、心のもやもやに憂鬱。血の気の多い若狐と言えども、負の感情を見つめ続けていたら気も重くなる。源吾郎はまたしてもため息をついた。

 その時である。源吾郎の斜め後ろから、小さな物音が上がった。部屋のドアが開く音と、少し遅れてやや静かな足音が続く。源吾郎はゆっくりと振り返り、音の主を見やった。別に警戒していたからではない。そもそも、部屋に誰かが入って来たとしても警戒する必要すらない。

 何故なら、源吾郎は今実家に戻っているからだ。もっと言えば今彼がいるのは自室である。厳密に言えば末の兄との相部屋であったが、いずれにせよこうして部屋に入って来る者は限られている。

 予想通りと言うべきか、部屋に入ってきたのは庄三郎だった。傾城傾国の妖狐の美貌を色濃く受け継いだ彼は、弟たる源吾郎と目が合うと、その秀麗な面に妙に陽気な笑みを浮かべた。その笑顔に源吾郎は面食らってしまった。魔性とでも言うべき美貌の持ち主である庄三郎は、それ故に何処か翳りのある表情を見せる事が多かったからだ。

 どうしたんだい。そうして呼びかける庄三郎の声音は、やはり兄の物だった。弟の身を案じる、兄としての役目が滲み出ていた。


「源吾郎。君は実家に戻ってきたというのに、何故そんなに浮かない顔をしているんだい。そりゃあまぁ君の歳なら父さんや母さんに会うのが恥ずかしいとか、色々思う事があるって言うのは僕にも解るよ。だけど、そうして拗ねていたら父さんたちも心配するだろうから、ね」

「別に拗ねてなんかないさ」


 源吾郎の口から飛び出してきたのは、反駁と否定の言葉だった。我ながら生意気な物言いだと思ったが、相手が末の兄である事に起因しているのだと、源吾郎は自身の中で結論付けていた。源吾郎自身は、兄姉たちの事を彼なりに敬ってはいる。しかし末の兄に対しては、他の兄姉らに較べて若干砕けた態度になりがちだった。年齢差も七歳程度とそれほど離れていない事、庄三郎自身が態度の持ち主である事が原因だろうと、源吾郎は思っている。

 だからこそ、少し物憂げな表情を見せる庄三郎に対し、気を許して言葉を続けた。


「庄三郎兄様。本当は俺、今日は彼女とデートする予定が入っていたんだよ。米田さんは、彼女は仕事が大分忙しくて、中々予定が合わなかったんだけど。それでようやく日取りがあったと思ったら、木曜日の晩に母様から呼び出しを喰らっちまったからさぁ……」


 源吾郎は言葉を吐き出しつつ、母との電話のやり取りを思い出していた。やり取りというにはいささか一方的な話だった事が印象的だった。何しろ母は「どうせ源吾郎も休みは暇なんでしょ」と決めてかかっていたのだから。そんな母を前に、土曜日は米田さんとデートがあるなどとは言い出せなかった。


「彼女、彼女かぁ……」


 庄三郎はやや頓狂な声音で彼女、と二度ばかり繰り返していた。切れ長の瞳も丸く見開かれており、控えめながらも驚きの念が籠っている。

 それを見た源吾郎は、何故か愉快な気分になっていた。


「へへへっ。俺だってもう社会妖しゃかいじんだし、あとちょっとで十九になるんだ。そりゃあ彼女くらいできるさ。だから兄上もそんなに驚かなくても良いんだぜ。いや、驚いてもらったのは何となく嬉しいけれど」


 源吾郎が軽口を叩いて笑うと、庄三郎も何処かいたずらっぽい笑みを浮かべていた。


「あはは。源吾郎にが出来たとなったら、もうちょっと驚いたかもしれないけどね」

「え……」

「冗談だよ冗談。源吾郎の恋愛対象が、昔から女の子だけだって事は、僕もちゃんと知ってるからさ」


 付け加えられた庄三郎の言葉を、源吾郎は微妙な表情で受け流すのがやっとだった。言葉通りに冗談であると解釈するべきかどうか、源吾郎は判断しかねたのだ。庄三郎が無性愛者アセクシャルであるからそう思ったのかもしれない。

 少しの間思案していると、庄三郎は心配そうな表情を作って源吾郎を見つめていた。


「それはさておき源吾郎。その、彼女さんとやらはちゃんとしたお方なのかな? ほらさ、去年の春みたいな事が……」

「ちち違う! 米田さんはそんなひとじゃない!」


 庄三郎は言いよどんで語尾を濁らせていたが、それに対して源吾郎は半ば食い気味に叫んでいた。去年の春に、源吾郎は夜の店で働く女狐に騙された事がある。今回もそうした悪女に騙されてしまったのではなかろうか。事情を知る庄三郎は、そんな風に思って心配してくれているらしかった。

 だが、源吾郎としても、米田さんが信頼できる女狐であると断言出来た。断言出来うるだけの根拠も持ち合わせていたのだ。


「庄三郎兄様。米田さんは……俺の彼女は、実は苅藻の叔父上やいちか叔母様とも交流があるんだ。それどころか、叔父上たちは米田さんを妹分のように可愛がってらっしゃる訳だし。そこまで身元の割れているお方なんだ。俺たちに、俺に対して悪だくみして近付いた訳じゃあないって、それだけでも解るでしょ?」

「苅藻叔父さんはともかく、いちか叔母さんが妹みたいに可愛がっているんだね。ああ、それだったら心配ないね。叔母さんは、真面目できっちりしたひとだからさ」


 米田さんがいちかの妹分であると聞くや否や、庄三郎は納得した素振りを見せつつ微笑んだ。叔母のいちかが真面目で潔癖な気質である事は、もちろん庄三郎も知っている。いちかは身内(特に甥たち)に厳しくやや神経質な所もあるにはある。

 だが、そんな彼女が妹分として可愛がっているのであれば、挙動や気質もしっかりとした女性であろう。庄三郎がそのように考えているであろう事は、源吾郎も何となく解っていた。

 いずれにせよ、米田さんの接近が、雉鶏精一派や玉藻御前の一族の秘密を探るために行われたものでは無い事は明らかだ。それこそ源吾郎が生まれる前から、彼女は苅藻達と交流を重ね、雉鶏精一派とも多少は関りを持っていたのだから。仮に米田さんが情報を知りたければ、それこそ雉鶏精一派の構成員に加わる事も可能なのだ。

 それに何より、諜報員として情報を集めるためだけに、源吾郎に恋心を抱かせるほどに懐柔するなどというまだるっこしい事はしないだろう。だからこそ、米田さんは純粋に源吾郎に惹かれているだけなのだ――源吾郎自身だけではなく、苅藻やいちかもまた、そのように考えていたのである。


「まぁ源吾郎も今度は真面目な女性とお付き合いできているみたいで安心したよ」


 いつの間にか庄三郎はこちらに歩み寄り、源吾郎のすぐ傍に腰を降ろしていた。伸ばした兄の手は、さも当然のように源吾郎の尻尾の毛に伸びている。勝手に尻尾に触れられていたのだが、撫でる手つきが心地よかったので、源吾郎も敢えて振り払いはしなかった。


「それで、今回は彼女さんとのデートをキャンセルして、それでわざわざこっちに来てくれたんだよね」

「そうとも。米田さんとのデートの方が先に決まっていたのにさ」


 尻尾の毛を撫でていた庄三郎の手が止まる。彼は思案するような、謎を見出した探偵のような表情で源吾郎を見つめていた。


「そっか。もしかして、今回デートがおじゃんになったから、源吾郎の彼女さんもへそを曲げてしまって、それで源吾郎も難儀しているのかな。女の子って、いや女の人の中には、そう言う事もあるらしいからさ」


 庄三郎兄様も、中々どうして女心を把握なさっているんだな。本筋とは離れた考えが、源吾郎の脳裏でぼんやりと浮かんだ。ましてや庄三郎は、色欲の醜悪さに嫌悪と恐怖を抱き、それ故に無性愛者アセクシャルになった経歴すらあるのだから。

 いずれにせよ、源吾郎は違うと首を振った。


「ううん。庄三郎兄様が言ったような事は起きなかったさ。むしろ俺たちのデートよりも、家族に会う事を優先するようにって諭された位だよ」


 今度は米田さんと交わした電話の事を、源吾郎は思い出していた。土曜日は実家に出向くように母に言われたんだ。源吾郎はそう言った時、米田さんにデートがおじゃんになった事への謝罪文を頭の中で練り上げていた。デートの予約の方が先なのだから、そちらを優先するべきだ。米田さんがそう言って源吾郎をなじるであろう事も予想していた。いや――彼女がそう言う事こそを、源吾郎は望んでもいたのだ。であれば堂々と、実家に行かずに米田さんとデートが出来るではないか、と。

 しかし現実はどうだったか。米田さんはデートの予定をキャンセルする事を、源吾郎が母の呼び出しの応じる事を快諾したのだ。むしろデートを辞めて実家に向かう事を推奨したくらいである。

 米田さんとのデートを楽しみにしていた源吾郎は、米田さんの申し出に反論しかけた。だが「島崎君のご両親やご兄姉たちが心配なさっているんだから、家族たちを安心させるのも大切な事よ」と言われてしまっては、返す言葉もなかった。

 源吾郎はだから、心中に不満を抑え込みつつも、実家に出向くほかなかったのだ。もっとも、今回は日帰りの予定ではあるが。


 さて庄三郎はというと、源吾郎の話を一通り聞くや否や、深々とため息をついた。あまりにもあからさまな兄の振る舞いに、源吾郎は一瞬眉をひそめてしまう。


「ふふふっ。源吾郎、君も大人っぽくなったかと思ったけれど、何とも子供っぽい事で拗ねていたんだなぁ。例えば彼女さんがさ、今回の件でへそを曲げたと言うのなら、まだ話は解るよ。だけど彼女さんも君や僕らの事情とかも汲んでくれたんだ。それなら何も困る事は無いじゃないか。

 ましてや、源吾郎は母さんや兄さんたちに連行されたんじゃあなくて、自分の意志で実家に戻って来たんだからさ……」

「うん。まぁ、その通りなんだけど」


 だったら拗ねるなよ、な。尻尾の毛先を撫でながら語る庄三郎は、やはり源吾郎の兄だった。ため息をつきつつ、源吾郎はそんな風に思っていたのだった。

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