人の知らぬ間の異形の跋扈

 気が付いた時には、佐藤青年は夜の帳に包まれた屋外に突っ立っていた。

 鼻腔から肺へと入り込む空気は、春特有の湿っぽい香りに、僅かに排気ガスの臭いが混じり合っていた。どうという事は無い、夜の繁華街の匂いだ。名状しがたき悪臭や、不吉さを感じさせる鉄錆めいた臭いとは無縁だった。

 もっとも、そもそも何故そんな臭いを自分が知っているのか。それ自体も不思議な事だったのだけれど。

 それにしても。思考が妙にまとまらないのを感じながらも、それでも佐藤青年は思った。なぜ自分は、いや自分たちはここでぼんやりとしているのだろう、と。突っ立っているのは何も自分一人では無かった。サークルの面々もいたし、見慣れない顔も見受けられた。

 交流会が行われた事自体は流石に覚えている。だが、そこから先の出来事については、記憶がモザイク状に抜け落ちていた。何か恐ろしい事でも起きたのかもしれない。しかしそれもあやふやで、判然としなかった。

 取り敢えず、見知った先輩に事情を聴いてみようか。そう思って歩を進め始めた丁度その時、彼の斜め前にさっと一人の影が近づいてきた。


「おおっ」

「ああ、ごめんごめん」


 進行方向に、半ば割り込むような形でやってきたのは、同級生の趙だった。浮かべているにこやかな笑みも、ラフなその服装も普段通りである。腰から尻尾のようなアクセサリーをぶら下げていたり、獣めいた雰囲気を持ち合わせているわけでは無かった。


「趙君……」


 俺たちは、一体何に巻き込まれたんだ? その言葉は途中でしぼみ、口にする事はついぞ無かった。そんな戸惑いと困惑の念が彼にも伝わったのだろう。趙は周囲を一瞥してから口を開いた。


「いやはや、佐藤君もサークルの先輩たちも、交流会にやって来たお客様たちも、大変な目に遭ったねぇ。急に会場で火事なんかが起きたんだからさ」

「火事、だと?」


 火事という事は、会場が燃えたという事なのだろうか。疑問を抱く佐藤青年は、しかし煙の臭いを鼻先に感じ取っていた。そして趙の目を――心なしか、その瞳が猫のように瞳孔が縦に裂けているように見えた――見つめているうちに、火事があったのだと思い直した。

 ああそうだ。自分たちはどうにか逃げ出してきたのだ。とはいえ、自力で逃げ出せたのはちと少ない気もするが。


「そっか。言われてみれば、僕らもあの時大慌てだったもんな。でもそれにしては、何か少なくない?」

「そりゃあ仕方ないよ。救急車で運ばれた人もいるんだからさ」

「…………」


 趙が言うや否や、夜の帳を切り裂くように白い車が走り去っていくのが見えた。救急車だ、と佐藤青年はすぐに思った。細かいデザインは、記憶にあるのと何となく違うけれど。

 そんな事を思っていると、趙が今度は佐藤青年の肩に手を置いていた。


「そんな訳だからさ、今日はもう帰ろう? 夜も遅いし、佐藤君も取っても疲れてると思うし、他の皆も帰り始めているんだからさ」

「そ、そうだよな」


 言いながら、佐藤青年は帰路を辿り始めた。家から会場まで電車で向かったので、ひとまず駅に向かって歩き始めたのである。他の、各々帰路を辿り始めた者たちと共に。

 しかしその流れの中には、言い出しっぺの趙の姿は無かった。


 某飲食店内部。交流会と称された冒涜的な会合が行われていたそこは、数十分前よりもうんとヒトの数が目減りしていた。異形同士の抗争と鎮圧が繰り広げられたためである。ひとまず無関係な人間は暗示の力で外部へと逃がし、その上で二つの勢力がぶつかり合ったのだから。

 抗争はこちら側の、要は妖怪サイドに軍配が上がった。敵の半数ほどはその場で屠られ、あるいは生け捕りにされた。残りの半数はどさくさに紛れて逃げ出してしまったが。

 だがそれでも――戦果としては上々だったのではなかろうか。化けアライグマのラス子もとい熊谷リンは、そんな風に思っていた。少なくとも、こちら側も死傷者は出てしまったものの、向こうよりも甚大な被害を被ったわけでは無いのだから。


「全く、なーにが神話生物なんだか」

「ほんとそれ。魚みたいなやつ、ゼツメツすれば良い」


 深キモノドモの骸を足蹴にしながら、リンは鼻を鳴らした。隣に寄り添う金髪の少女、ユーリカもその通りだと頷いている。ユーリカというのはフェネック妖狐であり、今では諸般の事情でリンと同居する野良妖怪のひとりだった。

 リンもユーリカも、一か月ほど前に深キモノドモの運営する養殖場にて、あわや彼らの眷属に喰い殺されそうになった経験がある。それ故に、二人は深キモノドモを忌み嫌っているのだ。

 もっとも、生粋の悪党ラスカルたるリンにしてみれば、おのれに敵対する者やおのれの意に染まぬ者は、全てが忌まわしい敵なのだけれど。


「おやおや。絶滅すれば良いだなんて、また物騒な事を仰いますねぇ」


 飄々とした口調でそう言ったのは、管狐のメメトだった。彼女は深キモノドモや、他の神話生物と呼ばれる異形の骸を足蹴にする事は無かった。しかし、その代わりだと言わんばかりに屈み込み、無遠慮に彼らの懐やポケットをまさぐっている。


「そりゃあもちろん、熊谷さんたちにしてみれば、彼らにしてやられたと、殺されそうになったという事で怨みを持つのも致し方ないでしょう。しかしだからと言って、絶滅だなんて言うのはちと短絡的ではありませんかねぇ」

「でも……!」


 メメト姐さんは妙な事を言う物だ。ユーリカの肩を抱きながら、リンはそう思っていた。便利屋のごとく飼い主にこき使われているメメトとは、リンも何だかんだ言いつつ一定の付き合いを行っている。姉妹のようだと評される事すらある。それでも彼女の言動は捉え難く、真意が何処にあるのか解り辛かった。

 今回とて、彼女は敵対者が逃げたのを目の当たりにしたうえで、「逃げ出したのはマズいですねぇ」などと言っていたというのに。

 そんな事を思っているうちに、メメトの指が止まった。山羊頭の半獣の、緑色の体液に染まったスーツのポケットから、彼女は何かを取り出していた。それは革張りの小さな手帳のように見えた。


「何と言いますか、種族全体で悪と見做すのはよろしくないと思うんですよぅ。もっとも、種族に関係なく、私どもに害をなす相手には、容赦せぬのが私たちの生き様ですけどね」


 そう言って、メメトは小さな手帳をしばし改めていた。表面が体液で汚れていない事を見て取ると、ショルダーバッグに押し込んだのだ。


「実はですねぇ、雇い主の家にも賊が押し入って、店を荒らした挙句に物を盗んでいったんですよぅ。そのうちの一つが、先程の魔導書の抜粋ですね。まぁ、この山羊さんも、お亡くなりになってしまったのでもはやどうにもなりませんが」


 言いながら、メメトが山羊頭の角を撫でていた。悪しき異形であるというのに、その彼を憐れんでいるように見えるのは気のせいでは無かろう。


「とはいえ、悪だくみをしているであろう連中が、それも私どもでは太刀打ちできぬような邪神を味方につけているような連中を、取り逃がしたのはちと口惜しい所ですよぅ。彼らもコミュニティを持っていますし、またしても徒党を組んで襲い掛かって来るでしょうから……」

「……そこまで心配する必要はないよ、メメトさん」


 不安げな様子で呟いたメメトの言葉に応じたのは、バタ臭い風貌が特徴的な若い男だった。サングラスに似た偏光眼鏡を片手に持ち、襟元と言わず袖と言わず蛍光色の羽毛を揺らしながら、ゆらゆらとこちらに歩み寄っている。

 この男の名は双睛鳥そうせいちょうという。名前の通り鳥系統の異形であり、その正体はコカトリスという名の魔物だった。暗示の力を宿した邪眼に毒気を孕んだ羽毛、そして大抵の異形ならば難なく平らげてしまう貪婪さを併せ持つ、強大な魔物だった。妖怪的に言えば、文句なしに大妖怪クラスであろう。

 邪眼を封じるという偏光眼鏡をかけ直すと、双睛鳥は唇を笑みの形に広げてから言葉を続けた。


「元より今回狼藉を働いた連中は、僕たちと敵対する勢力である事がはっきりと判ったんだ。今回取り逃がした分が徒党を組んでやってきたとしても、その時は僕たちの方で迎え討つつもりさ。

 だからね、草の根活動に勤しんでいたり、民間妖みんかんじんとして個人的に闘っているような君らが、特段不安がる事は無いんだよ。

 ま、僕は僕で生け捕りにしたのをお持ち帰りするよ。色々と拷問して情報を聞き出さないといけないからね」

「あ、ああ……」


 双睛鳥の言葉を聞きながら、リンは思わず震えてしまった。かつて雪羽の取り巻きだった事もあるリンは、双睛鳥の事も多少は知っていた。雪羽は気さくなひとだと言って彼の事を慕っていたようだが、一介の化けアライグマに過ぎぬリンにしてみれば、双睛鳥もまた恐ろしい妖怪・魔物の一人に過ぎない。ましてや、一時的とはいえリンは雪羽と絶縁してもいるのだから。

 小刻みに震えるリンに気が付いたのだろう。双睛鳥がぼんやりとこちらに視線を向けた。

 双睛鳥はしかし、変化の解けかけたリンに注目しているわけでは無かった。彼の視線は、そのままリンを通り過ぎてしまったのだから。


「青野さん、でしたっけ」


 双睛鳥の視線が止まった所で青年の声がした。妖狐の尾を二本生やした若者が、いつの間にかリンたちの近くに立っていた。走ってきたのだろう、その頬は赤く火照り、呼吸も速まっている。走ってこちらにやってきたのは明らかだった。

 趙と申します。妖狐というには人間臭い体臭のその青年は、ややあってからおのれの名を名乗った。


「趙君だね。君は見た所妖狐のようだけど、一体どうしたのかな? あ、ちなみに僕は双睛鳥って言うんだ。青野平二って言うのは、あくまでも偽名だから、さ」

「雉鶏精一派という単語が聞こえましたので、それでやって来たんです」


 半妖か何か知らないけれど、随分と胆の据わったやつじゃあないか。双睛鳥を相手に、臆せず告げる趙に対して、リンは密かにそんな事を思った。

 結局のところ、趙は日本で困った事があれば雉鶏精一派とコンタクトを取ってみるようにと親族たちに言われ、この度の騒動でその事を思い出したという事だった。

 そしてリンの読み通り、彼が半妖である事もまた事実だった。但し、純血の妖狐に辿り着くには何世代も遡らなければならないそうだが。

 なお、何世代も遡り、彼に妖狐の血をもたらした先祖の名は褒姒なのだという。要するに、日本で玉藻御前と呼ばれた金毛九尾という事なのだ。

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