前編
第十三幕:あやしき化鳥は邪神の遣い
弥生の先のチラシと出会い
三月の第一月曜日。始業時間にはまだ早い時間帯であるが、源吾郎は研究センターに併設している工場棟の休憩スペースをぶらついていた。
ブラブラしていた事には特に深い理由はない。強いて言うならば気持ちが落ち着かなかったから、と言った所であろうか。そして気持ちが落ち着かぬ理由というのは、昨晩のメッセージ誤爆事件だと源吾郎は思っていた。
管轄は微妙に異なると言えども、研究センターも工場棟も同じ職場である事には変わりはない。だからこそ、研究センター勤めの源吾郎もまた、工場棟に出向いても何ら問題なかったのだ。
「おや」
何とはなしに壁に視線を向けた源吾郎は、見慣れぬものを発見し、僅かに首を傾げた。鈍い乳白色の壁には、さも当然のようにポスターが貼り付けられていたのだ。
壁に掲示物が貼り付けられている事自体は、それほど珍しい事でも何でもない。ただ、その内容が奇異であったために、源吾郎の意識に引っかかった。
そのポスターの見出しは「不審な勧誘・団体に要注意!」という物だった。フォントはがっしりとした骨太な物であり、黒々とした配色も相まって迫力を伴っていた。
伝えんとしている事がこちらに迫って来るかのようなポスターであったが、源吾郎はそのポスターに違和感を覚えた。この手のポスターは、職場のオフィスや工場の一角に貼られるようなものでは無いと思ったためだ。
怪しい団体や勧誘を注意するポスターは、むしろ大学生に向けて作られる事が多い。それに工場や研究施設での注意事項は、事故の防止などの物理的な危険を警告する物である。若狐ながらも、そんな考えが源吾郎の中にはあった。
だからこそ、工場棟内部で見かけた不審団体を注意するポスターに対して、源吾郎は違和感を抱いた訳である。
もしかしたら、その手のニュースでも行っていただろうか。源吾郎は記憶を辿ってみたが、それらしいニュースを見たような記憶はなかった。
もっとも、昨日・今日で何かがあったのならば、源吾郎も把握しきれてはいない。昨日は一日米田さんとデートしていたからニュースを見ていないし、今朝も今朝で何かと忙しかったのだから。
しばしポスターを眺めていた源吾郎であったが、視界の隅でちらりと動くものを感じ取り、何とはなしにそちらを見やった。
そこにいたのは女妖狐だった。工場棟の職員ではない事は、服装からして明らかだった。確かに動きやすい作業着を身にまとっているが、工場棟で働く職員の作業着とは異なっている。何より彼女の足許にはボストンバッグが置かれており、そこから丸まったポスターが突き出していた。
源吾郎はやはり、女妖狐の事を凝視してしまっていた。見覚えのない、見知らぬ妖狐である事は明らかだ。だが、僅かに赤味のある褐色の髪や茶色い二尾には見覚えがあった。
源吾郎の視線に気づいたのだろう。作業中だった女妖狐が振り返り、源吾郎の顔を真っすぐ見つめ返してきた。
しまった。暗い琥珀色の瞳をまじまじと見つめながら、源吾郎は半ば反射的にそう思った。理由はどうであれ、女性をまじまじと見つめるというのは誠に失礼な事ではないか。最悪の場合、セクハラだのいやらしい目で見てきただのと言われる可能性とてある。とはいえ、源吾郎の
コンマ数秒の間にあれこれと思案を巡らせているうちに、とうとう女妖狐が動いた。彼女は源吾郎の存在に気付くや、何と笑みを浮かべて尻尾を振ったのである。その面に驚きの色が滲んではいたのだが。
「おおっ。誰かと思えば島崎源吾郎君じゃあないか」
女妖狐の言葉は思いがけない程にフランクな物だった。しかしその物言いも、作業着姿である事や闊達そうな彼女の雰囲気とマッチしていた。
なお、源吾郎は相手からフルネームで呼びかけられた事にはもう驚かなかった。自分が玉藻御前の真なる末裔であり、何かと有名である事は嫌というほど知っているためだ。しかも向こうも妖狐な訳だし。
「あ、はい、島崎です。おはようございます」
源吾郎のたどたどしい挨拶に対し、女妖狐はさもおかしそうに顔をほころばせた。
「あはははは。島崎君。予想はしてたけど中々お堅い挨拶だねぇ。あんたは玉藻御前の末裔で由緒ある貴族サマなんだし、そもそもあたしと島崎君は裏初午で顔を合わせた仲じゃあないか。
と言っても、顔合わせはあの試験会場での事だったから、互いにピリピリしてはいたけれど」
蓮っ葉な口調で語る女妖狐を眺めているうちに、源吾郎の表情は驚愕から納得へとごく短い間に変化していった。裏初午の話が出てきたところで、彼女が何者なのか源吾郎も解ったのだ。
「藤森さん、ですよね……?」
「あ、うん。そうだけど?」
おずおずとした源吾郎の言葉に、女妖狐もとい藤森アオイは頷いた。とはいえ、源吾郎が苗字を言い当てた事については不思議そうな表情を見せてはいるが。
「それにしても、島崎君もあたしの名前を知ってたんだね。あの時は、名前なんぞ名乗った記憶は無かったからさ」
「それは……」
言いながら、源吾郎は唇を舐めた。藤森アオイの名と姿は源吾郎も知っている。記憶にがっちりと刻まれてしまっていると言っても過言では無かった。
何せ彼女は、あの裏初午で牛鬼に襲撃され、※い※※※てしまったのだから。
いや違う。源吾郎は小さく頭を振った。脳裏に極めて物騒で忌まわしい記憶が浮き上がって来た感覚があったからだ。いや違う。そんな事は無かった。俺はその事は知らない。ノイズ交じりの思考と記憶をはるか彼方に追いやりつつ、源吾郎は慎重に言葉を選んだ。そうせねば、奇妙な事を口走ってしまいそうだった。
「あの牛鬼襲撃事件、の、負傷者、だったからですよ」
負傷者、という部分を殊更に強調して、源吾郎はゆっくりと告げた。藤森は不審がっている素振りは無い。それは源吾郎が、うっかり犠牲者と口走らなかったためだと思った。
「ああそうか。それであたしの事を覚えていたんだね」
藤森のあっけらかんとした声は、今の源吾郎にはまさしく福音のような物だった。源吾郎もまた、先程まで抱いていた強烈な緊張が和らぐのを感じていた。
ああそうだ。藤森さんは牛鬼に丸呑みにされたけれど、九死に一生を果たしたんじゃあないか。あの時喰い殺された犠牲者なんていないではないか、と。
今一度、おのれの記憶を確認すると、源吾郎は自信たっぷりに頷いた。もちろん、不用意な笑みが浮かばないように表情には気を遣ったが。
「ええ、ええ。死者が出なかったと言えども、あの襲撃事件はとんでもないテロ事件そのものでしたからね。ええと、藤森さんの事だって、負傷者の一人って事で当局から連絡がありましたもの。それで僕も、藤森さんのお名前を知ってしまったのです」
滑らかに口をついて出てきた源吾郎の言葉は、全て本当の事だった。藤森アオイの名前は、裏初午の会場で若菜から教えてもらった物でもあるし。
それにしても。源吾郎は藤森とポスターを交互に見ながら口を開いた。
「藤森さんは今回、ここの工場にポスターを貼りに来られたんですかね」
そうだよ。源吾郎の問いかけに対し、藤森も含みも何もなく頷いた。
「と言ってもあたしは派遣業を請け負っているんだけどね。元々はもうちっと身体を動かすような、それで稼ぎも弾むような仕事をやってたんだ。だけどまだ、身体の方は本調子じゃあないからさ」
そこで藤森は、肩を回したり足首を揺らしたりして見せた。肩を回す動きも、足首を回す動きも何処かぎこちない。そしてそれが、無理からぬ事であるのは源吾郎も十二分に解っていた。
何せ彼女は、牛鬼に丸呑みにされてしまったのだ。運よく一命は取り留めたものの、骨折や脱臼を負ってしまっている。妖怪と言えども痛めつけられれば傷つくし、傷を癒すには時間がかかるのだから。
内包する妖力によって、無理やり傷を全て癒す方法もあるにはある。しかしそれを行使するには相応の妖力が必要であるから、全ての妖怪が出来るわけでは無い。そして行使したとしても、妖力を著しく消耗するために、弱体化を招くのだ。
強い妖怪であれ弱い妖怪であれ、傷を癒すには医師の診断を受け、安静に過ごす。これが最も健全な方法だった。
「それはまぁ、大変ですね……」
「いやいや。そんな湿っぽい顔をしなくても良いじゃないか。まぁでも、実際にさ、ちときな臭い団体とかが都市部では蠢き始めてるらしいしさ。そう言う意味でも、ポスター貼りも大切な仕事なんじゃない? ちと地味な仕事ではあるけれど」
そこまで言うと、藤森は明るい笑みを源吾郎に向けていた。
結局のところ、その後数分ばかり源吾郎は藤森と言葉を交わす事になった。
というよりも、藤森の世間話に源吾郎が相槌を打つという方がより正確かもしれない。いずれにせよ、源吾郎は藤森の近況を知る事となったのだ。
そんな彼女の話の中で、特に印象的だった話が二つある。一つは病み上がり(?)の藤森は最近よく牛肉や牛のホルモンを口にしているという事である。
そしてもう一つは、あの事件を機に自分は生まれ変わったと、あの日以降から第二の生を歩み始めているような気分になっている、という事だった。
前者はさておき、後者の話などを聞かされたからこそ、源吾郎は神妙な面持ちで聞き役に徹する事と相成ったのである。
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