第14話 健斗の決断
待ち合わせ場所に現れたスーツ姿の健斗を発見した玲奈は、「わあっ、先輩、カッコいい!」と嬉しがった。「キミこそ、すっかり大人の女性になったな、見違えたよ。かつてレディにこんな画像はセクハラだと叱られたのを思い出した。確かにそうだな、謝るよ」と健斗は頭をかいた。
少し膨らんだ腹をジャケットで隠していたが、学性時代とはまったく違う艶やかな女になった玲奈を見て、女は男を知るとこうも変わるのかと驚いた。体育館でトス上げする玲奈とは別人だった。今日の玲奈を見たオレはまた惚れそうだ……
長野駅前でランチを摂ってタクシーを拾った。運転手は饒舌らしく健斗に、
「いやあ、こんなに背が高いご夫婦は乗せたことがありません。奥さんはおめでたですか? やっぱり背が高いお子さんになるんでしょうね、あー、羨ましい」
健斗はニヤッと笑った。小柄な運転手は市内の観光案内を喋り続けた後に寺の山門前で、
「奥さんを労ってくださいよ、お大事に~」
手を振りながら車をUターンさせた。
「僕たちは夫婦に見えるらしい」とつぶやくと玲奈は微笑んだ。
寺の控え室に入った健斗は目を見張った。あの人は監督の山岡教授か?
「やあ、如月君久しぶりだ。頑張っているようだな、嬉しいよ。僕を見て驚いたか? 去年亡くなった勇士の母が妹なんだ」
へぇ、親戚かぁ…… それで谷本さんは突然体育館に現れてオレたちとゲームしたのか、あのとき既に玲奈を好きだったんだ。不思議に思ったことがひとつ解決した。
本堂での法要が終わって墓前で読経が始まり、真新しい墓石の前で瞑目した。墓石に刻まれた勇士の文字に玲奈の肩が小さく震えて嗚咽を堪えていた。腰を折って背後から玲奈の両肩に手を置いてなぐさめる健斗に、勇士の父は亡くなった息子の背中が重なって辛かった。
「玲奈さん、いつまでも泣いてると体にさわるよ。さあ、何もありませんがお斎(とき)を用意しております。こちらへどうぞ」
「玲奈君、仕事はどうだ? 商社は厳しい職場だ。推薦した男子学生がたった3カ月で辞めたハードな環境だ。続けられそうか? 無理するなよ、職場はいくらでもある、いつでも相談に乗るよ」
「はい、ありがとうございます。私はミソッカスでアシスタントというか、フォローが任務です。イタリアで挨拶したのをお偉いさんがご覧になったそうで、イタリア関連の仕事が多いです。休暇については特別待遇を受けています。入社当時は女子社員からシカトされましたが、お腹が膨らんだ私に最近は優しい言葉をかけて労わってくれます」
「ああ、そんなものか。男性社会も仕事が出来て外見がいい男は何かと邪魔されることがある、似たようなものだ。今は勇士の子がいちばんだ。くれぐれも無理しないで体を大事にして欲しい」
もし勇士が生きていれば玲奈さんに苦労をかけることもないだろう、肩身が狭い思いをさせることもない。父は勇士の子が不憫で言葉がなかった。
健斗は黙って会話を聞いていたが、谷本さんの息子をオレが育てればシングルマザーの子ではない、その子は普通のスタートラインに立てる。玲奈の夫になって谷本さんの息子の父親になる覚悟が俺にあるか? あったとしても玲奈の心は谷本さんが占めている、人の心は物ではない、簡単に変わるものではない、それは無理だ。だがオレは玲奈にまた惚れたようだが、玲奈を振り向かせる自信はまったくない! 健斗はふーっと目を閉じた。
健斗は東京に戻る車内でも玲奈のエスコートに徹した。身重の妻を支える夫か、それもいいなあと車窓を見ながら勝手な妄想に胸を躍らせた。ウチへ来ませんかと誘われて迷うことなくついて行った。両手に香典返しの大きな荷物を持った健斗を叔父は笑顔で迎えた。
「今日はお疲れさんだったな、送り届けてくれてありがとう、感謝する。待ってたんだ、さあ飲ろう。少しは強くなったか?」
「あまり飲むチャンスがないので弱いままです」
「なんだ、夜遊びはしないのか?」
「谷本さんに追いつこうとそればかりで、いつもメールでアドバイスをもらってました。試合後の体のメンテとバレー選手に必要な筋トレを教えてもらいました。食事のメニューもそうです。谷本さんは毎朝ブロッコリーを食べます、僕もそうしてます」
「そうか。君を見たときに谷本君かと勘違いしたほど体格が似たのはそういうことか」
玲奈がお先にと浴室に消えた後、
「玲奈さんは実家に戻って出産するんですか?」
「それはない。あの子は高校生のときに両親と別れた。メダルに手が届くスキー選手だったが、フランスでコーチにレイプされようとした。アルピニストだった兄の事故死を知った直後だ。そのとき玲奈からスキー板で叩かれたコーチは、恐怖を感じて4階から飛び降りた。そいつは未成年者に対する強姦罪で現在も服役中だ。イタリアは性犯罪に関して日本より厳しい。オリンピックのゴールドメダリストだったそいつはメダルを剥奪された。そんな目に遭っても選手を続けろと言う親を拒否した玲奈は、俺の家に来た。
1日中部屋に閉じこもって泣いていた。そのうち大輔と話すようになって宿題を教えていたが、急に受験勉強を始めて大学に合格したんだ。そのガリ勉ぶりはもの凄かった!
谷本君の葬式から帰国したときもそうだった。昼はぼけーっとして夜は泣いていたが、ママが悲しむとお腹の子も悲しいのよ、谷本さんも心配しているわと家内が言ったそうだ。それからだ、玲奈が変わったのは」
数年前、肩を抱いたときに玲奈がビクッと怯えて立ち止まったことを思い出した。そんなことがあったのか……
玲奈が気になって仕方ない健斗はよくメールやケイタイした。
「仕事はどうだい? しんどくないか?」
「先輩こそ、今がいちばん大事なときでしょう。私なんかを心配する前に自分を大事にしてください。左足首は治りましたか?」
「なぜ知ってる?」
「軽いネンザでしょ、コマ送りすると庇っているのがわかります。しっかりケアしましょうね」
そうか、こういうアドバイスを谷本さんはもらっていたのか。1万キロ離れても谷本さんが玲奈を想い続けた理由が少しわかった。
「いつか時間があったら試合を見てくれないか、僕の欠点を見つけて欲しい。キミが分かりやすいように赤いテープを貼ろうか?」
「赤いテープか…… そんなことがありましたね。何も考えなかったあの頃を懐かしく思い出します。試合は見たいなあ、大輔も行きたいって言ってます」
7月の蒸し暑い午後、片柳アリーナの観客席の最前列で玲奈と大輔は両チームの選手登場を待った。観客に手を振りながらコートに入った健斗は、
あれは玲奈か? 観客席に近づいて、
「見に来てくれたのか、嬉しいなあ! 大輔君、お姉さんを頼むよ! 頑張るから見てくれ」
張り切った健斗はよくボールを拾ってスパイクを放ち、チーム最多得点をあげた。
「坊やよく見てね、これがバレーボールよ。あなたのパパが命をかけて頑張った仕事なの、わかる?」
隣で聞いていた大輔は、姉ちゃん無理するなよ、姉ちゃんが寂しいように生まれてくる子も寂しいんだ。わかっているのか、姉ちゃんは……
この夏はとびきり暑かった。身重の玲奈はきついだろうなと健斗は心配した。8月のある日、ホームゲームの観客席を見渡した健斗は大輔に気づいた。玲奈は? 大輔は大きく手を振った。ゲームが終わって大輔に、
「キミのお姉さんはいないのか?」
「うん、僕ひとりだ。如月さんに話があって来たんだ」
「そうか、少し待っていてくれ」
大輔をロッカールームに招き入れた。汗が流れる健斗の上半身を見た大輔は、谷本さんとよく似ていると思った。
健斗がファミレスで何か食べろと勧めたが、腹は減ってないと大輔はコーラを飲んだ。話があると言ったが何の話だと訊くと、大輔は周囲に視線を走らせてうつむいた。部屋に来るかと誘うと、うんと応えた。
「キミは話があると言ったが、その前に確かめたい。僕に会うと言って来たか? 親父さんは知っているか? どうだ?」
「父さんには言ってない。如月さんに話したいことがあってふらっと出て来た」
「僕は誘拐犯になりたくないから、親父さんに連絡するがいいか? そして今夜はここに泊まってもらうと言うがいいな? 話を聞くのはそれからだ」
健斗が叔父に電話すると、最初は驚いた様子だったが、
「わかった。悪いが泊めてくれ。それからな、親父は気にするなと伝えてくれ」
「とにかく食べろ、人は腹が減っているとネガティブになる、遠慮するな」
2枚の大きな宅配ピザを大輔の前に並べた。大輔はじっと眺めていたが空腹には勝てず、おずおずと手を伸ばして1切れが5切れになった。
「食べる相手がいるから僕も旨かったよ。どうだ落ち着いたか? 時間はたっぷりある。話を聞こうか?」
「待ってくれ、その前にメンテやケアはいいのか? 僕が邪魔したと姉ちゃんにバレたら怒られる」
「そうか、そんなに姉さんが怖いか。メンテは隣の部屋だ、キミもどうだ」
筋トレマシンを眺めている大輔を誘って、ふたりで1時間ほど汗を流した。
「キミは何年だ? 確かバスケやってると言ってたな、けっこうやるじゃないか」
「3年だ。あんまり上手くない、ディフェンスが甘いんだ」
「僕に話とはなんだ?」
「如月さんしかいない、如月さんに頼みたい。姉ちゃんの腹の子の父親になってくれ、お願いだ!」
大輔は床に頭をつけて叫んだ。
「キミは何を言っているかわかっているか?」
「わかっている、姉ちゃんと結婚してくれと言った!」
「椅子に座れ。いいか、結婚ってそんなに簡単なものじゃない。しかも玲奈は身重だ」
「だから何だって言うんだよ、腹の子は父親が必要なんだ。シングルマザーになったらその子が可哀想だ。友だちにそんな子がいてよく虐められている。如月さんは姉ちゃんが好きだったはずだ。そして今でも絶対に好きだ!」
「そうだ、今でも好きだ! 長野に行ったとき玲奈としばらくぶりで会ったが、クラクラした。だが玲奈には谷本さんしかいない。僕が入り込む余地はない」
「なに言ってんだよぉ~ 如月さんはどうしてそんなにグズなんだ! だから谷本さんに取られたんだ。姉ちゃんは如月さんを好きだった。だけどVリーグに入ってから何にも連絡くれなかったから、姉ちゃんは寂しかったんだ。まだ遅くない! 姉ちゃんを守ってくれよ! お願いだ!」
大輔は大粒の涙をこぼしながら健斗を口説いた。
大輔の言葉が頭から離れない健斗はずっと考えた。玲奈が谷本さんの子を宿している現実に驚きはしたが、それほどこだわってはいない。大輔の言葉どおり、父がない子は何かと不利なことがあるだろう。だからといって俺はどうすればいいんだ…… 正攻法で玲奈を口説くか? それは無理だ! 谷本さんが亡くなって4カ月足らずだ。簡単に断られておしまいだ。しかし時間はない。子供は年内に産まれるだろう、愛を伝える時間はない。そう考えた健斗は覚悟を決めて山岡教授のもとを訪れた。
挨拶もそこそこにいきなり胸の内を話し出した。
「突然ですが僕は玲奈さんが出産する前に、玲奈さんと結婚すると決めました」
「急に君は何を言い出すのか? 気は確かか? 玲奈さんには勇士の子がいる。何を決めたと言うのだ?」
「はい、谷本さんの子は僕の子になってもらいます。その子に人生の出発点でマイナースタートさせたくありません」
「つまり認知すると言うのか? 婚外婚の子としてか?」
「そうではありません。僕は玲奈さんの夫になり、生まれて来る子は僕の長男として届出します」
「君は何を言っているんだ! それは婚姻の何物でもない。玲奈さんは承知したのか?」
「いいえ、何も話していません。僕は学生のときから玲奈さんが好きでした。そしてこの前会ったときにもっと好きになりました。彼女と息子さんの力になりたいです。一緒に暮らせなくてもかまいません。
僕は谷本さんからいつもアドバイスをもらって、やっと一人前になれました。彼の息子さんの役に立ちたいです、そして育てたいと思っています」
「すると君は玲奈さんが好きなんだな? 子持ちであろうと好きなのか? そして結婚したいのか?」
「そうです!」
「なぜ玲奈さんに気持を伝えないか、それが先だろう?」
「話してもわかってくれないでしょう。彼女の心には谷本さんしかいません。僕は谷本さんの背中を追いかけていました。谷本さんを尊敬しています。僕の考えはおかしいでしょうか?」
「うーん、即座に却下はしないが君の考えに賛同する人は少ないだろう。両親に話したか?」
「いいえ、話してません。社会人になって仕事に慣れた玲奈さんに、恋人になってくれと言うつもりでしたが、谷本さんに拐われた後でした。遅いかも知れませんが玲奈さんに恋人宣言します。そして嫁さんになってくれと言います。僕と玲奈さんにはもう時間がありません」
「しつこいようだがもう一度訊く。君は玲奈さんを妻にして、子供は自分の子として籍に入れると言うのか? たとえ同居できなくてもいいんだな?」
「そうです。近日中に玲奈さんと会って、結婚してくださいと言います。断られても諦めません。勝手な想像ですが谷本さんもそれを望んでいる気がします。残した親子を心配していると思います」
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