第9話 退散記念日

 看護師に案内されて病室に入った玲奈にベッドの母は微笑んだ。

「あーっ、玲奈さんね、会えてとっても嬉しいわ! もっとこっちに来て」

 緊張した表情で座った玲奈に、

「思っていたとおりのお嬢さんだわ。私ね、あなたの写真をたくさん送ってもらったの。毎日それを見るのが楽しみで、頑張っているふたりの画像がとっても嬉しいの。私はもうすぐ死ぬけど命はふたりに繋がると思うと、私の人生は無駄じゃなかったと知ったのよ」

「勇士さんは、日本に帰らないでバレーを頑張ると伝えて欲しい、僕の代わりに話を聞いてくれと言いました。だから何でもお話しください」

「まあ、そんなことを言ったの、少しは人の心がわかるようになったのかしら。勇士はプロのバレー選手になるのが小さい頃からの夢だったのよ、だからあの子のジャマはしたくないわ」

 母は過ぎ去った遠い日を懐かしむように目を瞑った。そして息子の子供時代を歌うように玲奈に話し続けた。小一時間も経った頃、

「遅くなって申し訳ない、母さん、玲奈さんを独り占めしないで、僕も仲間に入れてくれるか」

 勇士の父が顔を出した。それからも、あのときこのとき、話題は尽きなかった。

「すみませんがそろそろ帰らせていただきます。ありがとうございました。勇士さんに話すことをたくさんいただきました」

「あらもう帰るの? 勇士の部屋に泊めてあげてよ。今から東京へ帰ると遅い時間だわ、心配よ」

「そうだな。僕が叔父さんに電話して許しをもらおう」


 いきなり谷本と名乗る電話に叔父は怪訝な表情で、谷本? あいつはイタリアだろう?

「初めまして、谷本勇士の父です。玲奈さんが妻を見舞いに来てくれました。妻は余命3カ月のがんで入院してまして」

「ちょっと待ってくれ、そんな話は聞いてないが」

「母親に会いに日本へ戻って来ると言う息子に、仕事を放棄して帰って来るなと妻は言いました。それで玲奈さんが息子の代わりに来てくださった次第です。今夜は家に泊まって欲しいと思ってご連絡いたしました」

「急に言われてもなあ、玲奈は義兄から預かっている大事な子だ」

「寺田さんはアメフト選手だったと息子から聞きましたが、FIGHTERSの寺田選手でしょうか? Phoenixの友人に誘われて駒沢で観戦しました。寺田選手の逆転ボンバー・スクランブルはよく覚えています。あれは本当に凄かった! 懐かしいです」

「いやあ、昔のことです。パスしようにもターゲットがいなかった。ボールを抱えて突破するしかなかった。あれを思い出してくれる方がいるのは光栄です」

 話は簡単にまとまった。横でハラハラしながら聞き耳を立てた叔母は、夫の雷が不発に終わってほっとした。


 その夜、玲奈は勇士の部屋に泊まった。たくさんの賞状やメダルの横に、プリントされた玲奈の画像が何枚も貼られているのに気づき、恥ずかしいが嬉しかった。勇士にケイタイした。

「お母さまにお会いしたらすごく喜んでいただいて、長野に来て良かったと思いました。勇士さんの小学生からの話をたくさん聞きました」

「母はメチャ喜んで元気な声ではしゃいでた、ありがとう!」

「勇士さん、ここでクイズです。私は今どこにいるでしょうか? 未知の匂いがするけど心地いい空間です。わかりますか?」

「へっ、どこにいるかって、未知の匂い? そんなのわからないよ!」

「はい、勇士さんのベッドです。今日は最高に疲れました、じゃあお休みなさい」

 はぁ…… 俺の部屋で俺のベッドかぁ、見つかるとマズイものが部屋になかったか? 不安になった。


 翌日も病院に行って昨日の続きを聞いた。

「勇士がバレーを始めたのは、兄のオリンピック映像を見てからなの。兄は全日本の選手でオリンピックに出たのよ。知らなかったけど、子供がなかった兄は勇士に夢を託そうと口説いたようだわ」

「勇士さんから聞きましたが、お母さまのお兄さんはウチの監督さんだと知って驚きました」

「そうよ。私は勇士よりも先に玲奈さんのことは知ってたの。部員が騒いでいる女子マネが実現すると強いチームになりそうだと、画像をくれたの。学食で大盛りカツ丼を食べている玲奈さんよ、笑いが止まらなかったわ」

 へっ、ウソでしょと反論したかったが笑顔でごまかした。食べたいものを食べられる自由が嬉しかったときだ。午後から治療だと知って玲奈は病室を後にしたが、余命のカウントダウンの兆しは微塵も見えなかった。


 北風が吹き抜ける朝、寒くて目が覚めた玲奈は健斗のメールに気づいた。

「ずっと返信しないで悪かった。今年は完全優勝を逃したが、君が育てた2年の活躍はいい感じだな。僕は時々出してもらえるがまだスペア選手だ。

 先輩たちのトレーニングとメンテを見て、プロ集団と学生の違いがよくわかった。それで谷本さんが進化した理由を知った。それからは試合と練習以外の時間は筋トレのオニになった。最初はプロのサーブを受けられなかったが、最近はまあまあだ。そして、2m級のブロックを破るには強烈なスパイクよりもリバウンドを狙った方が安定するとわかった。僕はやっと戦える体になったと思っている」

 メールに上半身裸の画像が添付されていた。

「よく頑張りました!! でもこんな画像をいきなりレディに送るとセクハラですよ、気をつけましょう! ひとこと言わせてください。アスリートは体が資本です。ちゃんと食べてますか? そして無理はダメですよ」

 セクハラかぁ? 玲奈がレディか? そうだな、レディでもおかしくないな。健斗はニヤリと笑った。


 クリスマスに勇士のインスタが更新された。

「サンタになって君の部屋に侵入したい! 朝まで同じ夢を見たい! 歓迎してくれるか?」

 パーティなのか、仲間と同じ赤のサンタ帽子を被って、両手でハートを作って微笑んだ勇士がいた。

 それ以後インスタは沈黙した。もうすぐ正月だからゲームはお休みかな?

 元旦の昼近く、ケイタイが鳴った。

「今、東京にいる。母が亡くなって一昨日が葬式だった。明日の昼には羽田から直行便でイタリアへ戻る。玲奈、会ってくれるか?」

「えっ! 亡くなられたのですか。ごめんなさい、もう一度お母さまにお会い出来ると思っていました。それで勇士さんは東京のどこですか?」

「東京駅に着いたばかりだ」

「少し待ってくれますか、ダッシュでも1時間以上かかります」

「待っている、僕が勝手なことを言ってるだけだ。おい、ダッシュで転ぶなよ。どこで待っていればいいか?」

「東京駅に“銀の鈴”って有名なマッチング場所があります。1時半には滑り込みます。いいでしょうか?」

「うん、わかった」


 玲奈が柱の陰から覗くと勇士は疲れた眼差しで、行き交う人の群れをぼんやり見つめて立っていた。

「お待たせしましたぁ」

 駆け寄った玲奈を勇士は一瞬抱きしめて、すぐ放した。

「お昼ご飯食べましたか? 私はペコペコなんです、駅ナカのハンバーググリルに行きましょう」

 玲奈は勇士の手を握って早足で歩いた。この子と手を繋ぐのは初めてだ。ぼうっとした頭で思った。

「どんなことがあってもご飯はちゃんと食べてください、お母さまが悲しみます。わかった?」

「わかったよ、説教くらって玲奈が母に見えた」

「だってアスリートは体が資本よ。食べ物から体は作られるわ。残しちゃダメよ、食べちゃうわよ」

「渡さない! 僕は好きなものを最後に食べるんだ!」

「ふふっ、私もそうなの。でも合宿で大事にキープしたエビフライを取られたわ。だから勇士さんのキープを狙ったのよ」

「へっ、僕のキープをドロボウするのか? いいよ、玲奈にあげるよ。久しぶりに旨かったぁ~ 腹一杯になったら眠くなったよ。お願いがある、ホテルまで送ってくれるか?」

 タクシーを止めて、浜松町の三井ガーデンホテルへ入った。

「もうひとつお願いがある。何もしないから部屋に来てくれないか。本当に何もしない、約束する。玲奈が卒業するまで我慢すると決めた。信じてくれるか」


 ハプニングな展開に追いつけない玲奈の肩を押してドアを閉じた。部屋に入るとすぐ玲奈をベッドに転がして、動けないように抱き包んでキスを続けたが、苦しいと喘ぐ玲奈の頰に涙が溢れ落ちた。えっ! そっと目を開くと勇士は泣いていた。涙を隠したいのか、いつまでも抱きしめて緩めなかった。そのうち動かなくなった勇士は眠りに落ちたようだ。勇士さん、このまま眠ってもいいわよ、穏やかな寝顔にささやいた。玲奈が腕から抜け出ようとすると勇士は眠っていても放さなかった。

 玲奈は涙の跡が残った寝顔を見つめ続けた。2時間ほど経ってやっと目覚めた勇士は、ボーッと天井を見上げて腕の中の玲奈に驚いた。

「はぁ? 僕は寝てしまったのか! 玲奈と初めてベッドインしたのにまさか眠りこけたとはなあ、あ~ 情けない! 頼む、お願いだ、もう一度だけキスしたい」

 玲奈の服を剥ぎ取って上半身を裸にした後、首筋から乳房に唇を走らせたが、

「ヤメタ、ヤメタ! 最高に食べたいものを最後までキープするのが僕だ。これ以上バーストすると我慢できない。ごめんね、撤退する」

 玲奈を抱き包んでまたキスを続けた。初めての撤退記念日だと腕の中の玲奈を写メして笑った。記念すべき日だ、君にも送るよ。


「君に会うと驚かせてばかりいる。離れているから気になるのか、フェイクラブか、勝手な夢想かと幾度も考えた。君の叔父さんから惚れたのかと訊かれたことがあった。そうだと答えてもうすぐ2年だ。僕の話を聞いた母は、それを一目惚れと言うのよと大笑いした。

 さっき、君を抱かなかったのをきっと後悔するだろう、でも君の気持を大事にしたい。男は無性に女性を抱きたいときがある、そしてその衝動に負けるときもあるんだ。君が僕を選んでくれたときに君を抱きたい、わかってくれるか?」

「あの~ 勇士さんは私なんかを気にしていいのでしょうか? もっと素晴らしい女性がいると思います」

「バカ! 玲奈を好きになったんだ、理屈じゃない!」

 勇士はポカリと叩いて、玲奈が崩れ落ちるまで抱きしめた。


 勇士は玲奈の不幸な事故を知っていた。玲奈が送って来た動画を見ていると同僚のアランが覗き込んで、「ユージの恋人か? この子はどこかで見たような気がするが名前は?」と訊いた。レイナと応えると何度もレイナとつぶやいた。翌日、アランは「レイナはスキー選手か?」と言った。違うと応えたが疑問が残った。

 PCで玲奈を検索した。高校3年の夏までは日の丸を背負ったアルペンスキーの若きエースだったが、ここでプロフィールはプツンと終わっていた。この年の夏、スキーのワールド杯予選が行われたのはフランスのLES DEUX ALPESだ。ここで何かがあった!

 フランスのスポーツニュースをしつこく追ってわかったことは、3年間玲奈のコーチを務めたフランス男にレイプされた事件だった。玲奈は、宿舎の4階バルコニーからコーチを突き落とした嫌疑がかけられた。全裸で落下したコーチはレイプはしていない、勘違いしたレイナは僕を叩いて殺そうとした。そんな恥知らずな主張を繰り返したが、未成年者に対する性行為強要、暴行及び強制で強姦罪が適用され、9年の実刑判決が下されて現在も服役中だと知った。コーチはオリンピックのゴールドメダリストだったが、メダルは剥奪された。


 当時の画像を見たが、コーチが理性を失って暴走したほど少女の玲奈は清純で可愛すぎた。フランス国民は失意のまま帰国した日本の少女を哀しみ、大統領は深く陳謝した異例のメッセージを発表した。だからフランス人のアランはレイナを覚えていたのか。男を愛する前に心を閉じてしまった玲奈、もう怖がらないでいいよ。僕が絶対に守る。玲奈の心の傷を知って勇士は大泣きした。

 イタリアに戻った勇士は何事もなかったように、ゲームに集中していたが、ユニフォームの左肩先に黒のリボンが付けられていた。お母さまに見て欲しくてプレーしていると思った。

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