第8話 歌誌『原型』を創刊&家族の看護 🖊️
一九五三(昭和二十八)年夏、ようやく山国の風土にも慣れて、ここを今後の棲み処と決めた齋藤家は、長野市鶴賀町に新築した家に移るが、転居後まもない七月五日、父・瀏が波瀾の生涯の幕を閉じた(享年七十四)。 こよなく愛したむすめに臨終の身体を起してもらい、左の掌に「サ、ヨ、ナ、ラ」と書きかけてのさいごだった。
「思えばまことに数奇な生涯でした。もう少し前の江戸時代に、あるいは、もう少しあとの大正か昭和に生まれていたら、あれほど複雑な思いをせずに、口癖の文武両道を達成できたかも知れないのに……歴史にifはないと申しますけど、わが父・齋藤瀏の場合、そのifをことのほか見せてあげたかったと思います、ひとりむすめとして」
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――
わが父の
サヨナラとかきたるあとの指文字は ほとほと読めずその
紫紺にくもる遠き山脈ここにして
視覚を少しずらしてみればこの山も つまらぬ線をもちて傾斜す
*
同じ年、四十四歳の史は『うたのゆくへ』を刊行し、病気から快復した夫・喬夫は医院を開業する。翌年正月には、前川美佐雄、生方たつゑ、久保田不二子(島木赤彦夫人)らとともに宮中御歌会始を陪聴している。一九六二(昭和三十七)年四月、積年の夢だった歌誌『原型』を創刊・主宰となったとき、史は五十三歳になっていた。
その後も相次いで歌集を刊行するなど順風満帆に見えたが、母・キクが緑内障で失明し夫・喬夫が脳血栓で入院したので、母(一九七九年没、享年九十一)と夫(一九七六年没、享年七十)の看護に明け暮れた。その間にも長野県文化功労賞や迢空賞の受賞、また何冊かの新刊や再販の出版など、歌人としての活動を停滞させなかった。
「わたしは父母の歌は詠みましたが、子や孫の歌はほとんどありません。事実と生活だけの日常詠にべたついたら、それ以上飛べないと思うからで、精神の飛翔を失くせば詩が堕ちる、豊饒なイメージが生まれてこそと考えています。かといって言葉遊び的な現代の傾向をよしとはしませんが、いまのひとは時代に揉まれていませんから」
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――いまだ出さぬ返事のひとつ 「齋藤瀏とはどんな関りが御有りでしようか」
びらびらの
ぬばたまの黒羽
老はいかにさびしきものぞ 抽斗のもの整理されておほかたは
我を生みしはこの鳥骸のごときものか さればよ
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――齋藤史は男とばかり思はれて 君 兄 貴殿 史クン笑ふ
夜はくらく荒れし野面にたてる樹の いかに孤独なる景色を見るも
かごめかごめ
三十万年前の貝の化石がただひとつ 掌の上にある何のかなしみ
遠い春 湖に沈みしみづからに 祭の笛を吹いて逢ひにゆく
あけがたのわが夢のなか轟然と 過去へ驀進しゆきしD51
方向にまことに疎く生き馴れて 傾く海に錨をおろす
「この世はしぐれよのう」さと過ぎて 濡るるもあれば 濡れて乾くも
言葉使はぬひとり居つづく夕まぐれ もの取落し<あ>と言ひにけり
風は己の音を聴き雪己の色を視る いづれ非情の顔つきのまま
雲みれば雲が樹をみれば樹が沁みる日よ わが情感がもろくてならず
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――散り敷けるりんごの花のうす汚れ いたいたしかる世とおもひつつ
樹液のぼる春の夜にして いきいきと鎖を切りし犬と少年
総身の花をゆるがす春の樹に こころ乱してわれは寄りゆく
耳のうちに野の風聴ける馬たちを 画布より曳きて出で
これしきのことに心崩れてたまるかと 思ふとき馬の四肢起てりけり
死のきはまで
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