第7話 長野県へ疎開&敗戦&天皇の人間宣言 🍎
戦況の激化で首都周辺にも空襲の危険が迫って来たので、一九四五(昭和二十)年三月、両親・夫・二児の家族六人で、瀏の生地ゆかりの長野県北安曇郡池田町に疎開する。間もなく史一家は長野市の親せき宅に移り、さらに上水内郡長沼村赤沼の林檎倉庫の一間に移る。生まれて初めて経験する肩身の狭い疎開暮らしが始まった。
「都会生活者にことさらな非があったわけではないのに、あの当時の疎開者は、文字どおりの都落ちと見られて、ずいぶんと情けない目に遭いました。なにしろあなた、疎開者には新聞も配達してくれないんです。仕方ないから本家で借りて縁側で読みましたが、女のくせに新聞を読むとは生意気だということになって、たちまちアウト」
齋藤家ではラジオも持っていなかったので、バスも通わない山奥の村にニュースが伝わる手段はなく、来る日も来る日も林檎畑の草掻きに駆り出されて、女衆のうわさ話にうんざりしていた史は、広島や長崎に原爆が投下されたことすら知らずにいた。女が社会に関心をもつこと自体が認められない風土に縮こまっているしかなかった。
「お金や着物を味噌や小麦粉に交換してもらおうと農家の門口に立つわたしたちは、村のひとたちから“こじき”と言われていました。で、昼間は不慣れな農作業三昧で。草掻きも田植えも、稲刈りも稲こきも、豆たたきも、林檎採りも、土地のひとの半人前の仕事しかできなくても、とにかく野良に出ていないと生きて行かれないのです」
*
そして至った八月十五日、日本は無条件降伏で敗戦を迎えた。へんに間延びした声でなにを言っているのか聴き取れない玉音放送があったのは、ことのほか暑い日で、本家の座敷で聴かせてもらって、ぼんやりしたまま、のろのろと林檎倉庫へ帰った。夕方、部屋にひとつだけの電灯の覆いをはずすと、出口の草がさみどりに映えた。
「天皇ご自身が国民に向かってどういう話し方をしたらいいのか分からなかったようなんですが、もうねえ、これが日本人かと思うような話し方で(笑)まことに聴き取りにくかったですねえ。そういう育て方をした周囲にも責任があることですが、戦後そのままの状態で全国各地をまわったから『あっ、そう』になってしまった……」
高い山並みに取り囲まれ、寒さもきびしい信州人は、押しなべて口がきついのか、それとも腹の底と口が同じと善意に受け取るべきなのか判じがたいが、翌日、いつもどおり林檎畑の手入れにやって来た農夫が「敗戦の混乱で、町の連中はみな飢えて死ぬ。村のおれたちは生き残る」と言うので、自分はどっちなのか史は返答に困る。
「ひとを受け入れない。自分と異なると、すべて相手がおかしいと決めつける。前例がこうだとして変化を拒む老人めいた頑迷。それに抵抗すれば住んでいられなくなるから、道理のとおらない理不尽にも、まさに顔で笑って心で泣いて、唯々諾々としてしたがうしかない。敗戦前後の何年間かに一生分の忍耐をしたような気がします」
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――とげとげしき山の姿に在り馴れし この国人よなめらかならず
凍て雪をよろへる岩の意地つよき 坐りざまをば見て物言はず
山国の意地みな強き在り方を さびしむときにうす雪散りつ
不意に来て冷酷にものをいひ放つ 人は善良な野良の
山棲みの心鬱たれる日はまして 視野さへぎらぬものの恋しさ
背景に一生山ある構図にて 黒き豆を煮る農婦の七輪
たたなはる山国信濃見慣れざる 女の歌に風が当りき
*
天皇の人間宣言は、翌年の元旦だった。あの雪の日の青年将校たちの熱い思いと、その後の非道な扱いの一部始終を見て来た史は、とつぜんの報道に、心底から驚き、幻滅した。二・二六事件の処断と太平洋戦争の無条件降伏の決意……昭和史に大きな痕跡をのこすふたつながらにご自身でなさった神が、いきなり人間になったのだ。
「ああいうかたちで逃げられるとは思ってもいませんでした。だってそうでしょう、あれだけ自分が自分がと国を引っ張って来たのに、いえ、その前に二・二六のときは大方の声を無視してほぼ独断で青年将校たちの処刑を命じた神だったのに、いまごろになって人間ですって……父が、栗原たちが知らずによかったと呟いたのは当然で」
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――ある日より
みづからの神を捨てたる君主にて すこし猫背の老人なりき
正史見事につくられてゐて 物陰に生きたる人のいのち伝へず
あやまたず月日は過ぎてめぐりくる 雪の二十六日
*
戦後の初仕事は一九四六(昭和二十一)年四月の『短歌人』復刊で、翌年の七月、歌文集『やまぐに』を刊行した。翌年、地元紙の公募に小説『過ぎてゆく歌』が一等入選(筆名・水ノ内藍 選者:正宗白鳥・平林たい子)する。さらに翌年、池田町の父母も迎えて長野日赤病院院長社宅に移り住んだとき、史は四十歳になっていた。
「新聞を読むことさえ許されないのに、女がものを書くなどとんでもないことだったのですが、どんなに止められてもわたしはものを考えずにいられなかったし考えたことを文にせずにいられなかった。ペンネームだから分かりはしないと思って(笑)。それに村の若い衆を集めて演芸会を催したりして、自分なりに努力はしていました」
一方、いちはやく文化が復興した東京では、桑原武夫の主導で“第二芸術論”が提唱され、啓蒙好きな臼井吉見らも加わって短歌や俳句が槍玉にあげられ、心ある詩人を嘆かせていた。斎藤茂吉「短歌ほろべ短歌ほろべといふ声す明治末期のごとくひびきて」土屋文明「吾が言葉にあらはし難く動く世になほしたずさはる此の小詩型」
そればかりか「日本語はすべてローマ字にせよ」という意見が真顔で出たり『小説の神様』の志賀直哉は「国語をフランス語にせよ」とまで言い出した。明治初期、英米留学から帰った森有礼による「英語を国語に」をリピートするような軽薄な風が戦後社会を吹き荒れたが、積み上げて来た文化を全否定する風潮はやがて消えて行く。
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