第5話 二・二六事件で父・瀏に禁錮刑がくだる 🧩



 済南事件から八年後の一九三六(昭和十一)年二月二十六日、現状の軍部に不満をもつ陸軍の青年将校たちが約千五百名の兵を率いて大規模なクーデターを断行した。昭和史に痛恨の軌跡を刻む二・二六事件。その行動の背景には世界恐慌に端を発する農村恐慌、政治家の汚職、財閥の肥大などに怨嗟の声をあげる市井の支持があった。


 序幕として、五・一五事件(昭和七年、犬養毅首相の暗殺)、救国埼玉青年挺身隊事件(昭和八年、越谷市におけるクーデター未遂事件)、相沢事件(昭和十年、軍部主導を謳う陸軍統制派の永田鉄山軍務局長を、天皇主体の新体制を謳う皇道派の相沢三郎中佐が惨殺)があり、結果的に昭和維新を掲げる皇道派の青年将校が決起した。


 斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負う。事件発生時は陸軍大臣が「おまえたちの気持ちはよく分かる」と訓示を出すなど政治も世論も青年将校側につくように見えたが、もっとも憤激したのが昭和天皇自身だったことは、天皇のために決起した青年将校たちの想定外だった。


 天皇が陸軍大臣に直接指示発令という前代未聞に軍が途惑っていると「朕自ら軍を率いて平定する」とまで言われたので、アドバルーンやラジオで首相官邸・陸軍省・参謀本部・警視庁・国会など永田町一帯を占拠する反乱軍に原隊への帰還を求めた。かくて、その場で自決した二名を除く将校は、陸軍刑務所に収監されることになる。



      *



 だが、裁判闘争に訴えるという青年将校たちの望みは、ひたすら崇敬を寄せる天皇自身によって呆気なく覆される。「非公開、弁護士なし、一審のみ」という苛烈さで開かれた軍法会議によって、ただちに刑が確定した。事件の主謀者とされる青年将校十九名、および、かげで扇動したとされる民間右翼・北一輝に死刑判決が下される。


 そのなかには、史が旭川小学校で同級だった栗原安秀、坂井直をはじめ清原康平、中橋其明、高橋太郎、西田税らがいた。栗原を通して彼らの相談に乗っていた瀏は反乱軍幇助により位階勲功を剝奪されて禁錮五年の刑を受ける。五月、史が長女・章子を出産する、その数日前、齋藤瀏は栗原らと同じ陸軍の衛戍えいじゅ刑務所に収監された。


 事件前日、自宅にいた瀏は栗原安秀から東京駅の食堂に呼び出され「明早暁、電話が鳴ったら、やったと思ってください」と言われた。翌朝、リ~ンと鳴ると同時に出ると栗原本人で「蹶起けっきしました。おじさんはすみやかに出馬して軍上層部に折衝し、事態収拾につとめてください」と頼まれたので、ただちに首相官邸に駆けつける。


 眦を決した栗原と面談した瀏はその足で陸相官邸に出向いて、川島義之陸軍大臣に「青年将校らの行動は穏当に欠けるが、その趣旨には諒とすべきものがある。彼らの主張や目的を活かす措置をとって欲しい」と説く。戒厳令が敷かれた翌二十七日も首相官邸に出向いて栗原と会い事態収拾に動いている。天皇の胸中は知らぬまま……。


 一方的な裁判で死刑判決が決まった七月五日の夕方、予審中だった瀏は自分の監房内に小さく丸められた紙くずを見つけた。青年将校に同情的な看守が栗原から頼まれたもので「おわかれです。おじさんに最後のお礼を申します。史さん、おばさんによろしく クリコ」と書かれていた。涙滂沱の瀏は黙って紙きれを咀嚼して嚥下する。



      *



 天皇「二十六日、早く事件を終息せしめ禍を転じて福と為せ」「二十七日、暴徒にして軍統帥部の命令に聴従せずば朕自ら近衛師団を率いて現地に臨まん。朕が股肱の老臣を殺戮す、この如き凶暴の将校ら、その精神に於ても何のゆるすべきものありや。朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」


 本庄「彼ら将校としてはかくすることが国家の為なりとの考えに発する次第なり」天皇「ただ私利私欲のためにせんとするものにあらずと言い得るのみ」本庄「将校の自刃に際して、勅使を賜り死出の栄光を与えられたし」天皇「自殺するならば勝手になすべく、この如きものに勅使杯もってのほかなり」(本庄繁侍従武官長の日記)



      *



 天皇を中心にした新時代を目ざす青年将校らの蹶起から半年足らずの七月十二日、衛戍刑務所内の刑場で死刑が執行された。降りしきる雨のなか、道路の北側にある代々木練兵場では、早朝から軽機関銃の空包射撃が繰り返されていた。銃殺刑の音をまぎらわせるためだったが、獄舎のだれひとりとして勘づかない者はいなかった。


 堅い房の床に正座した瀏は、ひたすら撃たれた受刑者たちの苦痛が少ないことを願い、荒ぶる魂魄の安らかな冥福を祈願する。夕方になって、ようやく身体のふるえが収まると、習慣の日記をつけた。「近く銃声聞ゆ。鋭し、実弾を発射する響と感ず。刑務所構内の如し。我胸轟き騒ぐ。幻、幻、七月十二日 銃声、銃声、七月十二日」

 


       ≫≫≫≫  ≫≫≫≫  ≫≫≫≫  ≫≫≫≫  



 ――ひそやかに訣別わかれの言の傳はりし頃はうつつの人ならざりし 

   いのち断たるるおのれは言はずことづては 虹よりもあやにやさしかりにき 

   かぎりなくせつなき言葉胸にありて 炎のごとしひとすぢに燃ゆ

   ぬかの真中に弾丸たまをうけたるおもかげの 立居に憑きて夏のおどろや




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