第4話 済南事件の責を負い父・瀏引退、史の結婚 👰
まさに文武両道を地で行っていた齋藤瀏の生涯に、初めて暗い翳が射しこんだのは一九二八年(昭和三)五月に中国で起きた済南事件だった。蒋介石率いる国民革命軍が山東省済南に入城したとき、すでに現地に到着していた日本軍が、在留邦人保護の名目で占領する。翌年、日本軍は撤退したが、この一件が対日感情を悪化させた。
当時、四十九歳の瀏は熊本第六師団第十一旅団長として出兵の指示に従ったが、 中国滞留中に日本の内閣が交替したため、事件の責任を負って退役させられ予備役(有事や訓練のみ軍隊にもどる在郷軍人)となった。われわれは上の命に従ったのに全責任を取らされるとはなんたることだ。退役将校たちの不満は急速に高まった。
「警備司令官として指揮する立場にあった瀏は、配下の兵たちを鼓舞して済南城を攻め落としたのですが、使命全うの功績が逆に咎められることになったのは、出兵を不当とする中国が国際連盟に訴えたので世界から非難を浴びることになったとき、当時の日本政府は知らぬ存ぜぬを押し通し、現地の暴走として責任を回避したからです」
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――大君の
いきどほる部下将校に説きていふ ますら
もののふの父の子に生れ もののふの父の寂しさを吾が見るものか
*
一九三〇(昭和五)年、二十一歳になっていた史は、父母とともに東京へ転居する。翌年一月、前川美佐雄、石川信雄らと『短歌作品』を創刊し、五月には知人の勧めで医学生の喬夫と結婚した。浅い歌歴のわりに果断とも映る短歌活動、やや性急な印象を与える結婚には、失意の父を励ますつもりがあったことはあきらかだった。
「父は謹厳実直というか真面目一辺倒な男でして、与えられた職責を完璧にこなさねば気が済みませんでしたから、現役を降ろされたときはそれはもう意気消沈しまして生きる張り合いを失くして目も虚ろで、そばで見ている家族はたまりません。だってまだ五十歳前なのに引退せよって、ねえ。で、わたしが活力を見つけてあげようと」
史の父親への思いが通じたらしく、一時は沈みこんでいた瀏も少しずつ元気を取りもどし、むすめの指導格で短歌を再開し、気が合う女婿の喬夫ともふたりで晩酌を楽しむなど、軍とは一線を画した静かな私生活を送るようになった。だが、済南事件で日本政府から受けた傷が癒えていたわけではなかったことが、やがて明らかになる。
「もちろん、母もわたしもよく分かっていましたよ、歯ぎしりで奥歯がすり減るほど激しい父の口惜しさは……。でも、だからといってどうしてやることも出来ません。わたし、こんなでしょう? 押っ取り刀で軍の上層部に乗りこんでやろうかなんて、けっこう本気で妄想したこともありますが、そんなことをしてもだれも喜びません」
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