第3話 若山牧水・喜志子夫妻の来訪で短歌を始める 🖊️



 齋藤史は一九〇九(明治四十二)年二月十四日、 東京市四谷区仲町に生まれた。父・瀏、母・キクの長女にしてひとりむすめ、円満な両親にこよなく愛されて育つ。全権をもって支配する子どもに傍若無人に振る舞う親が少なくなかったこの時代には稀有なほど恵まれた幼少期を送ったことを、史本人も周囲のひとたちも認めている。


「父は、生涯、やんちゃ小僧だった男、自由人とかへんな軍人とか呼ばれていました。漢文学者の祖父の血を引いたのか短歌をはじめ小説、絵画、演劇、映画、落語など文化全般をくまなく愛好するひとで、三つ四つのころから寄席や芝居小屋に連れて行かれたおかげで、わたしはずいぶん早くからおしゃまになったような気がします」


 齋藤家はかつて信濃松本藩の医家にして槍術の家だったが、史の祖父・順は漢学の道を選んだことが、息子・瀏の生き方にも影響したものと推察される。明治維新後、一家は住み慣れた松本城下を出て、遠い郊外の東筑摩郡明科町押野崎に移住したが、禄をうしなった武家の例にもれず生活に困窮し、瀏は造り酒屋に奉公に出された。


 そこで抜きん出た聡明が認められ縁戚の医家の養子に迎えられるが、養家が期待する医の道には進まず、自ら軍人を志し陸軍幼年学校から士官学校に進んだ。 一方、父ゆずりの文芸の道も捨てきれず、二十五歳で中尉として日露戦争に従軍したとき、面識のない佐々城信綱に戦地から手紙を出し、のち門弟になり、歌集も刊行する。



      *



 一九一五(大正四)年、第七師団参謀長を拝命した父・瀏に連れられ、母とともに旭川に移り住んだ史は、五年間を北辺の地で過ごしたのち、父の転属に伴い三重県津や福岡県小倉に転住し、九年後にふたたび旭川へ移り現地の女学校へ入学する。さらにのち、少将に昇進した瀏は熊本第六師団第十一旅団長に着任し、一家も移転した。


 旭川時代の一九二六(大正十五)年、瀏は官舎に歌人の若山牧水・喜志子夫妻を招き、主宰する歌誌の赤字による負債返済のための色紙や短冊などの頒布活動を応援した。つききりで揮毫を手伝う十七歳の少女に牧水が「史さん、あなたが短歌をやらないというのはいかんなあ」と声をかけたのは、瀏の意を汲んでだったかもしれない。


「天下の牧水さんが着物の裾を帯にはさんで、膝がゆるゆるになったラクダの股引で紙をまたぎ、中腰になって一気呵成に歌を認めるの。その気魄ったらなかったわ。わたしは墨を擦ったり紙を運んだりする役でね、喜志子夫人から褒めてもらうのがうれしかった。作歌を勧めてくださったのは、母も一緒に丘を散歩しているときだった」



      *



 翌年、父・瀏の引き合わせにより東京で前川美佐雄に会った史は『熊本歌話会誌』や佐佐木信綱の『心の花』に短歌を発表するなどの活動を開始する。一時入会した『アララギ』をごく短期で退会したのは、万葉調の写生を重んじる男性王国の体質が肌に合わなかったためで、同じころ、阿蘇の「安居会」に最年少で参加している。


「アララギに心酔している男性歌人連から、裏ぎり者とか『あいつの歌は邪道短歌』と批難されたときは、若かったこともあって相当に辛かった記憶が残っているけど、あとから冷静に思い直せば、自分に合わないのに我慢して留まっていてもいい結果は望めなかったのだから、あのとき思いきって訣別しておいて本当によかったのよね」


 正当な自分の意見をもっている生意気な女性は保守的男性から総スカンを喰った。そのころの短歌界を牛耳っていた勢力が仕かけて来た陰に陽にの不条理の詳細を史は語っていないが、さまざまな外的要因から大方の予想はつこうというもの。むしろ、そんな風潮にあって若い女性歌人を尊重した大御所連こそさすがというべきだろう。

 


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 ――流れ来し遊女あるしといふことも 男が描きし〈女〉まぼろし

   老いたりとて女は女 夏すだれ そよろと風のごとく訪ひませ

   男物の洋傘かささしゆけば黒の下の くらがり温きことにおどろく




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