実験レポート:結婚2日目(1)

 翌朝、あたしは午前9時過ぎに目を覚ました。シャワーを浴び、歯磨きをしてコーヒーを淹れ、しばらくぼんやりしながら昨日の出来事を反芻した。うまく言葉にはできないけど、疲れには二種類あって、それは良い疲れと悪い疲れで、昨日のは良いほうの疲れだったなと思った。


 部屋に食べるものがなかったので、朝食と昼食をかねて出かけることにした。めんどくさかったのでパパっとアイメイクだけしてマスクをつけた。マスクは便利だ。


 駅前のどこか目についたところに入ろうかと思ったが、ふと思い立って電車で2駅移動してショッピングモールに行くことにした。普段めったに行かないところに行きたかった。


 ショッピングモールのハンバーガーショップでアボカドの入ったハンバーガーとポテトとジンジャエールを食べながら、別のテーブルで食事をしているカップルや親子連れをぼんやりと眺めた。


 そうだ、あたし昨日、結婚したんだ。

 あたしは改めてそのことを実感した。


 あたしはこれまでひとりで寂しい思うタイプでもなかったから、カップルに対してどうこう思うこともなかった。奥のテーブルの親子連れも、子供はたぶん3歳くらいなので特別にかわいいと思うこともない。あたしのセンサーはどうやら赤ちゃん限定らしい。


 ただひとりのころと比べて、その人たちをより近いものとして認識していた。彼氏がいたころに近い状態だな、と思った。恋愛感情や思い入れの強弱に関わらず、シンプルにあたしの横にひとマスのスペースがあって、今そこが埋まっている感じ。そのマスはいつから作られたんだろうと思った。


 食事を終えたあたしはドラッグストアに向かった。店内をプラプラと歩き、ナプキンと歯磨きセットと潤滑ゼリーとマムシエキスが入っているという仰々しいドリンクをかごに入れた。


 レジにお客さんが並んでいない隙を見計らって、レジカウンターにスッと買い物かごを置いた。店員は若い男の人だった。彼は機械的に商品のバーコードを読み取り、あたしは機械的に現金で支払い(あたしに紐づく何かの履歴に残るのが嫌だった)、極々軽めな急ぎ足で店を出た。マスクは便利だ。


 再び電車に乗ってうちに帰ると、部屋着に着替えてごろごろしながらYouTubeで潤滑ゼリーの使い方を学習した。あたしのだけじゃなく、ヤツのにも塗るのか、とか思った。期待とか胸の高鳴りは今のところ何もないが、今日絶対しようとは思っていた。


 とんでもなくだらだら過ごしているとあっという間に日が暮れ始め、6時半過ぎにヤツから電話の電話が鳴った。


「今仕事終わったー。今日会える?」

「もち。昨日話してたしな」

「じゃあさ、うちで鍋しようよ。牡丹鍋。昨日肉もらったし」

「あたしイノシシ初めてかも。おいしいの?」

「俺は好きだけどね。材料買ったら連絡するわ。うちの場所わかる?」

「前行ったことあるけど、あんまり覚えてないや」

「じゃあ駅前集合で。買い物終わったら連絡するよ」

「わかった。それじゃあまたあとで」


 電話を切ったあとで、あたしは自分の部屋を見回し、この部屋を片付けて呼ぶという選択肢があったのだな、と思った。


 それからあたしは大急ぎでシャワーを浴びてできるだけ入念にムダ毛処理をしてから化粧をし直し、露骨すぎないように小さめのバッグに最低限のお泊りセットと例のものたちを詰め込んだ。それらがちょうど終わったタイミングで、ヤツから集合の電話がかかってきた。


 駅前で遼太郎と合流すると、ヤツの普段通りの格好にちょっと気が抜けた感じがした。ヤツは片手に食材が詰め込まれた白いビニール袋と、その陰に隠すように黄色のビニール袋を提げていた。


 ヤツの制止を振り切って黄色のビニール袋の中身を確認すると、中には潤滑ゼリーとコンドームの箱が入っていた。


「なんだよお前、やる気満々じゃねーかよ」

「一応だよ、一応」


 ヤツは顔を真っ赤にして弁明した。あたしはそれを茶化すように笑ったが、あたしと同じ気持ちでいてくれてることがわかってほっとした。


「あたしらの目的上、ゴムはいらねーけどな」

「いや、その…もしもお前が要るって言ったときのことを考えて…」


 ヤツはもごもごしながらそう言った。あたしの旦那さんは…結構いいやつだなと思った。


 遼太郎の部屋は住宅街の奥まった場所にある古い木造の2階建てアパートだ。ヤツの部屋はその1階の真ん中あたり。色あせて角に錆が浮いているブルーの鉄製のドアを開けて、中に入った。


 中は1Kの和室で、畳の上にパイプベッドが置いてある。昨日慌ててしたのかはわからないが、部屋はきれいに片付いている。部屋の隅に段ボールがあって、その中には色とりどりの色紙が入っていた。


「これ何に使うの?」

「持ち帰りの仕事用だよ。保育園の飾りつけとかに使うやつ」


 ヤツはそう言いながらキッチンで買ってきた食材を出し始めた。あたしは近寄ってその様子を眺めながら言った。


「なんか手伝うことある?」

「んー…ない。座ってゆっくりしてて」

「気ぃ使ってくれてるんだ。やさしいじゃん」

「ちげーよ。能力の問題だ。それからスペースの問題」

「失礼な。あたし千切りだけは超速いよ」

「今日その能力を活かすものはない。とんかつ揚げるときに頼むわ」


 ヤツはそう言ってひとりで手際よく準備を進めた。あたしはとりあえず、電気グリル鍋を用意したり、取り皿やお箸を並べたりしてちょっと手伝ってます感を出した。


 出来上がった牡丹鍋はめちゃくちゃおいしかった。イノシシの肉は豚肉に似ていたが、なんて言うかもっと野生っぽい味がした。脂が特においしかった。


 食べ終わったあとはあたしが洗い物をした。そこでふと思いつき、水音にかき消されないようにちょっと大きめの声で遼太郎に訊ねた。


「そういや今日の食材のお金、いくらだった?」

「いくらだっけ…ってかこれ割り勘すんの? 結婚したのに?」

「言われてみると…これから買い物とかどうするんだろ?」

「共通の財布作るとか?」


 話し合うべき課題は山積していた。ひょっとして結婚に愛は必要ないのかもしれないと思った。必要なのは他人と円滑に暮らすためのルール作りだ。


 洗い物を終えて和室のほうに戻ると、遼太郎はベッドにもたれかかるように座ってテレビを見ていた。あたしは少し迷ったが、ヤツのすぐ隣、肩が触れるくらいの位置に座った。ヤツは何かを察知したのか、あたしは肩ごしにヤツの身体が緊張に包まれるのを感じた。


「…あたしはさ、来る前にシャワーを浴びてきた」

「そ、そっか…じゃあ俺シャワー浴びてくるよ」

「なるべくゆっくり入ってきてね。あたしにも心の準備というものがありますので…」

「わかった…」


 そう言ってヤツはそそくさと着替えを持ってバスルームのほうに行った。ヤツが中に入るまで見届けて、あたしは深く深呼吸をした。


 これから戦が始まる。

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