実験レポート:結婚1日目(昼)(3)

 認めたくないものだが、あたしは間違っていた。


 市役所から実家に戻る帰りの車内、あたしは誰よりも小さくなっていたが、穴がないので入れなかった。遼太郎はあたしを気遣ってか「俺も間違ってるかもしれないから、あとで念のため確認しておくよ」と言ってくれた。


 結局、あたしたちが朝想いを込めて書いた婚姻届は、燃えるごみとして処されることになった。遼太郎が予備の用紙を取ってきていたので助かった(あと5回ミスれる)。


 実家に着いたあたしたちは改めて記入を進め(遼太郎の本籍は念のため空けておいた)、証人欄に記入してもらうため父に差し出した。父はあたしの名前の下の証人欄に名前を書いた。


「もう1人のとこはお母さんが書いてよ」


 あたしが軽い気持ちでそう言うと、父は語気を強めて言った。


「何を言ってるんだ。荻野くんのご両親はまだ2人の結婚のことを知らないんだろ? ここはその報告をしてから、荻野くんの親御さんに書いてもらうべきだろ」


 父の言うことはごもっともだった。なんだか普通の結婚みたいになってきたな、とあたしは思った。


「荻野くんごめんなさいね。この子本当に世間知らずで」


 母が遼太郎に謝った。こいつはどんな気持ちでそれを聞いているんだろうと思った。時刻は12時になろうとしていた。


「父の仕事が昼休みになったら、電話をかけてみようと思います」


 遼太郎はあたしの両親にそう説明した。


 12時を少し回ったタイミングで、いざ電話を掛けようとした瞬間に、家の前に車が止まる音がした。それから玄関が開く音がして、ドタドタという足音とともに、兄貴がリビングに駆け込んできた。


「間に合った?」


 兄貴は息を切らせながらそう言った。


「あんた今日無理じゃなかったの?」


 母が訊ねると、「午前中に無理やり外回りの営業を入れて、今昼休憩」と息を整えながら言った。


「歌の結婚相手は?」


 兄貴の質問に、母は遼太郎を手のひらで示した。遼太郎は兄貴に「荻野といいます。よろしくお願いします」と言って頭を下げた。


「キミかぁ…貧乏くじを引いたのは。ロシアンルーレットでフル装填のリボルバーを渡された気分はどうだい?」

「あんたはもう! 訳の分かんないこと言って! 邪魔するなら出ときなさいよ!」


 母がものすごい剣幕で兄をたしなめた。母はせっかく針に食いついた魚をバラさないように必死だった。


 そのとき、再び玄関のドアが開き、同じくドタドタという足音とともに順子ちゃんが姿を現した。順子ちゃんは事務服を着ていて、摩擦係数の少ないストッキングで転びそうになった。


「間に合いましたか?」


 順子ちゃんも息を切らせながらそう言った。


 母はやり取りをショートカットして再び手のひらで遼太郎を示した。


「うわー、めっちゃ優しそうな方ですね」


 順子ちゃんは笑顔でそう言った。


 お義姉さん…それは褒めるところが見当たらない場合のテンプレートだよ…とあたしは心の中でつぶやいた。


 そうこうしていると時間が過ぎてしまうということで、遼太郎は慌てて父親に電話を掛けた。何を思ったか、こいつはビデオ電話で掛けていた。


 しばらくするとヤツが手に持ったスマホにヤツのお父さんが映し出された。白髪をぴっちりと整髪料で撫でつけていて、賢そうな眼鏡を掛け、濃い赤色のネクタイをしたシャツの上に作業服を羽織っていた。


 場所は社員食堂らしく、お父さんがラーメンをすすっている後ろには同じような服装の社員さんが何人も映っていた。


「どうした? めずらしいな。今日は休みなのか?」

「うん…ひさしぶり」


 遼太郎はいつにも増しておとなしめだった。


「なんでビデオ通話なんだ? というかお前スーツ着てるのか? 法事か何かか?」

「葬っていうか…婚っていうか…」

「なんだよはっきりしろよ」


 そう言いながらお父さんはラーメンをひと口すすった。


「父さん、俺結婚するんだ」

「結婚? 誰と?」


 お父さんは口に入れた麺をもぐもぐさせながら言った。後ろに映っている社員の人が、結婚という言葉に反応して振り返った。


「大学の同級生。今実は彼女の実家に来てて、ご両親に結婚の許しをもらったところ」

「…お前…ホントなのか?」

「うん…ちょっと紹介するね。俺の結婚相手、米村歌子さん」


 そこでヤツはスマホのカメラをあたしに向けた。


「はじめまして。米村歌子と申します」


 画面の中で、お父さんは鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた。


「はじめまして…あなたが…息子と…」

「はい…このような形で大変恐縮ですが、わたしは今遼太郎さんとお付き合いをさせていただいておりまして、この度お父様に結婚のお許しをいただければと…」

「その…米村さんのご両親もお近くに…?」

「はい…」


 そう言ってあたしは遼太郎に目配せをした。遼太郎はカメラをパンさせてあたしの家族を順番に映し出した。


「はじめまして、歌子の父です」

「歌子の母です」

「歌子の兄です」

「歌子ちゃんの兄の嫁です」


 そこであたしの家族は素早くあたしのうしろに回ると、あたしを中心に集合写真のような陣形を取った。遼太郎は全員がフレーム内に収まるように画角を調整した。


 あたしたち家族は何の準備も打ち合わせもなく、一斉に声を合わせて言った。


「わたしたち、米村家です!」


 最高に決まったな、とあたしは思った。遼太郎も同じ思いだったらしく、小さく…本当に小さくガッツポーズをしていた。


 あたしの高揚とは裏腹に、画面に映った遼太郎のお父さんはぴくりとも反応しなかった。電波が途切れちゃったのかな?とあたしは思った。


 けれどもスマホの画面によく目を凝らすと、お父さんの両目からは静かに涙がこぼれていた。


「遼太郎がついに…結婚を…」


 そう言ってお父さんは涙は流れるにまかせたままかすかに微笑んだ。


 その瞬間、お父さんの周りにいた社員さんが一斉に歓声を上げた。


「おめでとうございます!」

「やりましたね!」

「ほんとおめでとうございます!」


 そう言って彼らはお父さんに群がり、カメラに向かって次々に祝辞をくれた。


 群衆にもみくちゃにされたお父さんはなんとかその場を抜け出して社員食堂の外に出たようだった。そのタイミングで、あたしの父がスマホを渡すよう遼太郎に言った。


「本日は突然のご連絡で誠に申し訳ございません。改めまして、歌子の父の米村典久と申します」


「遼太郎の父の荻野コウヘイです」


「実を申しますと、私自身、2人の結婚を知らされたのは今朝のことです。2人は結婚の報告と婚姻届の証人欄への署名を求めて、先ほど神奈川から私どもの住む静岡へやってきました。事前に何も知らされてなかったので、私も荻野さん同様、大変驚きました」


「これはこれは…うちの遼太郎が大変失礼なことを…」


「いえいえ、おそらく遼太郎くんは娘のわがままを聞き入れてくれたのだと思います。こちらこそ、大変申し訳ございません。


 ですが失礼ついでといっては大変恐縮ですが、この2人は今日、婚姻届を提出したいという一念で私どものところへ参りました。私はこの2人の願いを叶えてやりたいと思っています。


 そこで荻野さん、大変ぶしつけなお願いではございますが、もしよろしければ2人の結婚のご報告と婚姻届の証人欄へのご署名、並びに両家顔合わせをかねて、そちらにお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか?


 遼太郎くんのご実家は栃木県ということでしたので、今から出ればおそらく日が暮れるまでには行けるかと思います。どうか、お許しいただけますでしょうか?」


「許すなんてとんでもない。むしろこちらからご挨拶にお伺いすべきところを、本当によろしいのでしょうか?」


「もちろんです。私も家内も最近出かける機会がなかったもので、旅行がてら、行かせていただけると幸いです」


「お言葉、痛み入ります。道中お気をつけてお越しください」


「ありがとうございます」


「申し訳ございませんが、遼太郎に代わっていただけますか?」


「もちろんです」


 そう言って父はスマホを遼太郎に戻した。


「遼太郎、話は聞いた。お母さんには俺から連絡しておくから、時間やなんかの詳細はあとでお前から連絡しておくように。くれぐれも、粗相のないように米村さんご家族をお連れしなさい」


「わかった」


「お前はいまいち頼りねぇなぁ。しっかりしろよ」


「うん、わかった」


「それじゃあな」


 そう言って電話は切れた。兄貴と順子ちゃんは歓声を上げてハイタッチをした。


「母さん、念のため宿泊用の荷物をまとめよう。準備ができ次第出発だ」


 父はそう言って大急ぎで家の奥へと消えていった。母も大慌てで準備をはじめた。


 そんなわけで、あたしたちはイニエスタの逆サイドパスのように静岡から神奈川を華麗にスルーして栃木県へと行くことになった。


 人生は何が起こるかわからない。

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