実験レポート:結婚1日目(朝)(2)
それからあたしたちは恒例の気合い入れの儀式を行った。いつからやり始めたのかは定かではないが、学生時代にはもう定着していた儀式だ。多分深夜のテンションで始まったものなのだろう。
あたしたちは向かい合い、おのおのこぶしを握って両腕を胸の前でクロスさせる。次にこぶしを握った状態で腕を開き、両肘を背中の後ろに持っていくようにひっぱる(肘を曲げ、肩甲骨を閉めるイメージ)。そして両手を開いて前に突き出すようにしながら目いっぱいのハイタッチをする。
そうして最後に、なすべきことを叫ぶ。
「今から市役所行くぞ!」
「おうよ!」
それからあたしは顔を洗い歯磨きをしてから化粧に取り掛かった。いつもより若干気合いを入れてメイクをする。化粧はあたしを鼓舞する、戦闘服だ。
そのあいだ遼太郎は勝手にお湯を沸かして2人分のコーヒーを淹れ、テレビのニュースを見始めた。テレビではジブリパークの映像が映し出されていた。
「そーいや結婚は惚れるより慣れだってドナルド・カーチスが言ってたな」
「正確にはカーチスのお母さんの言葉だけどな」
あたしはカチカチと音を立ててリキッドファンデーションの容器を振りながらツッコミを入れた。遼太郎はあたしのツッコミには触れもせず話を続けた。
「慣れでいうと、俺らの慣れはなかなか年季入ってるよな」
「確かに。もはや熟年夫婦の域だ」
「老後すら想像できる」
そう言って遼太郎は笑った。
この見立てが正しいかどうかは、先になってみないとわからない。そもそもこれは正規の結婚ルートではない。恋愛感情を抜きにした云わば友達婚プロジェクトだ。前例があまりないので誰かに相談なんてできないし、トライ&エラーで進めていくしかない。そういうのって、実にあたしっぽいなと思った。だからあたしはわくわくしていた。フィオ嬢のように。
気合いの入る服に着替えて部屋を出て、市役所まで歩く道すがら、あたしは遼太郎に訊ねた。
「そういやさ、お前はこれまで親から結婚しろとか言われなかった?」
「めちゃくちゃ言われたし、今も言われ続けてるよ」
「やっぱりか。あたしも20代後半まではけっこうキツめに言われてきたけど、30を過ぎてからはなんか遠慮がちに聞かれるようになった。それもなんだかなぁーって思ってたけどね」
「なるほどね。まあいいじゃん。これで安心してもらえるんじゃない?」
「そうだね。あー…親への挨拶とか、必要だよね…」
「そうだ…考えてなかった…」
「まいっか。なんとかなるでしょ」
「そうだな」
そんな話をしているうちに市役所に到着し、あたしたちは記入カウンターに置いてある婚姻届を手に取った。ぺらっぺらの薄い紙だった。
「どうする? 今書いて出しちゃう?」
遼太郎はやけにテンションが高かった。もちろん、あたしも妙な高揚感でおかしなテンションになっていた。
「印鑑持ってんの?」
あたしがそう訊くとヤツはズボンのポケットからケースに入った三文判を取り出した。あたしも負けじとバッグから印鑑を取り出し、とりあえず上から順に用紙を埋めていくことにした。
夫になる人:荻野 遼太郎(おぎの りょうたろう)
妻になる人:米村 歌子(よねむら うたこ)
こうして書いてみると、なかなかパンチのある作業だなと思った。
婚姻後の夫婦の氏を選ぶところで、あたしが迷わず『夫の氏』にチェックを入れると、隣にいた遼太郎が「え!?」と大きな声を出した。
「びっくりしたぁー……何?」
あたしはそう言ってヤツをにらみつけた。
「いや…苗字は俺のでいいの?」
「そうだよ。あたしはあたしの新たな人生に向けた覚悟のしるしが欲しいの。それとも何? あんたが米村になりたかった?」
「そういうわけじゃないけど…いやでもやっぱそれも少し考えたかな。もしもお前が望むなら、米村遼太郎が爆誕してもいいとは思った。名前に特にこだわりないし。それより今は選択的夫婦別姓とかいろいろ言われてるから、苗字に対してもうちょっと慎重になるかと思っただけ」
「それ…2024年の今はまだない制度の話でしょ? あたしは今、できるだけ早く子供が欲しいし、そのための結婚だから」
「…なるほど」
そう言ったあとで、遼太郎は笑い始めた。あたしが怪訝な表情でヤツを見つめていると、ヤツは「ごめんごめん」と言いながら理由を説明を始めた。
「俺らってわりとずっと仲良かったから、結婚もスムーズにいくと思ってたけど、なんかこういう序盤でも意思確認とか必要になったりするんだって思って。この先どうなるんだろうって思ったらなんか笑っちゃった」
「2人でひとつのことをする機会がなかったからね。映画製作してたときはもっと喧嘩してたよ」
「確かに。そうかも」
「ま、あの時みたいにひとつひとつ乗り越えて行けばいいさ」
「…なんかお前すげー冷静だな」
「見直したか?」
「さすがミスタークールコア」
「誰が呂布カルマだ」
あたしたちは気を取り直して再び用紙の記入を進めた。
届出人署名の欄に印鑑を押す場所があったが、任意となっていた。
「どうする? 一応押しとく?」
あたしは遼太郎に訊ねた。
「そうだね。せっかくだし、記念に押しとこか」
そう言ってヤツは備え付けの朱肉に判をつけ、婚姻届の上まで持ってきた。
「…なんか妙に緊張するな」
「いやそれ任意だから。重要じゃないから。それにさ、2人でやってみようって決めたじゃん? だからとりあえずやってみて、どうしてもダメだって思ったらその時考えればいいよ」
あたしはそうヤツに言いながら、同時に自分自身に言い聞かせていた。
「…そうだな。とりあえず、これが初めの一歩だ」
そう言ってヤツは力強く判を押した。そのあとで、続けてその隣の欄にあたしが判を押した。ひとつの節目を感じる瞬間だった。
けれども次の欄にふと目を移すと、『証人』という欄が2名分設けられていた。
なんか聞いたことある、と思った。
あたしはおそるおそる用紙を持って一人で受付カウンターまで行って中の市役所職員に訊ねた。そして、記入カウンターの横でミーアキャットのように待っている遼太郎のもとに戻ると、確認した内容を報告した。
「必須項目だって。2名。必ず」
あたしはこのとき、あたしたちが想いを込めて押した任意の印鑑がどうでもよく思えた。
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