実験レポート:結婚1日目(昼)(1)

 快晴の5月某日の午前8時45分、あたしと遼太郎は神奈川県の某市役所にいた。

 

 そして今の時刻は午前10時30分、あたしたちはかすかに潮風の香る静岡県の某駅の前で迎えを待っていた。


 どうしてこうなったのか。


 状況を整理しよう。



 市役所で婚姻届の記入を進めていたあたしたちは、証人が2名必須であることを知った。そこであたしたちは緊急会議を開いた。議題は誰に頼むか。


 まずはじめに浮かんだのは常盤先輩だった。彼女は育休中で、家はそんなに遠くない。常盤先輩からもう一人誰かを引き出して2人目を確保する。これが最も効率的なプランだと思った。


 けれどもあたしたちは迷った。先週飲み会で会って、今日婚姻届にサインもらうて…と。あたしの頭にはにやにやとした常盤先輩の顔が浮かんだ。


 彼女はさんざんあたしたちに「もう付き合っちゃえばいいじゃん」と言い続けてきた。彼女の思惑通りに事が運んでいると思われるのが耐えられなかった(まあ、実際そうなんだけれども…いやそうじゃないけどその弁明はできない)。


 そんな相手に頼むことはできない。

 

 遼太郎も同じ気持ちだった。


 そこであたしはプランBを思いつく。あたしの実家は静岡県で、電車で2時間もかからない。母親は家にいるはずだ。今からちょろっと行ってぱぱっと書いてもらって、今日のうちに市役所に提出することは十分可能だ。親への紹介も済ませることができる。


 一石二鳥だ。


 あたしも遼太郎も、日を改めるという考えはなかった。鉄は熱いうちに打たなければならない。


 あたしは市役所を出てその脇の駐輪場で母親に電話をかけた。


「もしもしお母さん? 今だいじょうぶ?」

「んー…どひたのー…あんた今日休みなのー?」


 母親は何かもごもご食べていた。のん気なものだ。


「あのさー、ちょっと頼みがあるんだ。頼みっつーか、お知らせっつーか」

「何ぃ? お金ぇ? あ、あんたまだお米あるの? 全然返事返さないじゃーん」

「米はまだあるよ。それよりさ、あたし今市役所に来ててさ。婚姻届を提出しようと思って」


 電話口から何かを噴き出した音が聞こえ、続けて盛大にせき込む音が聞こえた。


「え、何? あんた結婚するの?」

「そうそう。それで今その人と一緒に市役所に来てるんだけど、証人がいるらしくて」

「あんたそんな急に……ってあそうだ、ちょっと待って。ビデオ通話に切り替えなさいよ」

「え、今?」

「そうよ。早く早く」


 急かされるままにあたしはビデオ通話に切り替え、スマホのカメラに向けて手を振った。


「やっほー、お母さん」

「あんたは別にどーだっていいのよ。お相手の方を映しなさいよ」


 あたしは言われるままにカメラをパンさせて遼太郎を映した。


「どうもお母さん。ご無沙汰してます。荻野です」

「あら荻野さん? 確か大学が一緒の…」

「そうですそうです。すみません、突然のことで…」


 2人は大学の卒業式で一度会っている。そのほかにも遼太郎のことはあたしと母親との会話で何度か話に出したことはあった。


 遼太郎はぎこちない笑みを浮かべていた。映画ならリテイクものだ。


「あらいいのよ。どーせ歌子が振り回してるんでしょ? ごめんなさいね、ご迷惑かけて。それよりあなたたちお付き合いしてたのねー。いつから?」

「えっとそのー…1年…くらい前からですかね」

「まぁそおなのー。歌子ったら全然言わないもんだから。それで何? あなたたち本当に結婚するの?」

「はい。よろしくお願いします」


 遼太郎は力強く言った。80点だ。


「わかったわ。それじゃあ今からうちに来なさいな。駅に着いたら連絡して。迎えに行くから」


 そう言って通話は終了した。あたしたちは安堵のため息をシンクロさせ、達成感を共有した。


 母親がすんなり事を受け入れてくれたのは少し意外ではあったが、妙に納得できる部分もあった。母親の父親…つまりあたしのおじいちゃんは漁師なので、母もその遺伝子を受け継いでいるのかもしれない。


 釣った魚を逃がすまいとする、意志。


「よし遼太郎」

「何?」

「今からダッシュで家に帰ってこぎれいな服に着替えてこい。駅で待ち合わせてそれから出発だ」

「了解!」


 ヤツは脇90度、足の開き60度の敬礼をし、回れ右をして駆け足で去っていった。あたしは駅へと向かう道すがら、遼太郎があたしの親に渡す用のお菓子を買っておくことにした。

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