実験レポート:結婚1日目(朝)(1)
あっという間の1週間だった。あたしは休み明け早々に有給申請を出した。職場はコールセンターで、あたしはプリンターのカスタマーサービス部門でチームリーダーをしていた。有休は溜まりまくっていたので何の問題もなかった。
それよりあいつは有給申請をしたのだろうか?
棚に並べられたプリンターの実機チェックをしながら、あたしはあの日の約束について考えた。そして、まったく後悔していない自分を発見した。むしろあたしはかなり前向きだった。空き時間に市役所で婚姻届をもらえる時間帯を調べたりしてたくらいだ。提出は夜間でもOKなのかぁ、などとのん気に考えていた。
問題はヤツの動向だ。『中止の場合は事前連絡ルール』を導入したせいで、気軽に連絡を取れない状況を作り出してしまった。そのためヤツの心情を確認する術がない。あたしは普段よりもLINEの通知に敏感になり、母親からの「お米まだある?」連絡にすら心臓をもぎ取られるほどびびったりもした(母スマン)。
そんなこんなで、約束の金曜日を迎えた。
朝7時。ドアホンが鳴ったとき、あたしはベッドの中にいた。昨晩妙に緊張してうまく寝れなかったので、深夜2時までコンビニで買った酒を飲んでいたのだ。歯磨きもしていなかった。
顔をぶるぶる撫でながらドアホンの前に立つと、画面の中にはやはり遼太郎が立っていた。見慣れた5分袖の灰色のパーカーを着ていて、マジでただ遊びに来ただけなんじゃないかと思った。
あたしはドアホンの通話ボタンを押し、しゃがれた声で「上がってこい」とだけ言って玄関のロックを開け、あしたのジョーのラストシーンのような格好でベッドの端に腰を下ろした。
しばらくしてノックもせずにドアが開き、ヤツが入ってきた。ヤツは玄関で靴を脱ぎながら「おじゃましまーす」と誰に言ってんのかわからないような小声でつぶやき、1Kの部屋のキッチンを抜けて部屋の中へと入ってきた。そして入ってくるなり「相変わらず汚ったねぇなぁ」と言った。
「まあ座れよ」
あたしは姿勢を崩さずに言った。正確にはまっ白な灰になったままで言った。
「…え? 座るってどこに?」
ヤツは散らかり放題の部屋を見回して言った。
「自分でなんとかしろ」
あたしはなおも姿勢を崩さずに命じた。
ヤツは「そんなセルフサービスあんの?」とぶつくさこぼしながらテーブルの脇のゴミやら畳んでない洗濯物やら髪の毛の絡まったブラシやらをどけていった。そうしてヤツがなんとかスペースを確保して座ったタイミングを見計らって、あたしは告げた。
「これがあたしだ」
ヤツは黙ってうなずいた。
「片付けができない。洗濯物は畳まない。料理もほとんどできない。そのくせお茶漬けにだけは異様なこだわりを見せる。それがあたしだ」
「知ってるよ」
ヤツはこともなげに言った。
「すっぴんはひどいし、お腹周りは緊張感がないし、身体だってでかい」
「正直お前がすっぴんだろうがばっちりメイクだろうが、俺にとっては大差ない」
「それにあたしは…」とさらに言葉を続けようとすると、それを遮るようにヤツは言った。
「お前がちょっと悪ぶった男に振り回されるような恋愛が好きなのも知ってるし、試食コーナーで2、3個食べるくらい面の皮が厚いのも知ってるし、40万円の矯正下着を買って3週間で使わなくなったのも知ってる」
「やめろやめろやめろ! 無断で傷口をえぐるな!」
あたしは慌ててヤツを制した。
「それでも俺は、全部踏まえたうえで、お前と結婚したいと思った。お前といると楽しいし、これまでずっと一緒にいても全然飽きなかったから。だからここに来た」
そう言ったヤツの目には、覚悟を決めた男の意思が感じられた。
「お前こそ俺でいいのか? 俺は給料も安いしこの先上がる見込みもない。今の仕事が好きだから転職する気もない。それに俺は天パだし鼻も低いし、全然桃李くんじゃない」
そう言って遼太郎は壁に貼られた『娼年』のポスターを目で指した。昨日のうちにはがしておけばよかったと後悔した。
「お前に養ってもらうつもりは毛頭ない。それはあたしのプライドが許さない。それに桃李くんはもう戸田恵梨香と結婚してしまった。2人が離婚するまで、あたしにチャンスは巡ってこない」
「いや万が一離婚したとしてもお前にチャンスなんかこねぇよ」
遼太郎の冷静なツッコミにあたしは、そりゃそうだ、と思った。桃李くんはあたしが30代の疲れが残りやすくなった身体に鞭打って出社するときの心の支えになってくれた。仕事で嫌なことがあっても、桃李くんのまなざしが心の奥のしこりを優しく溶かしてくれた。それだけで、十分だ。
ありがとう桃李くん。
あたしは夢(桃李くん)にさよならして、これから現実(天パ)とともに生きることにするよ。
………現実?
とあたしは思った。そしてあたしは不安に駆りたてられながら遼太郎に言った。
「最後にひとつだけ、質問をさせてくれ」
「何?」
「あたしたちの目的は結婚ではなく、その先の妊娠、出産、子育てだ」
「お…おう」
「それを共通の認識として、今からお前に重要な質問をする」
「いいから早く言えよ」
「お前のは…使いものになるのか?」
「……ん?」
「お前はあたしで勃つのかと訊いている」
時が止まった。
鳥は静止し、地球はその回転を止め、宇宙は膨張を止めた。
それは一瞬かもしれないし、はたまた永遠かもしれない。
なにしろ時間が止まっているので正確な経過時間など計りようがなかった。
刹那と無限の果てで、遼太郎はその口を開いた。
「そっか…そうだよな…考えたこともなかった…今までただの一度も…お前をそういう目で見たことがなかった…」
「先に断言しておこう。もしもお前がその場で勃たなかったら、あたしは絶対にショックを受けるし深く傷つく。そしてお前はそんなあたしのメンタルケアに膨大な労力を注がなければならなくなる。お前にその覚悟があるのか?」
遼太郎はそれについて少しのあいだ考え、そしてあたしにこう訊ねた。
「…結婚前に、一度試しておくってのは?」
「ならん。あたしはそんな安い女ではない」
あたしはにべもなく答えた。
ただそう言ったのは言葉のあやで、実際あたしはそんなに貞操観念の高い女ではない。元カレとも普通にしてきたし、婚前交渉に何の拒否感もない。かのSATCにも、車は買う前に試乗しとけという名言もある。
けれども今回の事案に関して言えば、事情が変わってくるとあたしは本能的に思った。もしも結婚前にだめだとわかった場合、この結婚自体がなしになる可能性がある。そうなっては、あたしはまた元の状態を持続することになってしまう。
あたしは前に進みたかった。変化をもたらすこのチャンスを逃したくなかった。
それならなぜそんな質問をしたのだろうと思ったが、それは間違いなくあたしのうっかりミスだった。けれどもその質問はあたしの心から出てきたもので、事実、あたしはそのことを、傷つく未来を恐れてもいた。女の子だから。
やがて、あたしのそんな思惑に沿うようなかたちで、遼太郎は言った。
「まあでもたぶんきっとおそらく大丈夫だと思うよ。たぶんきっとおそらく」
「……お前のその言葉、信じるぞ」
「おう、信じてくれ」
そう言って遼太郎は笑った。こいつの笑顔には妙な説得力があった。こいつが笑ってるんだから、たぶんきっとおそらく大丈夫なのだ。
「お前のほうこそ大丈夫なのか?」
遼太郎があたしに訊ねた。
「何が?」
「お前も俺とするとき、ちゃんと濡れるのかよ」
「……とりあえず、万が一に備えて潤滑ゼリーだけは買っておくよ」
あたしの返答に、遼太郎は「なるほど」と素直に言った。こいつのこういう素直なところが、友達として信用できるんだよな、とあたしは密かに思った。だからせめてもの情けで、潤滑ゼリーと一緒にドリンク剤だけは買ってやるかと思った。ウワサに聞く例の薬は、最後の手段だ。
あたしは大きく伸びをして立ち上がり、締め切っていた遮光カーテンを開いた。外は見事な五月晴れで、舞い上がった大量の埃がキラキラと輝きながら部屋の中に美しい光の筋を作った。あたしは振り返ってその光に照らされた遼太郎の顔を見た。こののん気で間の抜けた緊張感のない憎めない顔が、あたしの夫になる人の顔なんだと思った。
あたしは遼太郎に向かって右手を差し出して言った。
「結婚してみるか」
遼太郎は笑って立ち上がり、同じく右手を差し出してあたしの手を強く握って言った。
「おう、結婚してみよう」
固く握ったあたしたちの手を照らす光は、まるで神様が祝福してくれているようにも感じた。
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